「愛」を知るにはどうしたらいいのか? | Spiritual Dreaming ★ スピリチュアル ドリーミング

「愛」を知るにはどうしたらいいのか?

人は大切で、素敵な存在である。人は「愛」で繋がり合うことができる。人は、「愛」の元に平等であって、「愛」の元に生きている。

私は、これらを信じる根拠が欲しい。根拠が得られれば、「愛」の元に安心できるからである。

多くの人に「愛」の素晴らしさを語りたいなら、「愛」を知る必要がある。頭での理解はできなくても、「愛を」信じる根拠が欲しいと思う。

「愛」というふうに「」でくくっているのは、愛を強調したいからである。愛は人によって定義が違う。ここで扱いたいのは恋愛の愛でも、愛嬌の愛でも、母親の愛でもない。

「愛」そのものである。それは、失うことのない無条件の「愛」であり、慈愛の「愛」である。

では、「愛」は知ることができるのだろうか?

私は、「愛」は「神」と同じだと考えている。

A Course in Miraclesにも「愛」と「神」は同じであることが書かれているので、私だけがそう捉えている訳ではないようだ。

「神」が脳も言葉も超えている存在であるなら、「神」は頭では決して理解できるようなものではないのだろう。なので、「神」と「愛」は同じであるなら、「愛」も理解できるものではないことになる。

それなら、人はなぜ「神」と「愛」という言葉を持ったのだろうか?

理解できないけれど、知っているということだろうか?

「神」と宗教というのは関連があるだろうが、違う意味を持っている。イスラム教もユダヤ教もキリスト教も同じ「神」を信じているが、違う宗教である。そして、イエス・キリストはキリスト教の信者ではない。

無神論者というのも面白い表現である。「神」がいることを前提としなければ、無神論者にはなれない。なぜなら、否定をするためには、まず「神」というものの定義が必要となり、その上で「神」が存在しているからである。

なので、無神論者には「神」の定義ができるのだろう。これは、凄いことである。

定義すると、その逆というのも生まれる。「神」の反対が生まれるのだ。反対が生まれるなら、「神」は完全ではないのだろう。

たとえ、数学的に完全は存在しないということが証明されたとしても、それは数学においての完全の定義の上でしか成り立たない。

完全を超えた「完全」があると言ってしまえばすむ。

言葉でも数学でも説明できないものを定義することはできない。なので、不立文字なのだろうし、教外別伝なのだろう。

一つ言えることは、「神」がこの世を作ったのではなく、脳がこの世を作っているのは確かだと思えることである。

半導体レーザーの780nmの電磁波を赤色として見ることができる人もいるけれど、その波長を知覚できない人もいるので、赤色のない世界に住んでいる人もいる。

同じ室温であっても、私は暑く感じ、他者は寒く感じている時もある。

同じ映画を見ても、批判的な意見ばかり言う人と、ただ感動して言葉を失っている人もいる。

体験と世界を分離することはできない。その人にとっては、世界は体験の上に成り立っているからである。

では、「神」は体験できるのだろうか?

私は、「神」そのものを体験できるとは考えていない。体験できるとしたら、「私」が体験できる「神」の一部であって、「神」そのものではない。

なぜなら、「神」が完全なら、完全から離れることができないので、客観的になることなど不可能だからだ。

そうなると、「愛」と「神」が同じであるなら、「愛」のない体験というのをすることができないということになる。

「愛」を知るということは、観察者バイアスかもしれないが、全てのものの中に「愛」をみようとすることによってしか、知ることはできないのだろう。

それなら、「愛」を知るために私に必要なのは、「愛」をみるための知覚の変化だけである。

「人は大切で、素敵な存在である。人は「愛」で繋がり合うことができる。人は、「愛」の元に平等であって、「愛」の元に生きている。」ということを私は信じるし、そのような心の目で人々をみよう。

いつしか、知覚が変化し、人々の中の「愛」の光を体験できるように。

深瀬 啓介

一般社団法人ME応用心理学研究所
http://www.cog.pw/