エホバの証人 新潟県元2世会衆 jw.org→jw.orz -4ページ目

エホバの証人 新潟県元2世会衆 jw.org→jw.orz

jw.orgにいた2世がjw.orzになり、やがてとあるプロテスタント教会のしがない牧師にと流れ着いたある男の徒然草。
新潟県のエホバの証人元2世の戦友が出会えるきっかけの場になればいいかなー

思い出話です。

中学2年の時にバプテスマを受けていない伝道者になって、「やっと同学年の連中と同じステージに立てた」という思いで奉仕活動に参加し、そんなに時間の入らないペラペラの奉仕報告を出していたあの頃。

離れて18年経って、改めてあの頃を思い返すと、一体自分は何をやっていたんだろう、と思うんであります。

天に宝を積む、なんて言っていたけど、時間と雑誌とかを捌いた部数の数字で、何が宝だったんだ、と。
俺たちがやってきた迷惑行為で、何が宝だ、と。

今思うと、本当に自分は一体何のためにやっていたんだろう、と思うんであります。

現在、牧師という職分になってその視点から思うと、はた迷惑な雑誌とかを配っていくことよりも、与えられている繋がりがある人々を大切にしていくことの方が、よっぽど天に宝を積むことだと思うんですかねえ。

本当に何のために時間を犠牲にしていたんだろう。
どうでもいい話ですが、JW時代に貧乏ゆえ果たせなかった夢がようやくこのほど叶いました。

SL列車乗車です。

大井川鉄道C108

▲C10形機関車。編成両数が多かったので、最後尾にはこれも旧型の電気機関車が補機として列車を押しています。


大井川鉄道旧客車内

▲旧型客車車内。網棚は文字通り「網」棚。


大井川鉄道暖房スチーム

▲車体とホームの間からは暖房用のスチームが少し漏れています。今では見られない光景です。


大井川鉄道井川線

▲どうせなので、軽便鉄道規格の列車に乗ってさらに山奥に入りました。山の紅葉は綺麗でした。

本日はこの辺で。
JWを脱出する1年前、家庭聖書研究なるものを打ち切られたことがあります。

とある奉仕の僕の兄弟と4年くらい、あの毒々しい赤の『楽園』の本をテキストにしてやっていたんですが
(というか、聖書そのものを研究しているわけじゃないから「看板に偽りあり」だろ)
私が予習をきちんとやらないことがずっと続き、答えも深みがないものであったため
(ここで言い訳。だって高校受験を控えていたんだもん)
その兄弟がさじを投げちゃったんでありました。

「あなたは進歩がない」

この最後通牒の言葉と共に。

その後、家庭聖書研究の司会者は親に移されたんですが、こっちはやる気なし、受験でそわそわ、まったく進まず。研究そのものもしなくなりました。

やがて、最後通牒を突き付けられた1年後には脱塔(ただし自然消滅)するに至ったのでした。
脱塔の直接の要因は全然別のところ(オウム事件とJW批判本)にあるのですが。
しかし、受験勉強と共に最後通牒がJWと距離を置く契機の一つになったのは確か。

何はともあれ、私に最後通牒を突き付けた兄弟に対して、私は大いに感謝しなければなりません。

だけど、「進歩がない」宣告は研究生にとって死刑宣告に近いものがありますな。
記事として上げて良い話題なのかどうか迷いましたが、上げることにします。
時局に関わる話題です。時局に関しての賛否のコメント、議論は避けて下さい。
書かれた場合は当該コメントを消させていただきますので、悪しからず。

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私たちがいたJWというコミュニティーの中では、多くの方々がサイトのコンテンツやブログの記事で上げて下さっているように、不都合な情報の隠蔽、取得できる神学的情報の単一化、相互監視体制、削除や排斥という名の処罰がまかり通っているものであります。
その内容については、いちいち上げる必要はないでしょう。きりもないですし。

そのコミュニティーは、一言で言えば「自由に情報を入手し、思考し、発言することが許されない」もので、一部の方を除けば息苦しいものです。

そのコミュニティーの中で、私たちは様々なことを経験しました。

その経験したことの一切は、時代の先取りとして味わった経験なのかも知れません。
非常に遅い夏休みで、今年の春に誕生したJW的ブラック聖地に滞在しております。

聖地に来たならば、これをいただかなきゃいけないでしょう!

名古屋コーチンつがい
(愛知県ホームページより借用)


名古屋コーチンの


20131125モリスチャン愛を込めて01

手羽先
を!


20131125モリスチャン愛を込めて02

アメブロ会衆の成員の皆様に、モリスチャン愛と挨拶をお贈りいたします(違

実は遅筆である。
特にパソコンのキーボードを前にするとそれが顕著になる。

そういう私が、数年ぶりにチャットに挑戦したんであった。
他の入室者の投稿速度の速いこと速いこと。
ついていくのに一苦労。
投稿や返信が、スリーテンポ以上遅れる状態になったのであった。

いやー、自分の鈍くささにがっくりした次第であります。
と言いつつ、無謀にも「またやってみよっと」と思う自分もいたりして。
私の母がJWにずぶずぶはまっていったのは、私が3歳を過ぎたあたりからであります。
ちょうど、父が「三年目の浮気」を地でいき、「五年目の破局」どころか「四年目の破局」をやり遂げてしまった時にあたります。



ヒロシ&キーボーもびっくりだよ。
三年目の浮気は大目に見られることはありませんでした。親父は開き直ったのです(笑)

家で祝った最後の誕生日は、私が3歳の時でありました。
ケーキに蝋燭が3本立てられ、それを囲んでお祝いの時をもちました。
その時、父はどこかに行っていませんでした(笑)

父を除く家族3人(母・私・妹)でハッピーバースデーを歌いながらやる例の儀式。
しかし、蝋燭に火を灯してハッピーバースデーを歌おうとした途端に、妹がすぐ
「フッ!」
と蝋燭の火を消してしまう。
母が「ダメだ」と言って仕切り直そうとしても、また同じことを妹は繰り返す。
最後に妹は母に怒られ、ビェ~と泣き叫ぶ散々な誕生会だったんでありました。

これが最後の誕生会。
1年後、母に「誕生日祝ってくれないの?」と聞いたら「もうやらない」と言われ、ショボンとしたのでありました。
それ以後、私に関しては家族で誕生会をしていません。

誕生日を再び祝うようになったのは、神学校に入学してからでした。
夜、寮の食堂で4、5人の寮生たちが、たまたま誕生日だったか、誕生日が近い神学生か誰かが祝われていた時に、「実は…」と、自分の誕生日当日だったか、誕生日が近いことを申告したのでありました。
で、お祝いとして「こどもさんびか」の誕生日の歌をプレゼントとして歌ってくれたのでした。



20数年ぶりの誕生日のお祝いは本当にささやかなものでした。でも、ジーンときて、目頭が熱くなったお祝いだったのでした。

誕生日を祝うのって、その人のいのちを覚えることなんですね。

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余談ですが、数年後に私はその誕生日の讃美歌を作曲した人が在籍していた教会に4年間赴任することになったのでした。
脱塔後、どう生きていくのか。
元JW2世の一田舎牧師としての意見をちょこっと書きたく思います。

「ちょこっと」と書きつつ、Wordにコピペして文字数をカウントしたら、毎週の説教原稿メモの分量とほぼ同じの原稿用紙4枚弱になっちゃいましたけどね。

 ◆ ◆

20世紀末、最初にJW脱出に関わったのは、プロテスタント福音派の牧師たちでした。現在も継続して関わっている方々がいます。そのうちの数名の牧師は私の知り合いです。

彼らの基本スタンスは「救済」であります。

すなわち、キリスト教から見てハチャメチャな教理(実際そうなんだけど)を持つJWからJW信者を救い出して、キリスト教の信仰に導こう、というスタンスでJWからの救出活動(違和感あるでしょうが、実際にその語が使われていたんです)が行われていたのです。

今はもう絶滅状態ですが、家族・親族ぐるみでJW信者をどこかのペンションとかに缶詰にさせ、ディプログラミングをするということが、当時行われていました。

それでJWのマインドコントロールが解けたJW信者が、その後キリスト教の信者になっていくというケースがよくありました(全員がそうなったということではありません)。

 ◆ ◆

知り合いの牧師を含め、JW脱出に関わった牧師たちの活動を否定するつもりは毛頭ありません。

しかし、JWからほぼ間断なくキリスト教に移っていく、ということは、本人にとって本当によかったのか、という疑問があります。

確かに、キリスト教の教理において、イエスをキリストと信じることによって自由を得ることができる、というのはある。それは教理的に全く異存ないことです。だけど、当人においては、聖書宗教という枠の中で、カルト性の極めて高い宗教集団から普遍的な既存の宗教集団に移行したに過ぎないのです。つまり、聖書宗教の枠から出て自由に思索することのないまま、JW脱出後の人生を歩み始めてしまった、ということ。

 ◆ ◆

また、JW脱出して間もなくのキリスト教信者の、良くも悪くも「熱心」な思考・行動パターンは基本的に変わっていないことが多いです。

当人が子持ちだったら悲劇が生まれます。王国会館と奉仕活動に子どもをドナドナしていたのが、今度は「今まで間違っていたからこれからは教会へ」と教会に子どもをドナドナしてしまう。

子どもにしたら、「エホバ」が「キリスト教」にすりかわっただけで、子どもに対する対応は何にも変わっていない。

子どもとしてはたまったもんじゃありません。親の宗教的身勝手に振り回されたまんま。

 ◆ ◆

私としては、JW脱出後しばらく数年間は宗教から自由になって生きるべし、と思うんです。葬式や法事で、お寺との最低限の付き合いはやっていくにしても。

そして、それでもやっぱり自分には宗教が必要だ、と思うのであれば、教会なりお寺なり神社なりに行って信仰者となればよい。

で、子どもは思いっ切り自由にさせてやれ。間違ってもJW親みたいな真似はするな。

そんな感じですね。私のスタンスは。

 ◆ ◆

9月に、地区の教師会(牧師会)で「エホバの証人の子どもたち」というタイトルで発題をしました。
もともとその発題は、他教区の教会から今の教会に異動したこともあり、自己紹介を兼ねて去年の今の時期にする予定だったのですが、葬儀が入ってしまい教師会欠席となったため持ち越しになったものでありました。
まあ、オチも何もない話だったんでありますが、牧師連中が集まっている会合でありますので、どうしても教会の宣教に絡めて話を結ぶ必要がある。
で、私が出したその話の結びは
「教会ができることは何もない。
 元JW2世を宣教の対象と考えるな。
 もし、ふらっと教会に来たら
 お茶菓子出して話を聴くくらいにとどめろ。
 絶対伝道しようなどとは考えるな。
 もし伝道なんかしたら、彼らは敏感に察知して
 二度と教会に足を向けることはない。」

まあ、身も蓋もありません。
でも、これが適切な対応だと、現時点では考えております。
昨日、本務教会の日曜日の礼拝を執り行った後に電話がかかってきました。

その電話は市内の結婚式場からかかってきたもので、式場のミスで結婚式を司式する牧師を手配していなかったため、急きょ司式をお願いできないか、という泣きの電話だったのでした。
式の開式時間を尋ねると、30分後とのこと。電話口のスタッフの方は焦りと半泣き状態でありました。
しかし、本務教会から式場までの移動時間と、祭服などの荷物の準備時間を合わせると同じくらい時間がかかるわけでして。しかも、それからは兼務教会での礼拝司式・説教・聖餐司式のフルコースが控えています。

そこでやむなく、こちらの予定の事情を話してお断りしたのでした。スタッフの方が気を落として電話を切ったのが伝わってきたのでした。

その後、その式場が無事に司式者たる牧師を確保できたのかどうかは知りません。多分、確保できずに挙式費用全額払い戻しという事態になってしまっているのではないかと思われます。
何しろ、私が住んでいる地域で、電話がかかってきた時間帯に自由に動けるホンモノの牧師は1人だけ、なおかつ同業他社の専属牧師なのですから。

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JWの結婚式(リンク先はその一例)には、2回ほど参列したことがあります。

1回目は、所属会衆の王国会館で行われた結婚式。
恰幅のいい兄弟と小さく細い姉妹の凸凹カップルの結婚式でした。
質素で簡素な式だったことを覚えています。

2回目は、多目的ホールで行われた結婚式。
その多目的ホールというのが、当時よく巡回大会や特別一日大会で使っていた施設であったのでした。巡回大会や特別一日大会では大ホール、その結婚式では中ホールでありました。
その中ホールの収容人員は412名。その結婚式では300は埋まっていました。

その結婚式のカップルは、所属会衆から必要の大きな地域に移った(んだったけな)姉妹とその地域にいた兄弟(地元民か同じような立場だったかは記憶にないが)でありました。
もう20年以上前のことですので、式の内容はほとんど忘れてしまいましたが、式中、演台でしゃべっていた長老が役所が交付した紙切れをヒラヒラ掲げて「この二人は婚姻届が受理された正式な夫婦ですよ~」ということを話していたことだけ覚えております。

興味本位でそのホールの利用料を見てみたら、総額10万円ちょっと。意外と安価だったのでした。
しかし、結婚式で緞帳付き多目的ホールを使う例は後にも先にもないことでしょう。

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しかし、さっきのリンク先のカップルの目が死んでいるように見えるのは私だけでしょうかね。
他のアメブロではJW脱法・違法融資疑惑がホットになっていますが、ここでは別の話題を。

数日前に来年の年賀はがきが発売されました。
牧師と呼ばれる仕事に就いて今年で6年目になりますが、仕事絡みでつながりが増えたことで出す年賀状の枚数は年々増え続け、今度は200枚を超えそうです。
郵便局の方には大変申し訳ないのですが、今年も郵便局員に対する過剰なノルマによる自爆営業で金券ショップに山積みになっている年賀はがきを買うことにします。

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JWでは年賀状をやりとりすることはご法度であります。

現役2世だった小中学生の時、同級生からお年賀が届いても返すことも何もできないわけでして。年賀状を送ってくれた同級生から「年賀状返事くれなかった」と文句を言われたこともありました。
そんなこんなで、私のもとに届く年賀状の枚数は年々減っていくわけでして。喪中でもないのに1枚くらいしか届かないこともありました。

JWを脱出した高校1年の冬、年賀状をついに自主解禁。
「ようやく不義理をせずにすむ」と思いつつ、せっせと出したのでありました。

それから18年。
手書きで宛名を書くことが苦痛になってきました。人間、勝手なもんですね。
でも、手書きの宛名をやめてしまったらダイレクトメール化してしまいますので、少しでも人間の温もりを残すためにやめるわけにはいきません。

今のところ喪中になる見込みがないので、今回は早めに宛名書きを始めることにします。
前回は年が明けて数日後に出し終えたという体たらくぶりでしたので。