オスカー作品賞・脚本賞映画【スポットライト 世紀のスクープ】から | ExcomAdvisorのブログ

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本稿は私・平田幸治の個人の意見・見解等を綴ったものです。

「今宵(4月22日)オスカー作品賞・脚本賞映画『スポットライト世紀のスクープ』を観賞します」と、この映画の評をTWしていた今村優莉・朝日新聞記者にTWしたら「楽しんできてくださいね!」とリプライがきたので、「Amebloを書きます」とお返しした。

 ただ、映画の観賞の感想ともいかないし、書き出すと観るまでに読んだ論考評に重複する部分は本稿からは除いた。いつもながら私が読んだ論考評名を文中に掲げているのでご関心を持たれる本ブログの読者に原文のご一読をお勧めする。いずれも私が映画を観る前に接したものである。

 その論考評だが、初出順に、中井大助・朝日新聞NY特派員のトム・マッカシー監督インタビュー構成記事(4月13日朝日新聞大阪31面)、秋山訓子・朝日新聞編集委員『フロントランナー』(4月16日朝日新聞土曜版be)の米ボストン・グローブ紙記者であり当時のメンバーのマイケル・レゼデス記者、サーシャ・ファイファー記者のインタビュー構成記事、藤原帰一・東京大学法学部教授(国際政治)の4月17日毎日新聞【日曜くらぶ】コラム【映画愛】『スポットライト 世紀のスクープ』とデーナ・スティーブンスのニューズウィーク日本版『カトリック教会に盾突いた記者魂』(2016年4月19日号掲載)TW配信を読んだ。

 そして、私がTW投稿をフォローしている朝日新聞の今村優莉記者、中井大助NY特派員、当地岡山出身の石田博士デスク(前ローマ支局長)と谷津憲郎・論説委員の投稿を拝見した。

 この映画だが、米ボストン・グローブ紙が「カトリック教会の神父による児童への性的虐待事件を報道した実話の映画化」(藤原教授前掲)である。私が述べようとしているのは映画評ではなく、映画を観ての所感の一部である。

 さて、中井大助記者とは米プライマリーに関してTWを交換していたしプライマリーの取材で超多忙な中での前掲出稿記事を【文化・文芸】欄で読むとは思わなかったが、読後に「映画を観ます」とTWした。むろん、この映画に彼は今次米大統領選を映じていた。

 朝日の人たちは映画『スポットライト』を観て、「元気が出た」「初心に返った」「地元の問題を追っていたら、世界中に広がる特ダネになった。このあたりがしびれる」・・ジャーナリスト・新聞人らしい感情だと思う。

 ところで、私がこの映画を観て回想するのは、学部を卒業した年の1976年に東京・日比谷の映画館で観た『大統領の陰謀』である。ウオーターゲート事件でリチャード・ニクソン米大統領を辞任に追い込んだ米ワシントン・ポスト紙の当時のカール・バンスタイン記者、ボブ・ウッドワード記者が、ケネディ大統領の友人としても知られていたベン・ブラッドリー同紙編集主幹の指揮で、政府側の電子的監視の中で「ディープ・スロート」という政府内の協力人物もある一連の取材活動を描いた映画である。

 私には、WAP紙のベン・ブラッドリー編集主幹とボストン・グローブ紙のマーティン・バロン編集局長が、'Traces/Memories' なのである。

 そのあたりが、たしかにノスタルジアかもしれないが少し藤原教授の「分析」とは違う人間的要素が入る。その職業を選んだ人の信念と矜持もあろう。むろん、コマーシャルペーパーのデジタルメディア化は急速に進展しているのであり新聞の性格も変容する。

 藤原教授の前掲評結語は「現実が無残だからこそ夢を見たくなる。せめて映画の中でマスメディアの夢を取り戻してください」。

それでも私は、プレスの人々の自覚を喪失したら、光のさす将来の座標を閉ざすことになると思う。普通の人々の今日と明日を暗い過去から解き放つ役割を彼らの調査報道に期待するのである。

 その意味でも、米ピュリッツァー賞のように、日本において新聞協会賞と違った別の独立した機関に日本メディア報道の貢献者をたたえる賞が制定されたらと考えるのである。<了>


《追記》
 本稿を書く間、大学の恩師のお一人である故生田正輝・慶應義塾大学名誉教授(元日本新聞学会会長)の著書『マス・コミュニケーションの研究』(慶應通信、昭和43年4月15日発行)を側に置いた。生田先生が米マサチューセッツ州ケンブリッジのハーバード大学に研究滞在中に米東部の新聞研究をされ後の大学での講義の口述にもあり私にはそれを教室の最前列に陣取り聴いた思い出と共に先生が偲ばれたからである。本書の研究内容は先生が「ケネディ対ニクソン」の大統領選の討論を全米TV中継で観るころのものだが米国のその後の新聞事情にも先生らしい示唆深いものがある。本稿では触れてないのでご関心の向きは原著をお読み願いたい。