スピリチュアルなつもりは無いといいながら、こんな事ばっかり考えてるんだよ~。

だって面白いんだもん。

どうか、誰も私を正しい道へ導こうとしませんように。

さて、覚醒とか悟りについてだけれども、私はどっちでもいい。

いや、どっちかって言うと「覚醒したく無いかも」と、ちょっと思ってる。

どうも、聞いたところによると、私達は完全に完璧な全体意識が、完全さに飽きちゃって、不完全ごっこをしに来たらしいじゃないですか。
愛しいあの人も、腹の立つあの人も、なんと実は同じひとつだって噂です。
あんな良い事も、こんな悪い事も、とくに意味のないただの現象ですってよ。

それで覚醒しちゃうと、その仕組みみたいなのが解っちゃうわけでしょう?
知識としてじゃなく、感覚として。
もう視点が変わっちゃうんでしょ?

まぁ、良いんだけど、それでも。

でも、壮大な暇つぶしゲームをしてるとしたら、

ゲームの醍醐味 減っちゃわない?

って思うんだよね。

そういう意味では、覚醒しない方がゲームを存分に楽しんでると言える。
ゲームって気付かない位どっぷりなわけだから。

だから覚醒しない方がいいかも、とちょっと思ってる。

してみない事には、どっちが面白いのかなんて分からないけどさ。

解っててやってる方が無茶しそうだよね(笑)
「いや、大丈夫だし」とか言って。
何があってもへこたれなくなりそうだね。

そう考えると、そっちも楽しそうだなぁ。
色んなことに振り回されるんじゃなく、望んで巻き込まれる。
選択してることに自覚がある。

うーん…面白そうだぞ。

でもきっと、どっちのバージョンでやるのかは、私が決めることじゃ無いんだろうね~。
ゲームしてる人(?)が決めるんだろうね。

じゃあ、やっぱり どっちでもいいや。
今は今の自分しかいないんだし。
人様のブログのコメントを読みながら、「みんなかわいいなーha」とニヤニヤしている。

馬鹿にして言ってるんじゃないよ。

ここんとこ機嫌のよい私はボキャブラリーが軽量化されたようで、大抵の事が「かわいい」か「おもしろい」なんである。

そんな私の心の名言集第一位の座にずっと君臨している一言がある。

宇宙って超かわいい

誰が言った言葉か知らないが、心を捕らえて離さない一言。
どこが気に入ってるかというと、考えれば考えるほど意味がわからないところ。
聴いた瞬間はなんとなくわかるような気がするんだが、よく考えると全然わからない。
この掴もうとすると逃げる感じ。

迷言を超えて名言だと思う。

これが実感としてわかっちゃうと、かなり愛にあふれる感じなのではないかと。
だってもう、宇宙がかわいいんだもの。
全てを愛しく思っちゃうんだもの。

うーん、すごい。これはすごいよ。

そしてこのテキトーな言い草、軽さ。
もう、なにも考えず「そうだよね!宇宙ってかわいいよね!」とか思っちゃえると、無敵な気持ちになってくる気がする。
なんかもう、宇宙は大丈夫なんである。
かわいいんだから。

説明とかムリ!な次元だ。
わけがわからない、根拠が無い、いい感じである。

仕組みなんて知らなくってもいいのだ。
説明なんてできなくってもいいのだ。
ただもう、どーんと受け止めるしかない。

宇宙って超かわいい
考察に当たってのベースとなる考えについて。

全体性(根源)からポトリと出てきた魂が、この世界にやってきて、覚醒するまで転生を繰り返す。
完全覚醒すると全体性に戻る。

このくらいの前提で。
あんまり細かく追求するとややこしい上に、そこまでわからないので。

私はこないだまで、「もういいや。飽きた。輪廻から抜けたい。」と思っていた。
だが今は、「これはまだ続くなー。まあ、それもいいか。」と思っている。

スピリチュアルやら覚醒やら、そんなことに興味持ってる時点でまだ終わらない気がするもん。

なんとなくだけど、今回で輪廻終わり くらいまでいくと、覚醒した状態で一生過ごす気がする。
この場合の覚醒は完全覚醒じゃないよ。
完全覚醒=全体性なので、この世界に存在しなくなると思うから。
この世にいられるギリギリのラインでの覚醒ってことね。

もう、そもそも覚醒しちゃってるから、宗教とかスピリチュアルとか悟りとか関係なし。
だってもう覚醒してる状態が普通なんだもん。
だからわざわざ「私は覚醒した」とか思わない。

この世で生きるのに必要なルールとかシステムの使い方は、必要なツールとして身に着けるけど、それだけ。

この世をめーいっぱい楽しんで、「あー面白かった。もうやりつくした。満足」って思って、終わりにする気がする。
で、そのくらいまで行くと全体性に戻るか、また転生するか選べるんじゃないだろうか。

キリストさんはもう、わざとだと思うのよ。
わざと転生してる。もうしなくてもいいのに。
だから、「なにこの人?意味がわからない」みたいな事になったんではないかと。
(ちなみにキリスト教徒ではないです。知識もないです。)


あと、もうひとつ思うところがあって、最初に挙げてる前提を覆しちゃうんだけど、
一個の魂が覚醒するまで転生を繰り返すんではなく、
死んだらいちいち全体性に還るのではないかとも思っている。

肉体が死んでも「私」という魂が残っていて、それが転生するんじゃなく、
まず全体性に還っちゃう。
つまり、死んでも残ると思っていた魂も、やっぱり1回きり。
この人生が終わったらこの魂も終わり。

全体性になってしまう。
同じ魂が転生することは無い。

次に転生するときの魂は、たとえば
「佐藤さん60%、鈴木さん30%、田中さん10%で、覚醒度は20%でスタート」
っていう感じで、新たに作られる。
だから前世の記憶があるって人は、その人の割合が多くて、記憶喪失度が低く設定されてるんじゃないのかなぁ。

この場合、キリストさんは「覚醒度99.9%って試してみたくね?」っていう、もう悪ふざけぐらいのノリで転生してきちゃったということになる。

だからもう、前世なんて個人的なもんじゃなく、みんなで共有しちゃってる。
カルマとか思い込み。趣味の問題。
前世の行いとか関係ない。
生まれ変わってもまた一緒になろうね!とか無い。(生まれ変わらなかったら一緒だから。)

自分的にはこっちの考えのほうがしっくりくる。

× 全体性→個々の魂→現世の私
○ 全体性→現世の私

末代まで呪ってやるごっことか
何度生まれ変わっても巡り合うごっことか
全部、全体性の壮大な一人遊び。

もうこの感じでいくと、因果応報とか無い。
だって別に意味無いもん、そんなの。

すごい感じ悪いこと言うと、
「私たちがしてしまった事のツケを払うのは未来の子供たちなんです!」
っていう主張も、考え方からいうと分離の上に成り立ってる。
私たちと子孫は別物っていう考え方。
「自分たちが死んだ後のことなんて知らない」っていう人たちと同じ土俵。

だって全部ひとりでやってるんだもん。

あなたはわたし。
あの人もわたし。
過去のあの人も、未来のあの人も
全部わたし。

ってことはあれだ、輪廻転生はあるけど無い。
この私という存在は永遠だけど1度きり。

ここまで考えてみたものの、この考えどうしたらいいんだ?
この現実にどう活かす?

とりあえず、カルマと因果はどうでもよくなった。
スピリチュアルっぽい事を考えてみようと思う。
気が付いたとかじゃなく、理屈をこねてみちゃう。

自分、世界、この世、全体性、ワンネス等の言葉で表される何かについて。
神についてとも言える。
そーゆーものについて、てきとーに考えてみる。


空間に浮かぶ球体があるとする。
その球体には、無数の「眼」がびっしりとついています。(わ~気持ち悪い)
これが全方位視点、全体性・ワンネスの視点。

そして、この眼のひとつひとつが1人の人間。
各々がひとつずつ受け持った視点がある。
つまり、その人の人生、その人の世界。

ワンネスさんは、全部見たい。
体験している視点だけでなく、体験している所を外側からも見てみたい。

今、「私」は体験していて、それを表現しているけれど、外側から客観的に見るとどう見えるんだろう?
っていうのも知りたい。
その「外側からの視点」が「他者」になる。

「私」という眼には「他者」が居るように見えるが、どちらもワンネスさんの眼なのである。

しかし、一個の眼であるところの私には、「私」の視点しか認識できない。
ワンネスさんが見ている全体像は見えないのだ。

目の前にいる自分以外の人たち。
ちゃんといる、はっきりいる、存在してる「他者」。
しかし、それもワンネスさんの眼のひとつにすぎない。
私と同じワンネスさんの目のひとつ。

だから、他者は居ると同時に実は居ない。
「あなたは私」なのである。

うーん…どうも上手く表せて無い気がするな。

こういうの、言葉で表現するのは難しいね。

「いる」と「いない」が同時に存在する世界。
矛盾が矛盾なく存在する世界。

もとをたどれば全員同じひとつの意識。

あなたと私は同じものの一側面。
だから全員が等しく、同じ価値。

うーむ。なんか、なんだろう、もうちょっと巧いこと表せないかなーと思っちゃうな。
今の私には最善尽くしてこの表現だな。
さあ、恐れを手放して!(ムリヤリ!)
さあ、新しい価値観を受け入れるのです!(ムリヤリ!)

っていうのをやってた事があるな~。
ということに、何の脈絡も無く今気が付いた。
別に楽しくなかった。

イヤなものは嫌なんじゃい!
納得いかねぇ事なんて出来るか!

やってて楽しいならいいけどねぇ。

まあ、つまんない事してみるのも人生ですよ。
やってみて、なるほどこれはつまらない!って確認したいんですよ、多分。

生きてて起こるアレコレなんて、試着みたいなもんですよ。
飾ってあるのを見て、あれ素敵❤あれがいい!って思っても、着てみたらシックリこなかったり。
華やかでは無いものの、すごく着心地がよかったり。
やっぱり思ったとおり、超似合うじゃんコレ!と思ったり。

そうやって選び取って、気に入るものを手に入れていったらいい。

その程度。
深刻になる必要なんて無いっすよ。

似合わない服を似合うように、自分を変えていくのも試してみたらいいと思うし。
新しい自分が好きで、楽しかったらそれで良いし、窮屈ならやめたら良い。

「こんな派手なの、ご近所の目が…」
って思うなら、ご近所のお眼鏡に適うことが、自分にとって喜びを感じることなら、そうしたら良い。

自分にとって大事なことって、自分にしか決められない。

正解も不正解もないし、みんなが同じことしなくていい。
みんな同じなら、何人もいらない。1人いれば良いってことになっちゃう。

だから、一見良いこと、立派なことも、自分が辛いなら、やらなかったらいい。
一時的に辛くても、その先を見たい気持ちの方が強かったら、やったらいい。

まあ、どっちでもいいって事ですよ。
好きにしたらいい。

どうしたらいいか分からない。選べない。
って思っても、「分からない。選べない自分」を選んでるだけだし。

どうしたらいいの分からない時って、何か正解があると思ってるんですよ。
私はそうでしたよ。
当たりがどっちか分からないと思ってるだけ。
ハズレが、悪い事が、劣る事があるって思ってる。
失敗したくないという恐れが、選べないという気持ちを作っている。

なんかもう、話がまとまらなくなってきたぞ(笑)

なんでもいいの。
どれでも。
あらゆるバリエーションを試すために、こんなにたくさん人がいるの。

だから、好きなの選んで大丈夫。

やりたくても出来なかった。
こんなはずじゃなかった。
それでもいいの。
悔しいけど、苦しいけど、認めるの大変だけど、そんなあなたも素晴らしいの!マジで!

「やりたくても出来なかった」を担当してくれた。
「こんなはずじゃなかった」を担当してくれた。
それって凄いことじゃん。凄い価値だよ。

だから言うんだよ、
あなたはそのままで素晴らしいって。

最初から価値があって、最初から愛されてるの。

そんなこと信じられなくても、それでいい。
今は「信じられない」をやってみてるんだから。

それでいい。大丈夫。