志布志線の安楽駅に降り立ったのは、1974年も暮れようとする頃であった。

前夜西都城駅近くの旅館に泊まった僕らは、7時半すぎの列車に乗り安楽に向かった。冬至の頃の九州は東京に比べると日の出が実に遅く、安楽に着く頃になってようやく明るくなったような気がする。南九州とはいえ朝方は寒く、吐く息が白かった。この日は貨物輸送の繁忙期とあって臨時貨物列車(臨貨8493レ)が運転されるとの情報を駅員から仕入れ、中安楽側にある安楽川の鉄橋を目指して歩き始めた。

僕らは鉄橋を南西側から望む場所にカメラをセットし、列車が来るのを待った。光線は半逆光であまりいい状態とはいえなかったが、そんなことは大したことではなく、蒸機に会えるという期待が勝った。ほどなくしてやってきた貨物列車はC58 277が牽いていた。青ナンバープレートに小工デフという人気のカマにいきなり出会え、うれしかった。鉄橋を渡るベストポジションでシャッターを切り、振り向きざまに通り過ぎるところを撮ろうとしたら、すばしっこい同行者が既に前方でカメラを構えていて、思いっきり画面に入ってしまった。後でそいつをしばいたことはいうまでもない。

そして、すぐに駅方向に戻り、今度は伊崎田寄りで撮影ポイントを探した。しかし、列車が来る時間が迫ってきてもここぞという場所が見つからず焦るばかり。ついに時間切れアウト。僕らは「全く“安楽”じゃないじゃん」と不満を抱きつつも不本意な場所で撮影せざるを得なかった。

↓安楽ー中安楽の安楽川橋梁を渡るC58 277牽引の貨物列車。労働組合の年末闘争か、後方のワムに落書きが見られる。

↓興奮して飛び出した同行者。彼を画面から排除することなく、むしろ中心に据えて撮影してしまっているところが我ながら腹立たしくも情けない。1974年といえばフィンガー5全盛期で、ズボンの柄に時代を感じる。

↓安楽ー伊崎田の山間部を行くC58 275牽引の貨物列車。275号機は陸羽東線などで活躍した後、遠路はるばる新庄から転属してきた。

さて、その貨494レが行ってしまうと、次は15時すぎの貨495レまでだいぶ間がある。僕らはその時間を利用して、以前このブログに書いたように、志布志機関区を訪れた。

 

そして、14時すぎの列車で安楽に戻ってきた。戻ってきたはいいが、貨495レまであまり時間がない。どうしようかと悩んでいると、駅で出会った先輩鉄チャンが安楽駅を見下ろす高台で撮ると言う。僕らもそこに連れていってもらい、一緒にカメラを構えた。腕木式信号機が画面下に入る良好なアングルで、西陽を受けて安楽駅を発車する列車を捉えることができた。しかし、機関車はC58 275でガッカリした。なぜかというと、このカマのナンバープレートは(本来の金属製プレートが盗難に遭ったとかで)木製だったからである。それでも構図的にはまともな写真が撮れたことに一同満足して安楽を後にし、(大隅線での臨貨撮影をこなしてから)今日の宿がある志布志に向かった。

↓安楽を発車する貨物475列車。木製プレートは目立たない。

↓暮れなずむ安楽駅

翌日は朝方、日南線の大堂津の浜辺でC11の上下列車を撮影後、昨日と同じく志布志機関区を訪れた。そして、再度安楽にやってきた。この日は前日の愚を繰り返すことなく伊崎田側のポイントを探り当てた。傾きつつある太陽の光線状態もよく、期待が膨らむ。しかし、やってきた貨495レはC58 277なのは良かったものの絶気状態。残念だが、こればかりは致し方ない。不満の残る中後ろ髪を引かれる思いで安楽に別れを告げた。

当時の志布志機関区にはC58が3両配置されていたが、運用につくのは2両だった。僕としては、冴えない275号機より珍しいK-9の小工デフを装備した112号機を撮りたかったのだが、叶わなかった。それ以後安楽を再訪する機会に恵まれず、そのうちに志布志線自体が廃止されてしまった。

 

ところで、志布志線には「末吉」という駅もあった。当時、北海道・広尾線の[愛国→幸福]という切符が“愛の国から幸福へ”というキャッチフレーズで若者に人気を博していた。それにあやかって、[末吉→安楽]という切符を売り出せば話題になるのではないかと思ったが、そのような取組がなされることはなかった。高齢者相手では商売にならないと思ったのかもしれない。

↑↓安楽ー伊崎田を軽快に走るC58 277の貨物列車。煙がスカなのは残念だったが、斜光線に映えるススキが印象的だった。南九州らしい風系だと納得している。

↓最後に当時の志布志機関区C58の運用を掲げておく。(出典『SLダイヤ情報』第5号 弘済出版社)


【補遺】

本文において、「[末吉→安楽]という切符を売り出せば話題になるのではないかと思ったが、そのような取組がなされることはなかった。」と記したが、実際にはあった。先日の鉄飲みの席で、(発着が逆だが)[安楽→末吉]の切符を持参された方がいた。昭和51年当時の乗車券は一般に「◯◯駅から◯◯円区間」と表示されるのに対し、これは「安楽から末吉ゆき」と書かれているので、ちゃんと企画されたものだろうとのことであった。