また熊本で大地震が発生した。お亡くなりになられた方のご冥福を心からお祈り申しあげます。また、被災された皆様にお見舞い申しあげます。僕は10年前の地震の際に役所で震災対応の総括をしていたが、今回も明日付で職場の同僚がたまたま熊本に赴任することになっている。とても他人事とは思えない。
かつて鹿児島本線の伊集院駅から指宿枕崎線の枕崎駅まで鹿児島交通枕崎線が走っていた。車両基地は中間の加世田にあった。当鉄道も御多分に洩れず高度経済成長期にモータリゼーションの波に揉まれ先行きが覚束ない状況にあった。
1980年の夏休みに九州を長期旅行した際に鹿児島交通に立ち寄ってみることにした。当時の僕は国鉄至上主義で、地方ローカル私鉄にはあまり関心を向けることはなかった。それでも高校生のときに『写真紀行ー私鉄ローカル線』という分厚い写真集を手に入れ、国鉄のキハ42600形そっくりの車両が鹿児島交通で走っていることを知った。その印象が残っていたこともあり、訪ねてみる気になったのである。
前日は鹿児島港からフェリーに乗り、桜島港にほど近い桜島ユースホステルに泊まった。翌日、午前中はユース近くの誰もいない海水浴場で鉄友と二人で海水浴をした。フェリーで鹿児島に戻ってきたところで鉄友と別れ、ニコンのサービスセンターで用事(大畑でカメラを落下させて200レンズの外れなくなってしまったフィルターを外してもらうこと)をすませてから、西鹿児島発13:35の934Dで伊集院に着いたのが14時過ぎ。鹿児島交通に乗り換え、ロケハンしながらどこか適当な場所があれば下車しようと思いつつも、適当な場所を見つけられないまま加世田に着いてしまった。というか、列車がぴょんぴょん飛び跳ねるようにして走るので、じっくり腰を落ち着けて景色を眺めるどころではなかった。
ともかく加世田で下車し(運賃は¥460)、駅員の了解をもらって構内に留置されている車両たちを見て回った。かつてここで活躍した蒸機が残っていることは予備知識として持っていて、地元では復活を模索する動きもあるようだった。留置されている蒸機は2両あり、国鉄C12タイプの国産タンク機、それとドイツ製と思しき小型タンク機。どちらも実物を目にすると荒れようがひどく、復活はとてもじゃないが無理、復活するとしてもかなりの費用がかかることは明らかで、廃線が取り沙汰される当鉄道には負担が大きすぎることは素人目にもわかった。
以下の写真は全て1980.7.23に撮影。原画(カラーネガ)の劣化が著しいため、Geminiの力を借りて調整した。
↓国鉄C12の自社発注蒸機。錆びたような色は赤の錆止め塗料が褪色したもののようだ。
↓留置車両と車庫の間の狭い空間に押し込められている蒸機を見つけた。本文中では「ドイツ製と思しき小型タンク機」と書いたが、煙突の形状からすると日本車輌製の4号かもしれない。
蒸機のほか、朽ちかけて全体がひん曲がった車両や古典的な1軸台車の客車にびっくりしながらも写真を撮り続けた。駅に戻ろうとするときに肝心のキハ42600形に似たキハ100形をまだ撮っていないことに気づいた。引き返してそれを撮ってから駅に戻ると突然の空腹に襲われた。考えてみると今日は朝ざるそばを食べたほかは何も食べていない。駅近くの食堂で山かけそばを食べ、18時過ぎの列車で枕崎に向かった(運賃は¥350)。加世田での滞在は2時間足らずであったが、タイムスリップしたような濃密なひとときであった。
↑↓留置されていた廃車体。かろうじてまともな外観保っている車両は車庫近くに、窓が破れたり車体がひん曲がるなど無惨に荒廃した車両は少し離れたところに留置されていた。
↑↓自社発注のキハ100形は国鉄42600形に準じたものであるが、私鉄では鹿児島交通(前身の南薩鉄道)と夕張鉄道だけであった。
枕崎に着く頃には日没が遅い九州でも夜の帳が降りていた。宮脇俊三著『最長片道切符の旅』(1979年・新潮社刊)には夕暮れ時の枕崎の侘しさ、下車印の貧弱さの記述があったのを思い出した。前者はそのとおりであった。他方、下車印が真新しいものになっていたのは本の影響で、慌てて新調したのかもしれない。そして、指宿枕崎線で西鹿児島に戻ると駅弁を買って待合室で食べてから、今夜の宿である夜行急行かいもんのハザに乗り込んだ。





