せんじつ駅から会社に向かう途中で同じチームの〇川さんにバッタリ会い
お話しながら会社に向かいました
ブログに何を書こうか迷っているんだ
と話していた時・・・なぜ山の手線はまるいのか
よし、これだ~~~ってことで
ネタが決まったとこで書いていきます
山手線が開業したのは1885(明治18)年3月1日。
当時の日本鉄道株式会社によって開業されました。
開業当初は山手線ではなく、「品川線」として開業しました。
ここから山手線の歴史は始まります。
※日本鉄道株式会社は日本初の民営鉄道会社で、
現在のJR東日本の路線を多く建設・運営していたが、1906(明治39)年の鉄道国有法により国有化となった。
開業当初は品川〜赤羽間を結ぶ、「品川線」としてスタートしました。
すでに開業されていた上野〜前橋間(日本鉄道)と新橋〜横浜間(官設鉄道)
の路線を結ぶことで、輸送する目的があったそうです。
開業当初の駅では品川線と主要な街道が交差するが開設されました。
また少し遅れて同3月16日には目白駅、目黒駅が開業したそうです。
品川線の開業当初は1日3往復しか旅客列車は走っておらず、お客さまも少なかったそうです。
しかし後年には多くの鉄道路線が乗り入れる要衝となり、それに伴って
お客様の増加と沿線の発展
貨物輸送の充実
輸出品の輸送力向上による産業の発展
を促進していったそうです。
その後、日本鉄道は常磐線を開設(当時は隅田川線、土浦線、磐城線と呼ばれていた)し、
その当時の起点であった「田端駅」と品川線を結ぶ新線を建設しました。
これは常磐線沿線の炭鉱で産出する石炭を東京や京浜工業地帯に輸送する目的があったそうです。
品川線との合流駅として広大な用地の確保が可能な池袋に駅を新設し、
そこから分岐させることとしました。これが「池袋駅」の誕生です。
この田端〜池袋間の区間は「豊島線」と呼ばれ、1903(明治36)年4月に開業されました。
その建設途中で「大塚駅」「巣鴨駅」も開設されたようです。
そしてこの豊島線の開業前の1901(明治34)年8月に、
日本鉄道は品川線・豊島線の名称を廃止して現在の「山手線」の名称が与えられました。
ここで山手線が歴史上で誕生し、官設鉄道と合わせて新橋〜品川〜新宿〜池袋〜田端間が開業したことになり、
現在の約3/4の区間が出来上がりました。
山手線は東京市内(現在の23区に相当)西部の高台地域を指す「山手」の名称が由来となって名付けられました。
前身である品川線から山手線誕生までをお話ししましたが、
まだ丸い環状線は完成しておりません。
ではどのように環状線が出来上がっていったのか、続きをお話しします!
1906(明治39)年3月に鉄道国有法が公布され、全国の主要な私鉄が国に買収されることとなり、
日本鉄道も同11月に国有化されました。
その3年後の10月には国有鉄道線路名称が制定され、
「山手線」の名称が引き継がれて、名実ともに国による一元的な運行が行われるようになりました。
これが現在の「JR山手線」の前身になります。
同12月には烏森(現・新橋)駅まで市街の高架化工事が進み、
烏森〜品川、品川〜赤羽、池袋〜田端、上野〜田端間が電化されました。
それまでは蒸気機関車が走っており、ここで電車「山手線」が初めて登場します。
その後、高架化工事は進んでいき、1910(明治43)年には「有楽町駅」、
1914(大正3)年には「東京駅」が開業し、東京駅まで電化区間となりました。
丸くなる前、昔は「の」の字運転だった!
一方で中央線も高架化工事が進んでおり、御茶ノ水〜東京での工事完了を機に、
中央線の中野〜東京間と山手線との間で直通運転が行われることとなりました。
それにより
中野~新宿~東京~品川~新宿~池袋~上野
という「の」の字運転と呼ばれるルートを走っていたそうです。
品川線開業から40年!丸い環状線の完成!
「の」の字運転は一時的なもので、東京の北側の高架化工事が進み、
1925(大正8)年11月に東京〜上野間の高架線が完成すると、
山手線はいよいよ環状運転を開始しました。
品川〜赤羽の品川線開業から実に40年の歳月が過ぎていました。
これは江戸以来の市街地に鉄道用地として高架化工事をすることが容易ではなく、
長い時間を要することになったそうです。
大変な苦労があって丸い山手線は完成したんだね
またこれに伴って、赤羽〜池袋間は折り返し運転のみが行われるようになり、
1972(昭和47)年に「赤羽線」として独立しましたが、
埼京線の乗り入れまでは山手線の支線のような扱いとなっていたそうです。
🚉参考にした記事です🚉
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