ボン・ベートヴェンの生まれた街(2015年5月、ドイツ・ボン) | クラシック音楽と食べ物と。。。

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ヨーロッパでの生活を振り返るブログ。

今回は、2015年5月のドイツボンからです。

昨日はケルンで一泊し、今日は朝からボンへ移動します。

こちらは、ケルン中央駅

ここから、RE(レギオナル・エクスプレス、快速電車)にのり、30分ほどでボンに到着。

こちらはボン中央駅

駅周辺は、こんな感じです。

 

ボンと言えば、東西ドイツが分かれていた時代の西ドイツの首都。大都会かと思いきや小規模都市って感じです。実際、人口も30万人程度。

ここには、シューマンのお墓があって、まずはお参りにと思い向かったのですが、なぜか墓地が開いていない。が~~ん!!8時からと思って来たのですが、Webでお墓のサイトを見てみると、今日は11時から開園される様子。後で戻ってくることにします。

 

旧市街へ向かいます。途中、いきなり中世の門のようなものが出現。おそらく壁があってここに門があったのだと思うのですが、その門だけが残されています。街中にどんと門だけあって、ちょっと不思議な感じ。どうも、この門、昔の城壁の名残りでシュテルン塔(Sterntor)という名前のようです。

 

それからミュンスター広場へ。ここにはベートーベン像があって、郵便局を背にして建っています。

この像は、1845年のベートヴェン生誕75年に合わせて建てられました。建設に向けてフランツ・リストロベルト・シューマンが大きく貢献したようです。また、8月12日の除幕式には、イギリスエリザベス女王プロイセン王のフリードリヒ・ヴェルヘルムなど著名人が多数出席したようです。この彫刻は、ドレスデン芸術アカデミーエルンスト・ユリウス・ヘーネル(Ernst Julius Hähnel)が設計し、ジェイコブ・ダニエル・ブルクシュミート(Jacob Daniel Burgschmiet)が実際に制作を担当しています。

 

このベートヴェン像のすぐ前にはミュンスター寺院があります。11世紀に礎が築かれ、それ以降増築を繰り返しています。ロマネスク様式からゴシック様式への過渡期建築としては最高傑作との声もあるようです。

 

教会の前に何やら巨大な頭が転がっています。

通行人と比べると結構な大きさですよね。

この2つの頭、この場所で宗教的信念のもとに斬首されたという伝説が残っている、聖カッシウスフロレンティウスのもののようです。なんかちょっとグロテスクです。

 

次は、マルクト広場に向かいます。

 

マルクト広場には旧市庁舎があります。燦然と輝く真っ白な市庁舎ロココ調建築です。

 

モニュメントの周りに市が立っています。

おいしそうな果物が一杯。いかにもヨーロッパ的な雰囲気。

シュパーゲル(白アスパラ)も並んでいます。これもおいしそう。5月と言えば正にシュパーゲルの季節です。

 

次は、ボン大学にやってきました。正式名称は、「ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン」だそうです。

なんとも広い芝生。1818年設立の大学です。

うさぎ発見。ドイツではちょこちょこウサギ見ます。

 

次は、ベートーヴェンハウスへ向かいます。

 

ここはベートヴェンが生まれて22歳まで住んでいた家です。

なんかすごい人。

 

この集団は、運よく(?)ショップの方へ行ったので、チケット買ってパンフレット受け取って中庭に。

 

中庭には、ベートーヴェンの胸像が置かれています。

 

室内は撮影禁止でしたが、楽器はコンラッドハンマーフリューゲルが置いてありました。他には、楽譜、メガネ、カミソリなどの日用品などが置いてありました。

 

次は、バスに乗って少し移動します。バスと徒歩で20分ほどの距離。

シューマン記念館へやってきました。

開いている時間が短く、それも平日しか空いてないのでなかなか行けない人が多いようですが、何とか今日は開いていてラッキーです。

精神を病んだシューマンが最後の2年間を過ごしたサナトリウムだった場所で、今では記念館になっています。

記念館というので、もっとちゃんとしたところかと思っていたのですが、音楽図書館のような場所になっていて、その中でシューマンがいた部屋に少しものを置いて見せていると言った感じ。無料で入れます。

 

建物の前にはシューマンの胸像。

 

壁にもシューマンのレリーフがかかっています。

 

こちらもシューマンのレリーフ。

 

シューマンの部屋。

 

1850年製のテーブルピアノが置かれています。

 

精神病院ということでもっと何か暗くてじめじめしたところを想像していたのですが、結構すがすがしく、中庭も明るい場所でした。

 

シューマンも入院当初は、外出したり、中庭を散歩したりしていたと言いますので、悪い場所ではなかったのではないでしょうか。それでも、シューマンの病状は進み、最後は四肢の自由も効かなくなります。刺激しないようにと面会が禁止されていた妻クララがいよいよシューマンが危ないということで呼ばれ、自由の利かなくなった腕でクララを抱擁します。その2日後シューマンクララが見守る中、46年の生涯を閉じます。

 

シューマンの前の部屋は、今では音楽に関する本が世界中から集められていて、ミニコンサートなども開かれるようです。

 

なぜか、こんな日本の本も。

 

こちらは、シューマンの生誕200年記念コイン。

 

クララ・シューマンは、ドイツの旧紙幣である100マルク札に肖像画がのっていました。

 

シューマンは最後の時をどんな思い出過ごしたのでしょうか。彼の音楽はなんともきれいな音楽。そしてブラームスを見出した人。ブラームスの成功は彼とクララ・シューマンの援助なくしてはあり得なかったのではないかと思います。そのシューマンが、精神を病んで最後亡くなった場所。ここはそういう場所。その割に、何とも明るく、開放的なところでした。一通り見て回り、周りの雰囲気も感じて、駅に向かうことにします。

 

 

こちらは、シューマン記念館の近くにあった聖マリア・マグダレナ教会

 

近くのバス停から608番のバスに乗り込み、今日最初に計画していたシューマンのお墓に向かいます。

丁度墓地を挟んで線路の逆側について、地下道を通って墓地側へ抜けます。なんかやばそうな地下道。。。

 

シューマンが眠る旧墓地へやってきました。

今度は門が開いていました。

 

日本のお墓だと桶と柄杓が置いてありますが、ここはジョウロ。

 

そんなに大きな墓地ではないので、すぐに見つかりました。

なんてきれいなお墓なんでしょうか。

 

ここには、ロベルト・シューマンクララ・シューマンが一緒に眠っています。クララが亡くなるのは1896年、ロベルトが亡くなってから40年経ってからのことです。

 

シューマンさん、素晴らしい音楽を残してくれてありがとう。クララも天才ピアニストと言われながら、シューマンの音楽を世に出すことに心血を注ぎ、全集作成なども行い、シューマンの音楽をきちんと後世に残してくれてありがとう。心を込めてお祈りしました。そして、近々シューマンの曲を演奏する友人の成功を祈って、もう一度お祈り。

 

ここから駅に戻り、一度ケルンで荷物をピックアップして、ICでハンブルクへ向かいます。ICEはIntercityexpressで新幹線的なもの。ICはIntercityで特急くらいでしょうか。途中まで順調に走っていたのですが、オスナブリュック中央駅(Osnabrück Hauptbahnhof)あたりで止まってしまい、しばらく動きません。どうもブレーメンで何かあったようで、動き出してもゆっくりだったりと相当に時間がかかりました。アナウンスが入るたびに乗客がブーイング。相当に時間がかかってやっとブレーメンへ到着。そこからはまともに動いたのですが、午後6時ごろ到着予定が、ハンブルク中央駅についた時点で既に午後9時前。それも最寄り駅まで行かずに中央駅止まり。そこから乗り換えての帰宅になりました。

 

いやあ、なかなかに疲れましたが、良い旅でした。