パリのショパン(2015年4月、フランス・パリ) | クラシック音楽と食べ物と。。。

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ヨーロッパでの生活を振り返るブログ。

今回は2015年4月のフランスパリからです。

久しぶりにパリにやってきました。

ドイツフランスはお隣の国ではありますが、ハンブルクからパリへ行こうとすると航空会社にもよりますが、ハブ空港であるフランクフルト経由になってしまいます。今回もフランクフルト経由。ハンブルク10時のフライトでフランクフルトで乗り換えて、シャルルドゴール空港へ着いたのは13:30頃です。そこから高速鉄道のRERに乗って市内へは30分ほどです。

 

今回は、パリショパンの足跡を訪ねようと思っています。

 


スクワール・ドルレアン/Square d'Orleans


最初に来たのは、スクワール・ドルレアン9番地。今回、ショパンが住んでいた場所を訪ねようと思って少々混乱したのは住所。当時の住所と今の住所で違っていたりします。ここの住所も、現在では80, rue Taitboutといなっていました。ショパンが1842年から1849年まで住んでいたこの場所、9棟にショパンが、ジョルジュ・サンドが5棟に住んでいました。当時この地区は新しく開発された場所で、多くの文化人、芸術家などが住み始めていて、芸術家同士の交流も盛んだったようです。ショパンジョルジュ・サンドにとって、この時期は関係が悪化していく時期になります。そして、いよいよ関係に終わりを告げるのが1847年のこと。そしてショパンにとって死へ向かっていく時期でもありました。いよいよ病状が悪化しヴァンドーム広場にあるアパートへ引っ越ししたのが1849年9月、そして10月に息を引きとります。その前の7年間を過ごした家がこちらです。

なにかもっと古めかしいアパートかと思っていたのですが、今でも普通に人々が暮らしている場所でした。

地下鉄のTrinité - d'Estienne d'Orves駅から5分ほど歩きます。

そして、少し坂を上った右手にアパートが見えてきます。

この中には中庭を囲んで9つの棟があり、その中の9棟にショパンは住んでいました。

 

この期間には、幻想ポロネーズ、多くのノクターン・マズルカ、ピアノソナタ第3番、子犬のワルツを含む複数のワルツなど多くの曲が作曲されています。

 


ピガール通り16番地/16, rue Pigalle


次にやってきたのは、1839年10月から1842年11月まで住んでいたピガール通り16番地。こちらも現在の住所では20,Jean-Baptiste Pigalleになっています。ショパンジョルジュ・サンドといえば、マヨルカ島の話がすぐに頭に浮かびますが、二人がマヨルカ島を訪れたのは1838年11月~1839年2月のこと。その後、一旦別々に暮らし、ショパンサンドのアパートを馬車で往復する生活が続きますが、1839年11月年ショパンは自分のアパートを引き払い、ジョルジュサンドと一緒に暮らしたのがこのアパートです。

ショパンジョルジュ・サンドに関するプレートも発見しました。

 


サントリニテ教会/Église de la Sainte-Trinité de Paris


せっかく近くまで来たのでサントリニテ教会へやってきました。1861年に着工し1867年の完成したカトリック教会です。1867年にはここでベルリオーズの葬儀が執り行われ、オリヴィエ・メシアンが1933年から死の直前まで60年近くオルガニストを務めていた教会でもあります。

このオルガンをメシアンが弾いていたのでしょうか。

 

次回へ続きます。