ラッヘンマンとマーラー「復活」(2015年1月、ドイツ・ベルリン) | クラシック音楽と食べ物と。。。

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今回は、2015年1月ドイツ・ベルリンからです。

 

昼にハンブルクから移動してベルリンに着くと、雪が積もっていました。昨日降ったのでしょうか。

今日は、コンサートまで少し時間がるので、SバーンのHackescher Markt駅から10分くらいのところにあるカフェに行ってみました。

こんな雪だるまも。ちょっとかわいいかもです。

 

”Barcomi's Deli ”

ゴージャス系ではないけど、入りやすそうなカフェで、ほぼ満席。前の人の食器が残っていた席があったのですが、すぐにお店の人が片付けてくれました。店員の愛想も良くてよい感じで、ケーキの種類が結構抱負なのも魅力的。

 

何を注文しようかと悩んだ末に、「アップル・チョコレート・ウォールナッツ・キャラメル・ケーキ」(名前が長い!!)とレモン・ジンジャー・ティーを注文。ケーキ甘すぎず結構いけます。少し本読んだりして時間つぶしてからフィルハーモニーへ。

 

カフェから駅へ移動する途中の楽器屋さんのショーウインドウで、こんなメトロノーム見つけました。

 

今回のコンサートは、サイモン・ラトル指揮ベルリンフィルハーモニーの演奏です。

 


ヘルムート・ラッヘンマン: オーケストラのための「タブロー」


最初の曲は、

ヘルムート・ラッヘンマン: オーケストラのための「タブロー」

Helmut Lachemenn: Tableau

 

ヘルムート・ラッヘンマンは、1935年生まれドイツシュトゥットガルト出身の現役の作曲家です。

お父さんとお兄さんが牧師、お母さんが宗教音楽家という家庭で育ち、シュトゥットガルト音楽演劇大学を卒業して、イタリアヴェネツィアなどでも学びます。シュトックハウゼンに高く評価されてたの機に名声を確立し、ドイツを代表する現代音楽家として活躍をしています。現在でも多くの作曲家へ絶大な影響を与えているようです。

 

今回の指揮は、常任指揮者のサイモン・ラトルですが、ヘルムート・ラッヘンマンマーラーの親和性に注目しており、2011年にもラッヘンマンマーラーのセットで演奏会を行っています。その時の曲は、ラッヘンマンは今日と同じ「タブロー」、マーラーは9番でした。

 

モラヴィアの駐屯地イーグラウで育ったマーラーと牧師の家庭で育ったラッヘンマンは、二人とも新しい分野のサウンドと表現を一貫して探求してきた人たちです。伝統的な美の概念に疑問を持ち、根本から変えていこうとする考え方に、聴衆がついていけないこともあるようです。マーラーラッヘンマンも、今ではその地位を確立した作曲家ですが、そこに至る過程は平穏なものではなかったようです。

 

1988年から1989年に作曲されたこの曲は、1989年6月4日ハンブルクにおいてゲルト・アルブレヒト(Gerd Albrecht)指揮ハンブルグ・フィルハーモニーカー(Hamburger Ohilharmonikern)の演奏で初演されています。ベルリンフィルでの初演は、2011年11月3日のサイモン・ラトル指揮によるものです。

 

音の生成と消滅、ノイズとフォルムの間を揺れ動く作品」と紹介されるように、短調や長調と言っった調性、スケールといった伝統的な素材と同様に、様々な新しい音楽表現がちりばめられています。ラッヘンマンの作曲技法は、「楽器や音楽表現を別の角度から見直し、新しい光をあてる」といわれますが、正にそんな感じの曲でした。

 


マーラー: 交響曲第2番「復活」


2曲目、

マーラー: 交響曲第2番「復活」

GustavMahler: Symphonie Nr. 2 c-Moll "Auferstefung"


マーラーは、幼い頃より楽器に親しみ、ウィーン楽友協会音楽院でピアノや作曲を学んだ後、カッセル王立劇場の楽長、プラハドイツ劇場の楽長、ライプツィヒ歌劇場の楽長を務め、1888年5月にライプツィヒ歌劇場の職を辞し、故郷のイーグラウに戻ってきます。この年の10月にブダペストハンガリー王立歌劇場の芸術監督に就任します。1991年にはハンブルク歌劇場の第一楽長に就任し1897年までその職を務めました。交響曲第2番「復活」の作曲はこのイーグラウに戻ってきた1888年6月に開始され、完成したのは1894年ハンブルク歌劇場にいたときのことです。この長い作曲期間にはそれなりの理由があったようです。

 

最初に作曲された第一楽章は当初「葬送」という名がつけられており、名前の由来には様々な説があるようですが、プログラムでは、ポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィチDziady「葬送」からとったものとされています。この葬送は、1888年の夏から秋ごろにはほぼ完成していたようですが、ハンガリー王立劇場の仕事はかなりのエネルギーを要し、また、相次ぐ両親、姉の死により、兄弟たちの面倒を見ることに時間が割かれていくようになります。

ハンブルクでは、ワーグナー作品の指揮で高い評価を得て、その演奏を聴いたハンス・フォン・ビューローマーラーの指揮を高く評価しました。マーラーは、ビューローに作品を聞いてもらいますが、ビューローからの評価は散々だったようで、出版社からも出版を拒絶され、第一楽章のみを売り込むことに失敗します。1891年のことです。

その後1893年に、第一楽章の改訂、第二楽章から第四楽章を完成させますが、ここでいったん作曲が止まります。マーラーは最終楽章をどのようなものにするのか、大きな悩みを抱えます。

1894年、ハンス・フォン・ビューローが亡くなり、ハンブルク聖ミヒャエル教会で葬儀が行われ、マーラーもこの葬儀に参列しました。そこで演奏されたクロプシュトック 「復活」の詩にインスピレーションを受け最終楽章の書き上げたと言われています。

 

1895年3月4日に行われたベルリンフィルのコンサートで3楽章までが初演されます。しかし、聴衆からの反応はひどいもので、「マーラーの作曲能力を疑う」などの評価もされたようです。この時のコンサート全体の指揮者はリヒャルト・シュトラウスだったようですが、この曲については、客員指揮者としてマーラーが指揮したようです。いずれにせよ、大失敗に終わったようです。

この失敗にもかかわらず、マーラーは二回目の公演を計画します。ハンブルクの裕福な2人のスポンサーの助けも借り、私財を投じてベルリンフィルジングアカデミーの合唱を借りて1895年12月13日にベルリンBernburger Straßeにあった古いコンサートホールで全曲の演奏が行われます(住所からすると今のベルリンフィルハーモニーからそれほど遠くない場所のようです)。120人のオーケストラメンバーとかなりの人数の合唱団と4日間のリハーサルを行うという用意周到の準備の上での演奏でした。今のお金に換算すると5万ユーロ(6~7百万円ほど)を投じたようです。演奏者、観客からは好評だったようですが、この時も評論家たちの評価はあまり変わらなかったようです。

そういった背景の元、ベルリンフィルではその後10年ほどこの曲が演奏されることはなかったようですが、オスカー・フリートによって指揮された1905年11月8日のコンサートで初めてマーラーが熱望した大成功を収めました。10年の間に聴衆側にも変化があり、やっとマーラーに追いついたということでしょうか。

 

今回のソプラノは、ケイト・ロイヤル(Kate Royal)。1979年生まれイギリスロンドン出身の歌手です。

 

メゾソプラノは、マグダレーナ・コジェナー(Magdalena Kožená)。1973年生まれチェコ出身の歌手です。ちなみに指揮者のサイモン・ラトルの奥さんでもあります。

 

この2人は、2010年のベルリンフィルとのライブ録音でも出演しており、オケとも息ぴったりの歌唱でした。合唱は、ベルリン放送合唱団(Rundfunkchor Berlin)でした。

 

マーラーの2番、サイモン・ラトルの十八番と言われるだけあってさすがの演奏。「指揮者になりたいと思ったのは、12歳の時に同曲に出会ったことがきっかけなのです」と、サイモン・ラトル自身が語っているように、これまで繰り返し取り上げてきた曲。曲が終わった瞬間にスタンディングオベーションでみんな大歓声。拍手が、なかなか鳴りやみませんでした。

 

実は前々回の記事と今回の記事でこの週ハンブルクとベルリン2往復でしたのでちょっと疲れ気味でしたが、今日の演奏でその疲れも吹っ飛びました。今日の演奏会、現代作品とマーラーの90分にわたる大曲。そして、観客のスタンディングオベーション。よい演奏会でした。

今日も、これからハンブルクに戻ります。