DarkではなくDeep

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強制アウトプットウィークの最終日、
本日でアウトプットをひとしきり終えて、来週からインプットモードに入ります。


自分へのフィードバックとしての日記なので、興味無ければ読まないほうが得策だす。


以前より漠然と考えていたが、ここ数ヶ月ほど特によく考えるようになった。



これをうまく表現できる術が見つかったので、書き留めておこうと思う。


僕らが普段生活しているところが「陸以上」という半面なのだとすれば、何かを探求しようとする過程は、「海以下」という半面ではないかなと。


顕在意識の中でも更に表面的に知覚できるだけの分野の、ほとんど僕らはその世界の半面しか知らずに生きているのではないかと。


たぶん何かを探求しようというのは、表現すれば、「素潜り」のようなものなんだと思う。


海に潜れば、海の広さ、海の深さを知ることができる。

そして、今まで自分が見たこともないようなモノに出会うことができる。


ただし、潜るという事は、「息ができない」という事なので、長く深く潜り続けることができない。


だから潜っていて息が続かなくなったら、もう一度水面に上がってきて空気を吸って呼吸をする。


そしてひとしきり空気を吸ったら、また潜り始める。


次に潜るときは、前に潜ったときよりも、もう少し長く、もう少し深く潜ることができる。


そしてまた新しい生命や道理や事象を発見することができて、嬉しくなる。


また息が続かなくなると、水面に戻ってきて、呼吸をする。


また潜り、少しずつ深く入っていく。


潜ることを少しの間止めたら、次に潜るときは前よりも潜れなくなっている。


それどころか、水面にいすぎたら、顔をつけるだけでも苦痛になってしまう。



なぜ潜るのかというと、まずはそこに新しい発見があって、新しい何かの要素を自分の中に吸収することができるからだと。



でも潜り続けることはできない、潜り続けることで息が続かなくなるし、人間は人間を止めることができず、人間は魚にはなれない。



だから少しずつ呼吸を深くして、少しずつ確実に1ミリずつ回数を重ねる毎に深く底の方に潜っていくのではなかろうか。


たまには自分より深く潜っている人の話を聞いては感動したり、その人の書いたものを読んではよーし自分もといきり立ったり。


でもしかし、ただしかし、、ここでしかし、、、

なぜそんなに潜り続けるのかと水面より上で過ごしている人から聞かれたとしたら、発見や吸収などの言葉だけでは、動機としては、不十分な気がする。


それもいいが、水面でのクルージングも気持ちいい、海辺でのバーベキューもおいしい、砂浜でのビーチバレーもでら楽しい。


そう言われればそうだし、スモグリなんかよりビーチバレーの方がでら楽しいように普通は感じる。


だから「海の中には、あんな魚がいるんだよ」、というような動機はまだまだ不十分に思う。



たぶん、それ以上に海に潜ろうとする大きな目的があると思う。


それは何かといえば、たぶん、もしかしたらそれは、いや感覚的に、


「原点への回帰」という事じゃないかなと漠然と感じた。

全ての生命が母なる海から産まれたのだとすれば、母なる海の奥深く、一番深く、自分が産まれた原点へ回帰しようとする衝動も、すごく納得いくような気がする。


「生命の根源への回帰」という究極的な目的が根底にあるのであれば、なぜ潜ろうとするのかという問いに対する本当の答えになりうるのではないかなと思う。


「ルーツを求める」


という行為は、ごく自然な行為だなと思う。


だけど人間は人間を止めることはできず、魚になれず。
いくら回帰のためと言えど、息が続かない中にいれば生命維持ができない。

だから今日も少し潜っては明日は水面で呼吸をし、浜辺でバーベキューに舌鼓を打ち、少し呼吸を楽しみ、また次にもう少し深く潜ろうとするのだなあと。


バイオリズムがぶれるという事は、この潜っている時の心地よさと相反する息の続かなさ、息が出来る安堵感と、潜りたいという衝動。

この二つの背反要素が葛藤し続ける過程で生活のふり幅が出来るのだなと、それが自分にとってのバイオリズムだなと思いました。


目的ベース

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物事は原因があって、結果があるもので、

目的があって手段があるわけで、

手段が目的なわけではないわけで、

目的はあくまで目的なわけです。



子供が一番得意とする分野で、誰もがもっていたその姿勢をいつから失っていくのだろうかと考えます。


子供を見ていればわかります。

その子が純粋に興味をもって「なぜ、なぜ」と聞いているのを目にします。

子供と同じ視線で見ようとシンクロしてみると、どれだけ多岐にわたる分野で好奇心という探究心を発揮しているか、よくわかります。


子供はやはり天才というよりも、天性の好奇心の持ち主です。


それをいつから年齢を重ねるごとに、ポジションが変わるごとに、違う要素に侵食されていくのかなと思います。


何も持っていなかった時に観えていたはずの全体風景が、何かを持った瞬間にそれしか見えなくなるんですね。


上司と部下然り、社長と従業員然り、先輩と後輩然り、親と子然り、兄と弟然り、


いつから自分が優位に立っていて、全てにおいて優れていると勘違いしだすのかなぁと。


何かの問題に直面した時に、いつから目的よりも体裁を重視するようになるのかと。



目的こそが大事にも関わらず、しばしば自分のポジションの防衛もしくは、自分の優位性の保持に走ってしまう事が本能的によくあります。


先輩はいつから後輩に対しての絶対的な偉い存在で、親はいつから子よりも全てにおいて優れていると、誰が言ったのかというか、誰も言っていません。


親も子から学ぶことは沢山ありますし、上司も部下から学ぶことは沢山ありますし、先輩も後輩から学ぶことは沢山あるはずです。

それを僕らは浅はかさ故に勘違いしてしまい、学ぶことを忘れてしまい、防衛に走ってしまうんですね。


ミルという言葉一つとっても、様々な漢字があります。


見る、観る、視る、診る、看る


僕らがまずしなければいけないことは、全体的に観ることだなぁと。


目的は何で、この時点で必要とされる能力や人材は何かと、全体的に観る。


それからそこで最適なものを見出す。


という事ですが、往々にしてそれが通じないことがありますね。



年齢を重ねれば重ねるほど、ポジションが上がれば上がるほど、観る姿勢が取れなくなり、上から見る事しかできなくなる事ってよくありますね。



うっかりしないと忘れてしまうので、気をつけようと思い書いてみました。


僕らのパラダイムは、自分達が思っている以上に強く凝り固まっています。



全体論的に目的ベースで観てみれば、よりシンプルで効率の良い発想ができるなと思いました。

Ashed and Snow

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welcome back. 

脳細胞さん、お帰りなさい。
そうなんです、脳細胞が何名か帰ってきました。

なかなか文字が頭に入るようになってきましたよ。
これで少し安心です。もうひとおしです。


本もなかなか進みます。
でも本の内容って、1回読んだだけじゃあ絶対ものに出来ませんね。

今同じグループの本4冊くらいの、2順目にはいっているのですが、1回目より理解が増しますし、より実践的になります。


知っていて使えないのであれば、それは知らないのと同じです。

本を数回読み直すことで、知っていて実践できるようになりますね。


1回目が、!なら
2回目は、!!!
3回目は、!!!!!!!電球


みたいな感じですね。



話変わり、昨日、以前より見に行ってみたいと思っていました、東京お台場でやっている展示会


Ashes and Snow
http://www.ashesandsnow.org/jp/

に行って来ました。
深いですね~、深すぎます。


こんな深いものにはなかなかお目にかかれないぞというくらいなのに、僕の心の準備がまず出来ていませんでした。


確かに人が多くて、ゆっくり見れなかったり、見に来る人たち同士のシンパシーが出来上がっていないので、入り込みにくかったのはありますが、それにしても準備不足でした。


すんばらしい作品なんですけど、読み手(受け手)のレベルがそこまで届いていないと、充分に響き渡ってこない深さですね。


ある程度までは響いたのですが、作者のレベルまでシンクロできなかったのは、自分の準備不足。


もっと感性を研ぎ澄ました上で行っていれば、より素晴らしい経験をすることができたのにな~と、若干心惜しさが残ります。


が、それでも充分に多くの事を学ばせていただきました。
自然に耳を傾ける事を忘れている現代人にとって、大切な事を思い出させてくれるような作品集です。


でも本当に僕らって、意識しないといつも雑踏や雑音に色んなものをかき消されています。


ふと気づいたのですが、家でウォークマンで音楽を聴くとき、ボリュームが最小限でも充分に聞こえるんです、


でも、外に出た途端、1のボリュームでは全く聞こえなくて、10のボリュームでやっと聞こえるくらいです。


どれだけ外の世界というものが、雑音に溢れているか、それによって静かな状態でしか聞き取ることのできない音を聞き逃しているか、思い知らされます。



孫子の兵法書という、古代中国の天才軍事家が書いた兵法書の中にある言葉で、


四路五動


というのがあります。


前、後、右、左、


路は四つあるが、動きは五つある。

なぜか。


「動かない事も1つの動き。」


という事です。



たまには、あえて動かずに、静かな状態でしか聞こえてこない小さな声に耳を傾けてみるのも、1つの動きなのではと思います。


昔の人は周りに自然がありました。
だからこそ、動物と同じように、小さな声をいつでも聞ける環境がありました。


現代人の僕らはその環境に恵まれていませんね。
科学や知性は進歩しても、心は進歩どころか、退歩してるかもしれませんね。


相関して、補完し合っているもんですね何事も。


自然と科学然り。
他者と自者然り。


よりホリスティックに物事を見ようとすればするほど、全ては相関していると感じれるもんですね。



実はノーボーダーな世界に、区切りを作ってボーダーを作ってしまうのは自分自身ですね。
とにかく、勉強不足です。

ビジョナリー

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ビジョナリーという言葉、僕にとって特別な言葉です。


ビジョナリーカンパニーという本を読んでから、その言葉が特別になりました。


その本では、永続的に社会に貢献し続ける企業を、「ビジョナリーカンパニー」と定義しています。


それぞれの企業が考える「貢献や奉仕」という定義に違いはあるものの、各企業が確実に世界に貢献できることを真剣に考え、実際にそれを為し続けています。


それが、ビジョナリーカンパニーです。


最高にかっこよすぎます。
最高にロマンです。
最高にエキゾチックです。


その著者が書いた新しい本

「ビジョナリーピープル」

を今読んでいます。


まだ読み終わっていませんが、勉強になりそうな気がプンプンします。


昔から漠然と思っていた疑問なんですが、

人はどこのラインから、純粋さや敬謙さに曇りがはいっていくのだろうかと。

どのタイミングで、どんな出来事をきっかけとして、自分の求める理想と、現実の自分の純粋さが乖離していくのだろうかと。


ここで言われるビジョナリーな人は、確実にその純粋さを保ち続けてきた人間で、

僕の尊敬する稲盛さんも、ガンジーも、マズローも、確実に純粋さを保ち続けてきた人たちだと思います。
完全にビジョナリーな人達です。


昔から感じてたことですが、森羅万象に対する畏怖の念を失った時点で、純真さは徐々に失われていくんでしょうね。

俺は何でも出来る、もしくは、世界は不公平だ、

そう思った時点で、徐々にですが、確実に、心の鏡が曇ってくるんでしょうね。
その状態が5年も経てば、立派な厭世観の出来上がりです。


マズローが言っていた言葉、

「健康心理学的な人がなぜ創造的であるか、という問いよりも、ほとんどの人間がなぜ創造性を失ってしまうのか、という事の方が重大な問題だ。」

核心ですね。


土曜日の勉強会で、飛ぶ鳥を落とす勢いの人の講演を聴いて、その話す態度を見て、そう思いました。


天を意識しなくなったら、ビジョナリーでなくなるなと。
所詮人間は天の下で、うごめいているだけですと。


人間のすごさは、蟻の目と鷹の目の両方を持つことができることですね。


純粋さを失うことは、自分にとっての意義を失うことだなと、再確認しました。

you are what you feel

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今日は母の日ですね。
東京に帰る前に花屋でハーブを買って渡したので、忘れることがなく安心です。

昨日兄貴から

「明日は母の日じゃないのか、どうなんだ!そこんとこどうなんだ!え、おまえがやったんだろ!!そろそろ吐いたらどうなんだ!! ま、、、カツ丼でも、食うか?」

みたいな感じで詰められたので、

「あ、俺もう買って渡したよ。」

ゆうて軽く流しました。



さてさて、最近ファイナンスの本を読み漁っています。
ファイナンスの世界は、ある種人間社会の縮図ですね。


当たり前ですね、人間心理が動くから資本が動いて、市場が形成されるんですね、結局は社会というものは人間ひとりひとりのココロが動いているだけなんです。

それがダイナミックに動いて、うねりになり社会を構築していくんです。マズローがすごいのはそれを理解して、科学的に解読し、より良い方向に向かえるシステムを構築しようとしたところなんです。



ということで、


You are what you eat。

マクロビオティックの世界での通念、日本語で言えば、

「あんさんは、あんさんがいままでなにくうてきたかでできあがっとるんでっせ。」

という事です。


それをより本質に近づけまして、勝手に作った言葉。


You are what you feel。


「おまんどすは、おまんどすがいままでどげなふうに感じてきたかでできとるんだすよ。」


てな感じでしょうか。


量子力学的な観点で見ても、といってもそこまで詳しく量子力学を理解してませんが、確かにその通りだと思います。


このマクロな世界で、たとえばブラックボックスに入っている何かを観測しようと思えば、必ずそれ自体になんらかの影響を与える、という事です。

箱を開ければ力が働きますし、X線で見ても放射を受けます。


上のような無機的物質で言えば、ただ影響を受ける、もしくは変形する、それだけですが、生命は違います。それによって何らかの創造が生まれます。


それを僕自身におきかえれば、今の僕ってやつは、今まで出逢った人、見たもの、食べたもの、聞いたもの、読んだもの、経験したもの、


感じたもの全てが集約されて形成されたもんなんです。

バガボンドで柳生城で戦った時にムサシが言った言葉、

「ありがとう、胤舜、ありがとう、ジイサン、俺の中にあんたらが生きている。」

という言葉そのものです。
そんな当たり前の事を意外と忘れていたり、するもんです。


そうやって感謝の念が足らなかったり、今の状況を当たり前と感じたりしているのですが、今こうやって前を向いていられるのも、周りの全ての存在のお陰なんだと、ふと感じました。


世界と自分がつながっているという感覚は、そいう過程を深く知ることで得られる感覚なんだと思います。


そいう意味でも、自分を存在させてくれた根源的な原因である、「母」に、感謝するのは当たり前ですね。


最近感謝の気持ちを忘れていることに気がつきました。
皆様、ありがとうございます。


そしてこれから出逢う皆様、こんにちわ。

これから僕は色んな人や物、コト、情報に影響を受けていきますし、それらを飲み込んで、時間と共に新しい価値が形成されていくのですね。


人が人と話す理由、人が人と会う理由、人が本を読む理由、音楽を聴く理由、食べる理由、寝る理由、何かを感じる理由、学ぶ理由、遊ぶ理由、エトセトラ。


一度ゆっくり考えてみれば、見えてきますね。
たぶんそれは、自分の中にそれを納めて、自分が新しい何かになろうとしている衝動が働いているのかもしれないですね。

考えれば考えるほど、生命とは、すごいシステムだな、って感じます。


you are what you feel and you will be what you will feel.

トータルバランス

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ゴールデンウィークに行きたいと思っていたところがあったのに、諸々の事情により行けずじまいでした。


ネイチャーパワーを感じようとしていたのですが、叶わず残念です。


今日は仕事を終えて、知り合いの会社で話を聞いてきました。
別に何の変哲もないマーケティング方法ですが、僕自身経験がなく、興味があるものがありましたので、詳しく実態を聞きたいと思ったからです。


正直今までプッシュマーケティングに何の意味もなく、むしろコストパフォーマンスが低く、人を成長させるのに邪魔になるようなストレスを抱える可能性のある方法で、メリットなんてほとんどないと思っていました。


でもそこでの話を聞いていくと、確かにまだアナログ社会が中心で、プッシュ方法それによってプッシュする側される側にストレスはあるものの、それもまたある種の成長する機会にもなり得ると感じることもできました。


大まかに言うと、自分が意味のないと思っていたことも、見方を変えると意味のあることに成りうる可能性もあって、それは自分自身の経験と見識の無さが安易な判断をさせてしまう事もあるなと思いました。


だからといってこれからプッシュマーケティングを積極的に推進するつもりなんてサラサラないですが、最適なトータルバランスを整えていく上で、プッシュする過程というものももしかしたらする必要があるかもしれないなと思いました。


泥臭くできないという事が僕の弱点だと思っていますし、全てにおいてケアしすぎることも良い面でもあり悪い面でもあると思います。


周りをケアしすぎてしまうことで、逆に温室を作り上げている可能性だってあります。


周りをケアせずに勝手気ままに振舞うことが、逆に周りがケアできる人間になるきっかけを与える可能性もあります。


だからといって勝手気ままにするというわけじゃなくて、ケアすることだけがベストな道と解釈していた自分の認識の甘さを再確認する事ができました。



小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり。


人間というものは基本的には、どんな環境にいようがそれに適応しようとし、何らかのやりがいや生きがいを求める生き物なんだなと再確認しました。


人間の凄さと共に人間の悲しさ、環境に適応する強さと共に、環境に適応せざるを得ない弱さ、それでもプライドをもって生きようとする崇高さを垣間見ることができるような気がしました。


より良い環境を整えるという事が人間の成長を促す可能性がある反面、逆に人間のサバイバル精神を萎えさせる可能性もあって、短期的なスパンだけで見れば、いちがいにどれが正しい方法かは言うことが出来ないと思います。


ただ、1つの目安として、時間的スパンをどの長さで持つかによって、どの方向性と方法が一番最適かを出すことは少しはできるかもしれないなと気づきました。


僕としては、超長期スパン(自分が死んだ後も含めて)で物事を見ますし、見たいと思っていますので、やはりそれに見合ったバランスを整えていく必要がありそうです。


そのスパンで見て必要であれば、一時的に非情に見えようが、厳しい人間に思われようが、ある過程では非情と見えるような大善を為す必要もあるのかもしれません。


人間というものを少しは理解したつもりではありましたが、なんてことなく、まだまだ自分はわかっていないなと、思いました。
全く自分は無知にもほどがあるなと、少し情けなく思いました。
というより自分が臆病なだけだなと思いました。


まだまだ勇気と実践と覚悟と勉強が足りません。。。。

大発見

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大発明ではなく、大発見です。
マス、マズローの新しく買った本を読んでいてふと浮かんだ発見がありました。


自己実現している人というものはあらゆるものの2元論的思考から開放され、全てが統合されていくということです。

善と悪、正と負、あなたとわたし、自国と他国、科学と宗教、など、物事を分離するのではなくあらゆるものを統合した結果としての全体論的な部分として、物事の側面を捉える傾向にあるということです。

そこでふと思いついたことがありました。
成熟した人格というものを捉えた場合、僕の頭の中のイメージは、「珠玉のような人格」なんです。


この「珠玉のような」という事は、「統合」という意味そのものじゃないかと。


統合というものはあらゆる要素を一と見ることであって、全てが1つのものに含有・包含しているという意味です。


一般的に人間は多面体という事がよく言われますが、その面が多数あるからこそ多面体ということなんですが、その面(価値観や考え方、趣味嗜好、性向など)を全て統合すれば、イメージできる形って、「珠玉」じゃないですか。


ということは、成熟したという意味と、完全なるという意味がほぼ同義であると考えた場合、「自己実現によりあらゆる価値を統合した人物」というのは、「珠玉のような人物」というイメージと全く合致するじゃん!じゃんじゃんじゃん!


とひらめいたのです。
いや、これコイカラばりの自分から騒ぎですけど、すんごい発見なんですよ。

自分が持っていた直感的な本質的理解とマズローの本質的理解が同じかほぼ類似しているということの証明になりますし、マズローを尊敬する理由もこれでより一層納得できるんです。


で、人間は多面体といわれますが、更にそれを別の事柄に適用しますと、論語でよく出てくる、「君子」という言葉。


いわゆる聖人君子ではありますが、その君子とはという事を表現した論語の一節で引用すると、



・君子は周して比せず、小人は比して周せず
「君子はひろく親しんで一部の人におもねることはないが、小人は一部でおもねりあってひろく親しまない。」


これ、ちょっときつい響きではあるんですが、なぜこれが出来るかというと、人間が多面体から球体にまで成熟した場合、どんな面を持つ人間とも公平に交流することができるという意味じゃないのかなとおもうんです。


ということは、この論語で言う君子というのも、「多面体を統合した存在としての、珠玉のような人物」をさすのであって、球体になったからこそ、どんな人物とも分け隔てなく交わることができるのではないかと。


俗に言う、博愛というのはそいうことではないのかと。



これね、コイカラみないな自分から騒ぎですが、すんごい発見なんです、すんごいみんなつながったんです。


で、その観点から周りを見渡してみたら、レオナルド・ダ・ビンチが描いた有名な絵あるじゃないですか、この日記につけているもの、これもイメージは「円」、すなわち、「玉」ですよね。


それも意識してか無意識か、完全という固体としての「球」を描いた節があるんじゃないかと。


地球も「球」ですね。


車の車輪見てください、とても険しいところは別ですが、それも含めてもどんな道路や地面にも一番対応できる理想的な形は、「輪」、すなわち、「球」ですね。


「水晶」は美しいですね。「球」ですね。


と、こんな風に、よく見てみれば「球」は溢れていて、その応用性と汎用性という点で、どんな形よりも優れたバランスの取れた形が「球」なのじゃないかと。


それを自然との交わりや、本能的な観念を通して、「球」というイメージが染み付いているのではないかと。



この発見というか、自分から騒ぎ的な発見によって、何か1つ腹に落ちたというか、


「あ、ひらめいた!!   イヒ!!!」


みたいな至高体験にも似た感覚に陥ったのです!!
それをいてもたってもはぎしりもいられなくて、ここで書いてパワーを発散しているのです!


地下鉄でマズローを呼んでいてひらめいたこれ、興奮してエスカレーター使わずに階段を駆け上がったのはいうまでもありません。


軽く足並みはスキップだったのは言うまでもありません。
脳内麻薬、でまくりです。


-マズローの名言お便り紹介コーナー-

世界は、現在抱いている政治的信念ではなく、未来の真実によって恩恵を受ける方がずっと多いと思う。
私は現在もっている知識を信じる以上に、これから得られる知識を信じる。



かっこいいなぁ。かっこよすぎるなぁ。

マスローの人間論

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マスローの人間論、読み終わりました。




なんという思慮深く、包括的で、全方位的で、創造的な人間なんですか。


今まで僕が尊敬してきた人は、全て体現者でありました。
自分の生き様をもって人に勇気を与えてくれる人でした。


でも、心理学者としての人物をこんなに心から尊敬したのは初めてです。
それは、やはり、「人間というものの本質を全方位的に、科学的に理解しようとした」マズローの姿勢そのものが、体現者だったからなのでしょう。


更に、マズローの超越した洞察力、表現力に魅せられたからなんでしょう。



白か黒ではなく、白も黒もあるんです。
そして白と黒の間には、何万通りものグラデーションがあるんです。


それが人間というものじゃないかと。
絶対的な善もなく、悪もなく、その環境や状況に応じて善の部分が強く出たり、悪の部分が強く出るんじゃないかと。


人間の素晴らしい側面と、堕落した側面、それらを360度から眺め、全てしっかりと事実として認めることこそが、人間の本質を理解することとして重要なのだと。


なぜこうもマズローの人間論にのめり込むのでしょう。
それはマズローが誰よりも人間を愛して、人間を理解しようと努めていたからだと思います。

そしてその人間が織り成す組織や社会を、本当の意味でより発展した幸福社会にするために、心理学者としてどのように貢献できるかを、純粋な気持ちで、真摯に考え、それを実現しようとしていたからだと思います。


マズロー的に言わせれば、芸術に合った人は芸術家に、スポーツに合った人はスポーツに、というように、Being of yourself、成るべく人間に成る、という事が、その人にとって一番良いことじゃないかと。


たぶん自分は、自分の考えを表現するような音楽の才能もなく、芸術の才能もなく、さらにそれをスポーツで表現できるような、卓越した肉体も持ち合わせていなく、なんのギフトも備わっていないと思います。


唯一自分にできることがあれば、人間と組織に関して深く考え、組織内で如何に所属する人が心から満足して自分と組織のために奉仕できるような、伸び伸びといち人間として育つことができるような環境を創造することを、実現しようとする姿勢だけです。


せっかく才能があるのに組織の方向性にあわずに埋もれてしまう人間、開花できない人間、疎外される人間などはどこにでもあると思います。


そういう人を見るたび、もったいないと思うと共に、組織というものの方向性がいかに大事になるのかという事を痛感します。


上で書いたように、人間の側面というものは、ほとんど環境や状況によって左右されるのです。
みんなが盗みを働く環境では、自分だけ盗みをはたらかないということはとても難しいのです。


それでも盗みをしないことをする強さを持つ人は確かに素晴らしいですが、それは卓越した個人だけを見た見解で、もっとよいのは、そんな環境を作らないことなんです。


よくない方向に進む組織でも、しばらくは悪くない状態を保つことができるのは、それは方向性がよいのではなく、人間が生まれ持った適用能力や、生成能力のすごさなんですね、それは組織のすごさじゃないんです。人間のすごさなんです。


だからこそ、それに甘んじてしまって、よい組織になっているつもりの組織がどれだけあるか、それによってどれだけの才能を、成長ではなく、組織の修復や復元、軌道修正のための労力にまわしてしまっているか。


明らかに機会損失です。
個人から見た機会損失でもあり、社会から見た機会損失でもあるのです。


よくない方向に向かう組織ほど、社会にマイナスをもたらすものはないと思います。


だからこそ、根本的に人間として良いと思われるような考えをベースとした、「よい組織」を作る事が、そこに所属する人間のギフトを最大限に活かし、生成発展し、貢献し、さらにそれが大きな輪になっていくのではないかと思うのです。


マズローを読み込んでしまう理由は、やっぱりそうなんですね。


健全な組織を作るためには、本質的な人間心理を理解し、人間の健全性に則した、純粋で健全な理念を打ちたて、健全な方向に進むような組織を造りあ げていく必要があって、その組織が、健全な社会に発展するために貢献するビジョナリーカンパニーになり、社会が健全な方向に向かっていくんです。



だからビジョナリーカンパニーはすごいんです。
だからアブラハムマズローはすごいんです。



もう、感動です。感動しまくりです。
結局は人間の心なんです。人間の心がどの方向に進んでいくかで、世界が決まるんです。

エントロピーを減少させるのは、人間の仕事なんです。

格差社会

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昨今注目されています格差社会という問題。
「富の格差」という視点ではなく、「知恵の格差」という点で少し思うところがありました。

インターネットの出現によって様々な情報が一瞬にして世界を駆け巡ることが可能となり、リアルタイムでほしい情報を得ることができる体制が出来上がりました。



このインターネットの出現により、また、Googleなどの高度に知能が発達した集団により、「富の格差」というより、「富の再分配」が現実として進んでいるという事実があります。


Googleの提供する広告サービスのアドセンスというものをご存知ですか?

ウェブサイトを所有するサイトオーナーが自分のサイトに広告を貼り付けることで、それをクリックした分だけ広告料の数パーセントをGoogleから分配してもらうというシステムです。


いわゆる、クリックアフィリエイトです。
これのすさまじさは、各国の通貨というボーダーを越えているところにあります。


きいたことのある話では、アフリカの誰かが、現地の状況をウェブサイトに流し、それにアドセンスを貼り付け、そのウェブサイトに訪れた人々がクリックすることによってGoogleより得た報酬を、自分の生活費や学費として充てているというのです。


しかも報酬は現地レートでの報酬ではありません、現地の平均給与などを参考にしているのではなく、純粋にGoogleが得る広告収入のパーセンテージを享受しているのです。


したがって、アドセンスによって得る報酬が、現地の平均給与をはるかに凌ぐ額となり、特に発展途上国の中では生活をするのに充分な資本を得るきっかけとなる事実があるのです。


格差社会と言われておりますが、事実としてこのようにインターネットによって「格差を埋める現象」も起きているのです。


もう少し踏み込んだ言い方をすれば、インターネットの出現によって、「自分自身が感じて、考えて、閃いた事を、実現できる可能性が高まった。」という事が言えるかと思います。


今までは物理的制約により達成できなかったことが、バーチャルの空間では物理的制約を越え、達成できる可能性が飛躍的に高まるのです。


つまり、「知識を求める者は、より多くの知識を得ることができる環境」が出来たのではと思います。


ということは、今まで知的探究心を非常に高いレベルで持っていたが、物理的制約のある環境によりその探究心を満足に発揮できなかった人にとっては、「知識をより多く得、知恵を養う手段として」インターネットを活用できるようになりました。


これが意味するものは、「より知識を求める者は、より賢くなり、そうではない者との知識格差が益々広がる」、と同時に「世界に埋もれている非常に知的な人材(世界に貢献できるほど発達した知識を持つ人材)、人材としての知的財産を発掘することのできる可能性が大いに高まった。」のではないかと思います。


また、その知恵を効果的に用い、その人が持つイメージをより具体的に、現実的に実現することのできる可能性が飛躍的に高まったのではないかと思います。



確かに昔から言われるように、「富の格差」というものは懸念すべき問題ではありましたが、これからは「知識の格差」によって、「富の格差」が生じる、という風に考えた方がより自然な展開であるかもしれません。

(純粋な金融資本などによって利益を生み出すようなファイナンスビジネスは別ではありますが・・)


つまり、成長しようとする者はより多くの恩恵を受け、成長しようとしない者はその分しか恩恵を得ることができないという現象が顕著に顕れる社会になってきたのではないかと勝手に感じております。


少し長い文章となってしまい恐縮ではありますが、やはり「成長を止めない」、「学ぶことを止めない」という事が、人としての1つの義務であり世界に対する責任であり、それを促す環境になってきたのではないかなと感じるところがありました。


長々とおこがましく云々してしまい失礼いたしました。
とても自分にとって面白いテーマでありましたので、どうも白熱してしまい気がつけば長くなってしまいました。




論語

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最近、先輩からいただいた「大学」という冊子。
朝起きて毎日朗読するといいと言われ、先日より実施しています。


いいです、とてもいいです。
声に出して朗読することによって孔子の思想が自分の中に入ってきます。


まさしく、論より証拠ならぬ、論より論語。
声に出して論語を読むと、身が引き締まり、君子たる像と自身がシンクロしていきます。


しかし中国の歴史小説や言葉の使い方が自分にとてもしっくりくるのは、実は自分の祖先は中国人なんじゃないかと感じたり漢字なかったり。



・君子は周して比せず、小人は比して周せず

・切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し



か、か、かっこいい・・・・身震いまくりです。
これぞ真の君子なり。



君子たるもの、独りを愼む。
期せずして、自分の名前の中にある「愼」という字。



自分はもっと天に愼しんで生きていかなければいかないなぁと思いました。