強制アウトプットウィークの最終日、
本日でアウトプットをひとしきり終えて、来週からインプットモードに入ります。
自分へのフィードバックとしての日記なので、興味無ければ読まないほうが得策だす。
以前より漠然と考えていたが、ここ数ヶ月ほど特によく考えるようになった。
これをうまく表現できる術が見つかったので、書き留めておこうと思う。
僕らが普段生活しているところが「陸以上」という半面なのだとすれば、何かを探求しようとする過程は、「海以下」という半面ではないかなと。
顕在意識の中でも更に表面的に知覚できるだけの分野の、ほとんど僕らはその世界の半面しか知らずに生きているのではないかと。
たぶん何かを探求しようというのは、表現すれば、「素潜り」のようなものなんだと思う。
海に潜れば、海の広さ、海の深さを知ることができる。
そして、今まで自分が見たこともないようなモノに出会うことができる。
ただし、潜るという事は、「息ができない」という事なので、長く深く潜り続けることができない。
だから潜っていて息が続かなくなったら、もう一度水面に上がってきて空気を吸って呼吸をする。
そしてひとしきり空気を吸ったら、また潜り始める。
次に潜るときは、前に潜ったときよりも、もう少し長く、もう少し深く潜ることができる。
そしてまた新しい生命や道理や事象を発見することができて、嬉しくなる。
また息が続かなくなると、水面に戻ってきて、呼吸をする。
また潜り、少しずつ深く入っていく。
潜ることを少しの間止めたら、次に潜るときは前よりも潜れなくなっている。
それどころか、水面にいすぎたら、顔をつけるだけでも苦痛になってしまう。
なぜ潜るのかというと、まずはそこに新しい発見があって、新しい何かの要素を自分の中に吸収することができるからだと。
でも潜り続けることはできない、潜り続けることで息が続かなくなるし、人間は人間を止めることができず、人間は魚にはなれない。
だから少しずつ呼吸を深くして、少しずつ確実に1ミリずつ回数を重ねる毎に深く底の方に潜っていくのではなかろうか。
たまには自分より深く潜っている人の話を聞いては感動したり、その人の書いたものを読んではよーし自分もといきり立ったり。
でもしかし、ただしかし、、ここでしかし、、、
なぜそんなに潜り続けるのかと水面より上で過ごしている人から聞かれたとしたら、発見や吸収などの言葉だけでは、動機としては、不十分な気がする。
それもいいが、水面でのクルージングも気持ちいい、海辺でのバーベキューもおいしい、砂浜でのビーチバレーもでら楽しい。
そう言われればそうだし、スモグリなんかよりビーチバレーの方がでら楽しいように普通は感じる。
だから「海の中には、あんな魚がいるんだよ」、というような動機はまだまだ不十分に思う。
たぶん、それ以上に海に潜ろうとする大きな目的があると思う。
それは何かといえば、たぶん、もしかしたらそれは、いや感覚的に、
「原点への回帰」という事じゃないかなと漠然と感じた。
全ての生命が母なる海から産まれたのだとすれば、母なる海の奥深く、一番深く、自分が産まれた原点へ回帰しようとする衝動も、すごく納得いくような気がする。
「生命の根源への回帰」という究極的な目的が根底にあるのであれば、なぜ潜ろうとするのかという問いに対する本当の答えになりうるのではないかなと思う。
「ルーツを求める」
という行為は、ごく自然な行為だなと思う。
だけど人間は人間を止めることはできず、魚になれず。
いくら回帰のためと言えど、息が続かない中にいれば生命維持ができない。
だから今日も少し潜っては明日は水面で呼吸をし、浜辺でバーベキューに舌鼓を打ち、少し呼吸を楽しみ、また次にもう少し深く潜ろうとするのだなあと。
バイオリズムがぶれるという事は、この潜っている時の心地よさと相反する息の続かなさ、息が出来る安堵感と、潜りたいという衝動。
この二つの背反要素が葛藤し続ける過程で生活のふり幅が出来るのだなと、それが自分にとってのバイオリズムだなと思いました。
本日でアウトプットをひとしきり終えて、来週からインプットモードに入ります。
自分へのフィードバックとしての日記なので、興味無ければ読まないほうが得策だす。
以前より漠然と考えていたが、ここ数ヶ月ほど特によく考えるようになった。
これをうまく表現できる術が見つかったので、書き留めておこうと思う。
僕らが普段生活しているところが「陸以上」という半面なのだとすれば、何かを探求しようとする過程は、「海以下」という半面ではないかなと。
顕在意識の中でも更に表面的に知覚できるだけの分野の、ほとんど僕らはその世界の半面しか知らずに生きているのではないかと。
たぶん何かを探求しようというのは、表現すれば、「素潜り」のようなものなんだと思う。
海に潜れば、海の広さ、海の深さを知ることができる。
そして、今まで自分が見たこともないようなモノに出会うことができる。
ただし、潜るという事は、「息ができない」という事なので、長く深く潜り続けることができない。
だから潜っていて息が続かなくなったら、もう一度水面に上がってきて空気を吸って呼吸をする。
そしてひとしきり空気を吸ったら、また潜り始める。
次に潜るときは、前に潜ったときよりも、もう少し長く、もう少し深く潜ることができる。
そしてまた新しい生命や道理や事象を発見することができて、嬉しくなる。
また息が続かなくなると、水面に戻ってきて、呼吸をする。
また潜り、少しずつ深く入っていく。
潜ることを少しの間止めたら、次に潜るときは前よりも潜れなくなっている。
それどころか、水面にいすぎたら、顔をつけるだけでも苦痛になってしまう。
なぜ潜るのかというと、まずはそこに新しい発見があって、新しい何かの要素を自分の中に吸収することができるからだと。
でも潜り続けることはできない、潜り続けることで息が続かなくなるし、人間は人間を止めることができず、人間は魚にはなれない。
だから少しずつ呼吸を深くして、少しずつ確実に1ミリずつ回数を重ねる毎に深く底の方に潜っていくのではなかろうか。
たまには自分より深く潜っている人の話を聞いては感動したり、その人の書いたものを読んではよーし自分もといきり立ったり。
でもしかし、ただしかし、、ここでしかし、、、
なぜそんなに潜り続けるのかと水面より上で過ごしている人から聞かれたとしたら、発見や吸収などの言葉だけでは、動機としては、不十分な気がする。
それもいいが、水面でのクルージングも気持ちいい、海辺でのバーベキューもおいしい、砂浜でのビーチバレーもでら楽しい。
そう言われればそうだし、スモグリなんかよりビーチバレーの方がでら楽しいように普通は感じる。
だから「海の中には、あんな魚がいるんだよ」、というような動機はまだまだ不十分に思う。
たぶん、それ以上に海に潜ろうとする大きな目的があると思う。
それは何かといえば、たぶん、もしかしたらそれは、いや感覚的に、
「原点への回帰」という事じゃないかなと漠然と感じた。
全ての生命が母なる海から産まれたのだとすれば、母なる海の奥深く、一番深く、自分が産まれた原点へ回帰しようとする衝動も、すごく納得いくような気がする。
「生命の根源への回帰」という究極的な目的が根底にあるのであれば、なぜ潜ろうとするのかという問いに対する本当の答えになりうるのではないかなと思う。
「ルーツを求める」
という行為は、ごく自然な行為だなと思う。
だけど人間は人間を止めることはできず、魚になれず。
いくら回帰のためと言えど、息が続かない中にいれば生命維持ができない。
だから今日も少し潜っては明日は水面で呼吸をし、浜辺でバーベキューに舌鼓を打ち、少し呼吸を楽しみ、また次にもう少し深く潜ろうとするのだなあと。
バイオリズムがぶれるという事は、この潜っている時の心地よさと相反する息の続かなさ、息が出来る安堵感と、潜りたいという衝動。
この二つの背反要素が葛藤し続ける過程で生活のふり幅が出来るのだなと、それが自分にとってのバイオリズムだなと思いました。