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Okinawa通信 ⇒ 伊都国つうしん

2010年1月。30年以上住んだ東京から引越し、沖縄生活をスタート。
その沖縄に10年暮らし、『Okinawa通信』を書きました。
が、さらに、2019年10月末に、ここ、福岡市西区・糸島近くの
「伊都国(いとこく)」の地に。

伊都国つうしん 116

 

 

●ま、そんな大それた話ではないのですが。

 

 

  福岡は、晩秋というか初冬の、晴続きの気持ちいい日です。

 

  朝晩は寒くなったけど、昼、晴の日の陽射しを浴びながら、あるいは

  開けられた窓から、小さな庭の植物に注がれる明るい陽射しを見ながら、

  いい日だなぁ、気持ちいいな、と感じている自分に気づき、

 

  「なぜ太陽は人を幸せにするのだろうか」という、ことを改めて ………。

 

  (これは基本、リタイアした人間だから感じられる日々のことですが、

   仕事現役の人も、きっと同じように感じているのでは、と思っています)

 

 

「なぜ太陽は人を幸せにするか」 …… そのもっとも基本と考えられるのは、

 

約35億年前(らしい)に、海の中の微生物から始まった生命、

それは太陽のエネルギーによって初めて生まれ、成長し、進化して、

その進化の果が、現在の人間だから …… という、ことなのでしょう。

 

シンプルに言うと、太陽がヒトを造ったから、ということですね。

 

 

つまり

進化の果て、「意識」 「知識」 「言葉」 を持った現在の人間が、

太陽から受けてきた、それこそ果てしない恩恵に感謝する知能があるから、

人は、陽射しを浴びていて、気持ちよくなり幸せな気分になるのでしょうか。

 

 

それとも、人間は気づいていないが、太陽が、

太陽自身を 「神」 とするようなエネルギーを発しつづけてきたので

お日さまをありがたく感ずるDNAが、植え付けられてきたのでしょうか。

 

 

ま、これは深く考える必要がない問題ですね。

だって、ほぼすべての生物は太陽があるから生きていられるのですから。

 

陽に向かって茎や枝を曲げ葉を広げる植物と、同じですよね、人間は。

 

 

雨が好きな人もいます、、、私もわかります。

災害は困るけれど、「時雨」「驟雨」 など雨の好きな文字もけっこうあるし、

「いい雨だな」 思ったことは、これまで何度も経験しています。

rain」 という、文字も言葉の響きも好きですね。

 

とはいえ、私はやはり、陽射しが好きですね、

ま、夏が大好きなのもそうなのでしょう。

 

 

 

          わが家の庭テラスのサンダルに

          なんとカマキリが日向ぼっこ。

          水色の履物に擬態したからなのか

          カマキリ本来の緑色じゃないなぁ。

 

 

 

 

 

●「止まない雨はない」 ということわざがあるし、同類のものも多い。

 

 英語圏にも 「Every cloud has a silver lining.」 ということわざ。

  (すべての雲には銀色の裏地がある) 和訳。

 

 つまり、太陽は必ずめぐってくる、ということ。

 

 

以前、ブログでもとりあげた吉原幸子の詩集の中「街」 に

 

  陽の当たるにはいい

  スクランブル交差点で 誰の足もとにも濃い影をおとし

  かなしみにも 陽があたる

 

  屋上のハトは人間をこはがらない

  回転木馬はいい

  アイスクリームはいい

  子供たち 老夫婦 うつくしい

 

  さうして かなしみにも 陽があたる

 

 

という詩がありますが、

やはり太陽は、人を幸せにする、

………少なくとも、哀しみを和らげてくれる力はありますね。

 

「なぜか」という表題の答えは、たぶん前述のような理由なのでしょうが、

それがわかったところで ………… ですよね (笑)。

 

 

 

 

             話は変わり

             11月13日(日)、3年ぶりに

             福岡マラソンが開催された。

             糸島の友人の旦那が参加するので

             わが家近くで応援に出た。

             スタートから15キロ付近なのだが、

             すでに歩いている人もいる(笑)。

             ともかく大勢の人で驚いた。

 

             ずっと天気なのに、

             なぜかこの日だけ小雨・曇天だった。

 

 

 

 

伊都国つうしん 115

 

 

● 特等席で、堪能しましたぁ、大満足。

 

  唐津くんちは、毎年、曜日に関係なく11月2・3・4日に行われます。

  3日が祝日ですから、何曜日であろうが、まぁいつもいい感じだそう。

 

 

今年は3年ぶりで開催される、とのことで私はぜひ行こうと思ってました。

旧友で、福岡勤務がある Seさんからも 「いいよ」 と言われていたし、

糸島の友人・彼女は私の昔の仕事仲間で、現在は糸島在住も、唐津出身。

で、唐津くんちには来てほしい、と言われていました。

 

たまたまナミさんのヨガ教室では糸島リトリートが行われていて、

沖縄から生徒さんたちが来ていて、彼女たちもぜひ見たいと。

 

  唐津くんちは、

  11月2日  宵曳山  午後7時半スタート

  11月3日  神幸祭  午前9時半スタート

  11月4日  翌日祭  午前10時半スタート

 

私らは、2日の宵曳山に合わせて、福岡・西区から唐津神社へ向けて出かけたのでした。

 

 

 

          2日午後6時頃の唐津神社。

          私、去年の5月に、

          神社そばの曳山展示場に来たことが

          ありますが、静かで小ぶりないい神社でした。

          それが、

          こんなに屋台並ぶ場所があったのか?

          と思うくらい、延々と縦横につづく屋台。

          それも屋台恒例の食べ物屋だけじゃなく、

          射的や金魚すくいなどモロモロ。

          鳥居下には、なんとお化け屋敷も(笑)。

 

          これだけで、みんな大盛りあがり。

          私もこれだけの数の屋台は初めて。

 

 

 

● 唐津出身の彼女は、

 

  「いつもは用意してるんだけど …… 今年はまったく用意してないから

   食事はできないので悪いんだけど ……」

 

 

というようなことを言っていたので、え、何のこと?? 正直、意味不明でした、

でも、よく話を聞いて理解し、今度は驚きです。

 

彼女の実家は、曳山(ひきやま)巡行が、まさに家の前の道を通る場所にあり、

例年、2階ベランダからそれを楽しむのだそう。それで、

そんな絶好の場所、ではなくても、唐津くんちの3日間、特に曳山を出す町内の家は、

遠くからの親戚縁者のために、盛大なおもてなし料理を提供するのだそうです。

 

「くんち三月倒れ」 という言葉がある、と彼女は言ってました。

くんちの3日間に出す盛大・豪華料理のために3か月分の給料が消える ……(笑)。

 

彼女の実家では、宵曳山の日だけにしているそうだけど、

今年は、久しぶりの開催でその用意ができなかったから、

せっかく招いたのに、おもてなしができない ……… ということを言っていたんですね。

 

 

いや、驚きました (笑)。

 

そんなことより、本当に、彼女の実家の目の前を、

14台の曳山が巡行する ………… それが特等席で楽しめるなんて僥倖!!

そちらのほうが、驚きでした。

 

 

 

● さて。 あとは当夜の写真の羅列です。

 

   唐津くんちの曳山は、現在、旧城下町14町の14台。

   巡行の順番は、毎年決まっていて、制作の古い順、だそうです。

 

   1番曳山が、刀町の赤獅子   1819年文政2年

   14番曳山が、江川町の七宝丸 1876年明治9年

 

   “幕末” が始まりかける江戸末期から、明治初めにかけて作られた14台だ。

   (今回の写真はみんなデカいです、恐縮です)

 

 

 

        唐津神社の参道、ずっと並ぶ屋台、

        人ごみの中を歩いていくと街なかに出る。

        そこには巡行準備の曳山が待機している。

 

        これは1番曳山・刀町の赤獅子。

 

 

 

          こちらは7番曳山・新町の飛龍

 

 

 

         彼女の実家近く。坊主町の交差点。

         夜7時半に出発した巡行は

         9時すぎにここに現れるのだ。

         それをたくさんの人が待っている。

         ようやくあらわれ、

         「エンヤー」の声が聞こえてくる。

 

 

 

● ここからは、友人の実家2階のベランダから。

 

   幅3~4mくらいの道いっぱいに、おおぜいの綱曳き人たちと曳山が通る。

   曳山の上に乗っている、半纏姿の若衆と目が合う(笑う)。

   (写真は14台全部ではないですが)

 

 

 

           最初にお目見えするのは、

           やはり1番曳山の刀町・赤獅子。

 

 

 

          こちら2番曳山の中町・青獅子。

 

          ウィキペディアによると

          唐津の子供たちがこの曳山巡行の順番を憶える

          歌があるそうだ。

          「10人のインディアン」という歌の替え歌だとか。

 

         「赤獅子 青獅子 浦島太郎、義経 鯛山 鳳凰丸

          飛龍 金獅子 武田 上杉 頼光、珠取 鯱 七宝丸」。

 

 

「鯛は何番目に古い曳山なんですかね」 と、友人の実家の2階で聞いたところ、

ちょうど隣にいらした彼女のお姉さんが、この 「赤獅子青獅子浦島太郎 ……… 」と

やり始め、5番目ですね、と言ったことを思いだしました (笑)。

 

 

 

         これこれ、

         たぶん唐津くんちの一番人気(私見)。

         5番曳山の魚屋町・鯛山。

         最初に子供たちが、そしてこうやって大人たちが

         ツナを曳いて巡行する。

         なんでも女の子たちにとっては、

         曳ける曳山と曳けない山があるそうだ。

 

 

            こちらは昨年5月に行った

            曳山展示場に展示されていた

            魚屋町の鯛山を撮ったもの。やはりユーモラス。

            曳山巡行では、

            鯛の頭と尾が交互に上下していた。

 

 

 

        こちら唐津の街なかで待機していた

        7番曳山の新町・飛龍。

        この曳山も龍の尾が上下に動いていた。

 

 

 

        こちら9番曳山の木綿町・武田信玄の兜。

        兜の曳山は、信玄のほかに、

        上杉謙信、源義経、酒呑童子と源頼光のかぶと、

        全部で4台ある。

 

 

 

    12番曳山の京町・珠取(たまとり)獅子。

 

    14台の曳山の多くが歴史上の逸話や人物などを

    絡めているのだけれど、

    この珠取獅子って、なんだろう……と調べてみると、

    唐津一番の商業町・京町では、

    商売繁盛の珠を獅子の足でしっかりつかむ、

    ということからのようです。

 

    ま、魚屋町の鯛山も、まあ歴史とは関係なく、

    まさに魚屋町絡みということだ。

 

 

 

        これがしんがり。14番曳山。

        江川町・七宝(しっぽうまる)丸。

 

        この江川町は、友人の実家のすぐ近くらしい。

        しかし、七宝丸って、

        どういう由来があるのか、七宝丸じたいを

        調べてもよくわからない ………。

 

 

 

ともかく。

長々、ありがとうございました。

 

しかし、いかに特等席で見物、観覧できたか、その興奮ぶりも伝わりましたでしょ(笑)。

いやぁ、面白かった。

 

 

 

 

 

伊都国つうしん 114

 

 

● それぞれの時代に、「こんな時代に …」 は、

 

  きっとあっただろうし、これからもあるのでしょう、きっと。

  なにを言いたいかというと。

 

 

つい先日、1993年に放映されたという

NHK「ふたりのビッグショー 岡林信康・泉谷しげる」の再放送を見ました。

 

ほぼ30年前 … ずいぶん昔ですね。

岡林って、歌うまいなぁやっぱりとか、

泉谷の「春夏秋冬」の歌詞は、やっぱりすばらしいなぁ本当にとか、

思って見てたのですが ……。

 

番組の中で、泉谷しげるが歌った 「なぜ、こんな時代に」 を聴きながら、

「こんな時代に ……」 のことを、考えてしまったのです。

 

 

もしや、いやおそらく、

 

歴史のそれぞれの時代に、

「こんな時代に(生まれて)……」 は、あったのではないだろうか、と。

 

どんな時代であっても、きっと

「こんな時代に(生まれて)……」 が、あったのではないだろうか、と。

 

それはさながら、大昔・古代の世から

「いまの若者は ………」 と、それぞれの時代の大人たちが言ってきたように。

 

 

 

          Okinawa通信】 に掲載した

           深川江戸資料館の写真。

           天保時代の庶民の長屋の様子。

           この当時でも

           「こんな時代に生まれて」 が

           あったのかもしれない。

           「今の若けぇやつわ …」 と

           同じように (笑)

 

 

 

● 私自身は、どうなのか ……。

 

  私は、

      太平洋戦争の敗戦の年から6年後に生まれ、、、というのは、

  何歳の時の記憶かはわからないですが(たぶん3~5歳か)、

  ラジオで時おり流れる、満州やシベリア抑留からの引揚船が

  舞鶴港についた、もしかするとその引揚者の名前も言っていたかも、

  そんなニュースを、何度か聞いたことを憶えている ………

  というような、ごく戦後まもない生まれ、ということです。

 

  団塊の世代のしっぽなので、ともかく同年代の人の数が多く、

  かつ、昔の歌にあった  “ 戦争を知らない子供たち ”  として、

  いわゆる右肩上がり、「今日よりも明日がよくなる」 という

  高度成長期時代に、、、バブル崩壊まで過ごしてきた ………、という人間。

 

 

そんな私は、実は今これを書きながら、改めて振り返ってみると、

「こんな時代に生まれて ………」 などと考えたことは、ない、気がします。

 

昔から、「あんたは、達観してるから …」 と言われてきた私ですが、

(ま、そういうこともあるかもしれませんが)

 

きっと、それだけ、いい時代に生きてきた、ということなのだろうと思います。

 

 

 

● そんな私なのですが、まさに今は、

 

 「こんな時代に ……」 ではなく、

 「これからの時代に ……」 を、考えて、しまいます。

 

 

 なんと言っても、ウクライナ戦争を含めた、「世界の分断」 だからです。

 白か黒か、排除の思想の蔓延です。

 

 曖昧さ ……… 「あいまいにしておく」 ことができる寛容さ、

 「あいまい」 を認めることの、ある意味での正しさ、を排除してしまう ……

 そういう風潮から、漠然と感じる、

 「これからの時代に生きる ……」 ことの不安を、考えてしまうのです。

 

 私の世代ではなく、これからの世代の人たちのことを、です。

 

 

 

以下の写真は、日経新聞に掲載された自社広告なので、

ご覧になった方もいると思います。

 

 

 

 

             10月22日掲載。

             この広告、実は2度め。

             以前にも同じものが掲載された。

 

 

そうなのです。

ウクライナ戦争に反対している人(国)は、世界の約3分の1なのです。

 

(もちろん人々が公平などとは言えないけれど)、自由主義を尊重する国と、

それ以外の(中立を言っている国も含め)、自由にものが言えないという国、

それが3分の2を占めているという、今の 「世界の分断」。

 

……そして巨大になった中国では、もう一人の独裁者がさらに強力に……。

 

 

 

 

 

              10月25日掲載。

 

 

………… これはいったい、どういうことなのか!

本当のことなのか! ならば日経は特集を組むべきでしょう。

 

…… 本当ならば、この国の政治家たち、行政施行の官僚たちは、

いったい、いったい今、どうなっているのか ………。

あきれ果てます、まったく。

 

 

………… この

世界の思想の分断、そしてわが国の為政者・施政者たちの堕落、混乱 ……、

 

実は これって、(私たちの多くは知らないですが)

第二次世界大戦 (日本では太平洋戦争) の前と、もしかして似たような、

世界の、そしてこの国の、状況、世相、思想の蔓延、なのか ………

 

なんて、恐ろしいことが頭に浮かびます。

だから、次の世代の人々のことを、考えてしまっている ………。

 

 

あぁ、軽い話で終わるつもりが、なんと、暗い怖い話題になってしまった。

すみません。

(ふだんは、どちらかというと基本、65%(笑)楽観主義者なのですが、

 酒に酔うと、ときどきこうなります)

 

 

気分転換に(なるかどうか)。

 

 

          久しぶりに焼鯖ずしを作った。

          作り方をもう忘れてしまっていたが、

          まぁ、なんとか。

          味も …… まぁ、なんとか、かな。

 

 

 

 

 

 

 

 

伊都国つうしん 113

※今回、なぜか文章の文字サイズが、途中で大きくなったり小さくなったり、
    さらには行間の幅が,、このように変わっていたりしています。
    テキストで一度書いてからアメバに入れているのですが、
    なぜ今回こうなったかまったく不明です。恐縮ですがご容赦ください。

● 何回か前のブログで書きました本の話題です

   面白い本でしたが、たぶん考古学界では黙殺されているのでしょう …。

   糸島出身の市井の考古学者・原田大六氏
   彼が1966年に出版した本。
    もしかするとこの本だけではなく、本人自身も
    忘れ去られているのでは、と危惧しています。

   なぜこの本の話を、というと、以前のブログで、

    今から56年前に書かれたこの本が、面白かったらまた紹介しますと言いましたが、
    いやいや、とても面白かったし興味深かったのでした。

   (古代史に興味がない方は、けっこう長くなるので、すっ飛ばしたほうが ……)

   
   そのときのブログにも書きましたが、本の序文で、原田大六氏は、

    神話は天皇を神格化するための物語であって、それが本当に実在するなんていうのは
    狂人であると言われるだろう、しかし実在なのだ、と証明するのがこの本なのだ、
    …… と書いています。

   と。


ただ、この「実在した」という意味は、『古事記』に書かれている、いわゆる

  イザナキノミコト、イザナミノミコトの両神が、日本国土を産み、
  イザナキが黄泉の国から逃れて川でみそぎをしたときに生まれたのが

  天照大神(アマテラス)、月読尊(ツクヨミ)、須佐能(スサノウ)であり、
  その天照大神が、高天原からニニギノミコトを地上に遣わす……。

  これがいわゆる天孫降臨(てんそんこうりん)という物語で、
  そのとき、天照大神はニニギノミコトに、
  八咫の鏡(ヤタノカガミ)、勾玉(マガタマ)、叢雲(ムラクモ)の剣、
  つまり三種の神器と言われているものを授けて、地上におくったとされています。


その、「八咫の鏡」であろう大鏡を、糸島の平原遺跡で発見した、

ということををもとに、“神話は実在した”のだ、としている ……
つまりは、神話のもとになった、実際のコト・ヒト、事実はあったのだ、ということです。

どういうことかを、もう少しわかりやすく説明していきます。



● この「実在した神話」 という本。



        以前も掲載した写真。

  この本は1998年、つまり初版から32年後に、
  新たに多ページの解説もつけて新装改訂したもの。
  まんざら、忘れ去られていたわけでもない、のか。
  それとも原田氏の信奉者が出版したのか。



       著者の原田大六氏。
  この風貌どおり考古学アカデミズムに噛みつき
  ケンカ大六、と呼ばれていた。
  がしかし、著書も数多く、
  当時センセーショナルの平原遺跡を発掘している。




本の内容を、おおざっぱにいいますと。

初めは、原田大六氏自身の、来し方、なぜ考古学に興味をもったのか、
同じ郷土出身の考古学者に師事し、先生の正しさを証明するために努力する話です。
これもなかなか面白い。

それが、平原(ひらばる)遺跡(原田氏は、平原弥生古墳と呼んでいる)の
発見・発掘に直接、私財を投じるほど深く関わります。
そして、大量に出土した銅鏡 …… まさにこれまで日本最多、最大の鏡に出会う話から、

この実在した神話の、話が始まります。



             大量の大鏡が発掘・発見された
             平原(ひらばる)遺跡。
             (画像サイトより)



      これは以前のブログに掲載した
      糸島市立・伊都国歴史博物館(原田大六氏が名誉館長)に
      展示されている大鏡。国宝。
      平原遺跡から発掘されたもの。




    その大鏡の当時の様子を復元したものが
    このように展示されていた。



さて、本のつづき。

原田大六氏は、古代の神は、太陽神である、前提・根本としています。
弥生時代の民を支える農業を支配するのは、当然、太陽から、ということですこの「古代の神は、太陽神」を、もとにして、
彼自身が大きく関わった平原遺跡の発見・発掘、およびそれが存在する糸島の土地、
との関係性を深く推論することから、「神話は実在する」をスタートさせます。


失礼ながら、彼の風貌からはちょっと意外なほど、この「実在した神話」の内容は、

考古学的事実と、その積み重ねによる推論、そこから生まれる展開が、論理的で、
説得性のあるもの、納得できるもので、驚かされます。



● その展開の説明、実は、原田大六氏についてのウィキペディアが
  とてもよくまとめているので、以下に借用します(抜粋)です。

  
   1965、前原町有田で平原遺跡を発掘調査。
   37面にも及ぶ銅鏡の出土に加え、銅鏡・鉄製素環頭大刀・勾玉という
   三種の神器を彷彿とさせる副葬品、八咫鏡と平原遺跡出土鏡の近似性から、
   古墳との共通性を推測。

   さらに、墳丘墓付近にあった2つ一組の穴を鳥居と推定し、2組の鳥居が
   それぞれ日向国に通じる名のある日向(ひなた)峠と高祖山に向いていることから、
   被葬者を太陽に関わる神事を行っていた人物とした。

   そして、記紀の神代の記述は北部九州で起きた史実を記録したものであり、
   平原遺跡の被葬者を玉依姫
   つまり大日孁貴尊(おおひるめのむち)=天照大神であると推量した。

   原田は、翌1966に出版した著作『実在した神話』で、これらの持論を展開。
   終戦後、皇国史観の反動で唯物史観が学会の主流を占め、
   記紀の内容は架空の絵空事だとされていた学会に衝撃を与えた。 



ウィキで出てくる

「前原(まえばる)町有田」はわが家のすぐ近くだし、
「日向峠」も近くだし、「高祖(たかす)山」は毎日見ている山です。

つまり“神話うんぬん”が、もう、すごく身近な場所なのです。、
沖縄時代とは全くちがった意味で、歴史にふれる興奮を感じています(笑)。




        毎日、目に入る「高祖(たかす)山」。
        ご覧のようにわが家周辺の田舎度が
        よく分かる(笑)。
        ここは福岡西区のはずれで、
        九州大学が越して来て以来、
        新しい建物がどんどん出来ている。

        『古事記』の天孫降臨の地は、
        一般的に日向の高千穂山とされている。 
        原田大六氏は、近くに日向峠もあるこの
        「高祖(たかす)山」なのでは……と
        暗示している。
再び、さて ……… 以上のことから、

原田大六氏が「神話は実在する」と断言したのは、どういう所からなのか ………  
その彼の主張を、私なり推測すると ……… を
以下に、ごく大ざっぱに言います(それでも長いですが)。

  金印「漢委奴国王」 しかり、魏志倭人伝にある伊都国、邪馬台国しかり、
  2~3世紀、この国の中心は九州北部、それも伊都国にあった。

  そこは、朝鮮半島を通じて、中国(当時の魏)あるいは朝鮮半島からの
  最先端技術や知識を、いち早く導入・活用できた土地であった。

  当時、弥生時代後期のその国で、最も大切にされ、敬われたであろう人物は、
  まちがいなく、農業に必要不可欠の太陽の動きを知る、司る人物であった。

  太陽がどこに来たときに田に水を張り、苗植えをし、諸々の必要な作業を行い、
  どの時期に収穫をするか……、を示すことができる人物。

  そして、その生きる源となる太陽の光を、なんと
  まるで手元に持ち込み動かすこともできる……「鏡」、を持てる人物。

  太陽の光を操れる青銅の鏡を、作り出す技術……を掌握する人物。 
 
  ……当時、岩石から銅をとりだし精錬する技は、それを大きな鏡にする技は、
  それは、まぎれもなく目を見張る「魔法」であり「魔術」であったであろう。

  その「魔術」から産まれた「鏡」…………、さらに鏡の中でも
  「大鏡」を何面も作り出す技術を持つ国を、治めていた人物…………。 
 
  その人物(女性)が埋葬されていた墓が、糸島・前原にある平原遺跡であろう。

  その地で作られた、大鏡を始めとする三種の神器が、その後の時代、
  この国の中心となった大和に渡り、さらに現在、伊勢神宮に収められている。


  ……そういう“事実”があったればこそ、 

  律令国家として、ようやくわが国としての国づくりが始まる奈良時代に、
  その“事実”をもとに、この国が産まれた成り立ちを、“神話”として、
  藤原氏など当時の為政者たちが、古事記や日本書紀に書かせたのであろう。


  ゆえに神話は、もちろん天皇を神格化するために作られたものではあるが、
  決して荒唐無稽な物語ではなく、実際に居た人物たちをもとにした物語なのだ。

  その証拠が、伊都国、現在の糸島の地にある平原遺跡なのである …………。


というのが、この本から私が感じた、原田大六氏の推論です。

とはいえ、不明な点も。

原田大六氏は、平原遺跡に埋葬されている人物、
太陽を司る人物を、「玉依姫(タマヨリヒメ)」 である、と言っています。
その「玉依姫」 イコール 「天照大神」である、としています。


玉依姫は、現在の天皇との関わり” …… でいえば、初代天皇・神武天皇の母親とされています。

つまり古事記の中でいえば、天照大神とは当然ながら全然、時代が異なります。


    以前、【Okinawa通信】“海彦山彦”の
    話で掲載した、神話の系譜。
    (これは画像サイトからのもの)

    天照大神から地上におくられた
    ニニギノミコトは、コノハナサクヤヒメと結ばれる。

    その子の一人・山彦と、嫁のトヨタマヒメとの間に
    生まれた息子の、嫁が、「タマヨリヒメ」だ。
    さらにその息子が、神武天皇となっている。



ではなぜ原田大六氏は、「玉依姫」イコール「天照大神」としたのか、
これは、私もよくわかりません。
もっと深く読めばわかったのかもしれませんが ……。

ただ、ウィキペディアによれば、「玉依姫」 は同名の神が複数存在するそうです。
なのでそのあたりから、天照大神につながることもあるのかもしれません。自分が生まれた糸島の土地、その土地の平原遺跡から発掘された大鏡、
  さらには神社の鳥居跡や山々との関係 ……… などなど、

  考古学者・原田大六氏にとっては、ワクワクするような環境、状況でしょう。

  従って、極力抑えようとしているのは感じられますが、
  やはり何度も、“我田引水”的なものが出てきているような印象もあります。

 この「実在した神話」が、考古学会から黙殺されているとしたら、
 そのあたりなのかもしれません。

どうなんでしょうかね、私にはけっこう説得性がある気がしましたが(笑)。


ともかく。
長々長々とおつき合い、ありがとうございました。

ちなみに今回の話とは関係ないですが、

「玉依姫」を主人公にしたベストセラーというかロングセラーというか、
「玉依姫 八咫烏シリーズ」 という、漫画があるのですね、

まったく知りませんでした。
ちょっと興味あり。











伊都国つうしん 112ことしの秋は、寒くなるのが早いのか

   10月10日あたりから、急に寒くなり、はや冬の気配 ………
   10日は最高気温で20度、11日は19度でした。
   昨年はその10日くらいまで30度だったのです。
   ことしは、9月20日過ぎになんと掛ふとんを取り出しましたもの。

   ちなみに、昨年の初掛け布団は、10月16日でした。
   衣替えは、ことしは10月18日、昨年は10月11日。

   やはりことしの秋は、寒いようです、伊都国は。

   とはいえ週間天気予報を見てみると。



              10月20日発表の週間天気。
              これを見ると、
              明日からの1週間は穏やかな秋のよう。




そんな、10月中旬の伊都国・わが家周辺の様子、写真の羅列です。



                10月11日。
                わが家からクルマで5~6分の所。
                稲の収穫時期だ。
                20日の今日は、もうすでに刈られている。






               わが家の玄関先の植木に、
               なんと、デカい青虫。
               きっとアゲハか何か大きな
               蝶になるのだろう。
               さすがに角度によっては見えにくい
               色や模様がまぎれやすくなっているなぁ。




         10月14日の深夜。
         西の空、天頂あたり。
         月に火星が最接近する夜、とのこと。
         火星は月の下に小さく。



        同じ時刻の東の空には、
        これ、たぶん水星? 木星?
        けっこうな明るさだった。





10月18日。
久しぶりに、わが家のごく近所、今山にある熊野神社へ、散歩。

神社のさらに上に小さな展望所がある。以前はそこから今津湾の海がよく見えた。
私らが来て3年になるけれど、樹木が伸びて、以前より海やいろんなものが
見えにくくなっている。展望できなくなってきたのです。
たぶんコロナの影響で整備ができなくなったのかな、と思う。

で。そこで「えっ!」と驚きの、桜。




     毎年3月下旬に、ここに桜の花見に来る。
     それがなんと10月に、桜が咲いている。
     さすがに、花はいくつか、なんだけど、
     ちょっと驚き。

     ことしの秋は寒さが早い、と書いたけど、
     桜にとってはどうなんでしょうねぇ。