伊藤野枝100年フェスティバル | Okinawa通信 ⇒ 伊都国つうしん

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2010年1月。30年以上住んだ東京から引越し、沖縄生活をスタート。
その沖縄に10年暮らし、『Okinawa通信』を書きました。
が、さらに、2019年10月末に、ここ、福岡市西区・糸島近くの
「伊都国(いとこく)」の地に。

伊都国つうしん 153

 

 

● 伊藤野枝は、ご近所・今宿(いまじゅく)で生まれ育っています。

 

   伊藤野枝(のえ)(1895年(明治28年)121- 1923年(大正12年))

   を知っているのは多くは年配者でしょう。

   そしてその多くは、野枝はアナーキストで性に奔放で、

   同じくアナーキストの大杉栄とともに憲兵に虐殺された………

   というくらいの知識しかないのではないでしょうか、私もですが。

 

 

 

       伊藤野枝と大杉栄。(画像サイトより)

       

 

 

  今回初めて知ったのですが、今宿で生まれ育ち、貧乏ゆえに

  何度か養女に出され、たぶん唯一金持ちの東京の親戚をたよって13歳で上京。

  それから本当にモロモロあり、28歳で憲兵隊に虐殺されるまで、

  実に7人の子どもを生み育てています。

 

  頭の良さ、信じられないほどの早熟さ、とんでもない女性だと知りました。

 

 

この 「伊藤野枝100年フェスティバル」 というイベント、

伊藤野枝のことを2日間にわたって語るもの、のようですが、

2日目の午後、講談師の神田紅が自作の 「伊藤野枝物語」 を演じ、

作家・編集者の森まなみが、おもに伊藤野枝の 「青鞜」編集者時代を語る会を、

糸島に住む友人夫妻がチケット買っていたのが、旦那が行けなくなったので、

こちらにお鉢がまわってきて、私がありがたく行ってきたしだい。

 

 

前述のように、ここ福岡市西区に越してくるまでは、

伊藤野枝の名前と漠然とした知識はあったものの、こちらに来て、

あ、今宿の人だったんだと知り、そして当地では有名人なので、

興味を持っていたしだいです。

 

 

  伊藤野枝100年フェスティバルのチラシ。

  「100年早かった女・伊藤野枝 ……」 とある。

  講談・講演を聞いて、まさにそう感じる。

  現在だったら、きっとすさまじいほどパワフルな

  女性問題リーダーになっているでしょう。

  今のようなジェンダー後進国・日本

  (146カ国中125位)

  ではなかったかもしれない。

 

 

 

 

● この100年フェスティバルの、100年、

 

   これは伊藤野枝が虐殺されてから100年、ということです。

 

   ちょうど前回のブログで、関東大震災から100年、という話をしました。

   実は、この関東大震災と大いに関係があるのを知りました。

 

 

 関東大震災の直後、どこからか「朝鮮人が井戸に毒を仕込んだ」 というような

 デマがながされパニックになります、多くの朝鮮人が酷い目にあいます。

 そしておよそ戦時下でしか発令されない、戒厳令が出されます。

 

 それによりわずかな嫌疑でも、政府側が官憲側が勾引できるのです。 

 

 事実、大杉栄の妹の子と一緒に避暑地からの帰り、自宅近くで(待ち伏せか)

 伊藤野枝、大杉栄、子ども橘宗一3人が、無理やり連れ去られ、

 そのまま、虐殺されるのです、罪のない子どもまでも。

 

 まさに100年前の死は、関東大震災が大いに、関係したわけです。

 

 

一応、  

フェスティバルで知った伊藤野枝の略歴を、短く簡単に書きますと。 

  

  当時は普通だった親が決める縁談が嫌で、最初に家をでたのが、13歳。

  今宿に戻されるが、東京の親戚に何度も長文の手紙を出し、

  その内容にほだされて許され上京し、上野高等女学校4年に編入したのが、15歳。

 

  翌年16歳には級長になるが、アメリカで働く青年との結婚を余儀なくされる。

  が、入籍後、卒業式のため上京し一旦帰郷するが、9日後に出奔。17歳。

  女学校の教師・辻潤のもとに転がり込む。辻はこれで辞職をよぎなくされる。

 

  ダダイスト辻潤は辞職後、まったく仕事をしないため、17歳の野枝は、

  「原始、女性は太陽であった」で知られる、平塚らいてうが始めた

  当時先進的な女性文学雑誌 『青鞜』 に入社し編集者になる。

 

  辻潤との間に2人の子を生む(長男は18歳の時)。

  辻は子の面倒をみないので、子連れで 『青鞜』編集部で仕事をする。

  19歳で大杉栄と知り合う。

 

  平塚らいてうが愛人と千葉御宿に去ったため、野枝が一人で 『青鞜』を編集。

  20歳で 『青鞜』の編集兼発行人となる。

 

  大杉栄と恋愛関係になり、辻潤とは正式に離婚。

  その後一緒に殺されるまで大杉栄とともに過ごし、5人の子を成したが、

  婚姻関係にあったかどうか、調べてもよくわかりません。

 

  …………… それ以後も、モロモロと …………

  

 

  

 

  伊藤野枝、20歳過ぎくらいと

  言われている写真(画像サイトより)

 

 

 

 

ま、正直、語り尽くせないです。

伊藤野枝の28年間は、通常人の2倍3倍圧縮された年月なのでしょう。

その信条、資質、言動力、原動力、持続力、爆発的な勉強力 ……。

ある意味、今宿が生んだ偉人・異人ともいえますね。

 

興味のある方は、本という形で彼女の足跡が残されています。

 

28年という短い人生なのに、その間に彼女が書いた文章、

なんと伊藤野枝全集があるし、岩波文庫に「伊藤野枝集」(森まなみ編)がある。

 

 

伊藤野枝は、ともかく書いて書いて書きまくった人のようです。

その内容はきっと読んだ人間を動かす力があるのでしょう。

東京の叔父を説得し、青鞜社の平塚らいてうをも説得し、自ら道を拓いた。

 

フェスティバルでの講師・森まゆみがまとめたレジュメに、

森が印象に残って選んだ言葉が、いくつか載っていました。

 

その最後に、当時、警察の最高長官でもあった内務大臣の後藤新平あてに

書いた長文の手紙の中の、一節がありました。

 

 

 「あなたは一国の為政者でもわたしよりは弱い」(「後藤新平宛書簡」191839日  )

 

後藤新平も印象に残った手紙だから、書簡集に残したのでしょう。