奇跡講座 テキスト編 p.323 – p.325
罪悪感を感じていなかったら、あなたが攻撃することはあり得ない。咎めが攻撃の根源だからである。それは一つの心が別の心を、愛に値せず、処罰されるべきものとして裁くことである。しかし、ここには分裂がある。というのも、裁いている心は、裁かれている心から分離したものとして自らを知覚しており、他者を処罰すれば自分は処罰を免れられると信じているからである。こうしたことのすべては、心が自らを否定しておきながら否定の罰からは逃れようとする妄想的な試みに他ならない。それは否定をやめようとする試みではなく、それにしがみつこうとする試みである。なぜなら、あなたにとって父を曖昧模糊にしたのは罪悪感であり、あなたを狂気に駆り立てたのも罪悪感だからである。
神の子の心の中に罪悪感が受け入れられたことが分離の始まりであり、贖罪を受け入れることが分離の終わりである。あなたが見ている世界は、罪悪感により狂ってしまった者たちによる妄想的体系である。この世界をよく見なさい。そうすれば、その通りだとわかるだろう。なぜなら、世界は処罰の象徴であり、そこを統治しているかに見える法則はすべて、死の法則だからである。子供たちは、痛みを通し、痛みの中で、そこに生まれてくる。彼らの成長には苦しみが伴い、彼らは悲しみと分離と死について学んでいく。心は頭脳の中に閉じ込められているかのようであり、頭脳の働きは、肉体が傷つけば衰えるかに見える。彼らは愛するかに見えるが、互いに見捨て、見捨てられる。彼らには自分の愛するものが失われるように思えるが、これはおそらく、あらゆる信念の中で最も狂った信念である。そして、彼らの肉体は衰え、息も絶え、地に埋められ、もはや存在しなくなる。神を残酷だと思ったことのない者はひとりもいない。
これが実相世界であったなら、神はまさしく残酷である。救済の代価としてわが子をこのような目にあわせる父が、愛ある存在であるはずがないからである。愛は救うために殺したりはしない。もしそのようなことがあったなら、攻撃が救済だということになるが、これは神による解釈ではなく、自我による解釈である。罪悪の世界のみがこのようなことを要求でき、罪悪感を抱く者のみが、そのようなことを思い描けるからである。アダムが自分を楽園から追放したのは父だと信じなかったなら、彼の「罪」は誰に影響することもなかっただろう。その信念の中で、父についての智識が失われた。なぜなら、父を理解しない者だけがそのようなことを信じられるからである。
If this were the real world, God would be cruel. For no Father could subject His children to this as the price of salvation and be loving. Love does not kill to save. If it did, attack would be salvation, and this is the ego’s interpretation, not God’s. Only the world of guilt could demand this, for only the guilty could conceive of it. Adam’s “sin” could have touched no one, had he not believed it was the Father Who drove him out of Paradise. For in that belief the knowledge of the Father was lost, since only those who do not understand Him could believe it.
この世界はまさに、神の子の十字架刑を絵に描いたようなものである。そして、神の子が十字架にかけられることはあり得ないと悟るまでは、これが、あなたが見る世界である。だが、神の子は有罪ではないという永遠の事実を受け入れるまでは、あなたがこのことを悟ることはない。神の子はただ愛のみを与えてきたのだから、ただ愛のみを受けるに値する。彼は咎めたことがないので、咎められることはあり得ない。贖罪は彼が学ばねならぬ最後のレッスンである。なぜなら、それは、一度も罪を犯したことのない彼に救済は不要だと教えるからである。
あなたが自分自身に目を向け、自分が行うことを正直に判断するなら、どうして自分が無罪であり得るだろうと訝りたくなるかもしれない。だが、次のように考えなさい。あなたが無罪だというのは、時間の中ではなく、永遠においてのことである。あなたは過去において「罪を犯した」が、過去は存在しない。常なるものには方向がない。時間は一つの方向に進むかに見えるが、あなたがその終着点に達したときには、あなたの背後の過去に沿って長々と敷かれていた絨毯のように、くるくると巻き取られて消えてしまう。神の子が有罪だと信じている限り、あなたはこの絨毯の上を、行き着く先は死だと信じながら歩き続ける。そして、その旅は長く残酷で無意味なものに思えるだろう。実際、その通りだからである。
As you look upon yourself and judge what you do honestly, you may be tempted to wonder how you can be guiltless. Yet consider this: You are not guiltless in time, but in eternity. You have “sinned” in the past, but there is no past. Always has no direction. Time seems to go in one direction, but when you reach its end it will roll up like a long carpet spread along the past behind you, and will disappear. As long as you believe the Son of God is guilty you will walk along this carpet, believing that it leads to death. And the journey will seem long and cruel and senseless, for so it is.
神の子が自分に課した旅はまさしく無益な旅だが、父が彼に定めた旅は解放と喜びの旅である。父は残酷ではなく、神の子は自分を傷つけることはできない。彼が恐れ、そして見ている報復は、決して彼に触れることはない。というのも、彼はそれを信じているが、聖霊はそれが真実ではないと知っているからである。聖霊は時間の終着点に立っている。聖霊と共に居るあなたも、そこに居るはずである。神の子にふさわしくない一切を聖霊はすでに取り消している。それが、聖霊が神から授かった使命だからである。そして神が授けるものは常に存在してきた。
The journey the Son of God has set himself is useless indeed, but the journey on which his Father sets him is one of release and joy. The Father is not cruel, and His Son cannot hurt himself. The retaliation that he fears and that he sees will never touch him, for although he believes in it Holy Spirit knows it is not true. The Holy Spirit stands at the end of time, where you must be because He is with you. He has already undone everything unworthy of the Son of God, for such was His mission, given Him by God. And what God gives has always been.
