ケネディ・ダラス・鉄の爪・・・ハンセンとブロディ | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

スタン・ハンセンとブルーザー・ブロディは「ミラクル・パワー・コンビ」として有名です。2人ともダラス地区で若き日々を過ごしています。今回は、ハンセンとブロディのダラスでの日々を軽く触れておきます。

 

 

 

ハンセンのプロデビューは73年の1月です。アマリロ地区をしばらくの間ホームリングとしました。74年春、短期間ダラス地区の試合に出ましたがあくまでもスポットであり、語るべきものはありません。強いて言えば、大学の先輩だったフランク・グーディッシュ(ブロディ)のプロデビュー直前で、おそらくはトレーニング中のグーディッシュに何らかのアドバイスを贈ったと思われます。

 

74年夏、次の本拠地をオクラホマ・ルイジアナ地区とすることになります。そこでグーディッシュと再開し出会い、9月にはシングル対決、そしてタッグを結成することになります。

 

 

ブロディのプロデビューは74年の4月末です。

 

デビュー数週間前から毎週、自称用心棒のフランク・グーディッシュが観客席からボブ・ループにいちゃもんをつけ続けました。ならばリングに上がれと、ループとの対戦が組まれす。その試合では敗れましたが、翌月フォートワースで雪辱しました。この2試合だけで、グーディッシュはオクラホマ・ルイジアナ地区に出ます。グーディッシュがブロディと改名するのは、76年東部WWWF入りと同時です。

 

 

75年秋の全日本プロレス遠征を終えたハンセンは11月よりダラス地区に入ります。デビューから丸3年を迎えようとしていたハンセンは、ここで初めてメインエベンターとなり、フリッツ・フォン・エリックと抗争しました。

 

エリックとの初のシングルは、75年の12月に行われ、アイアンクローで敗れました。また、76年1月に入って、NWA世界ヘビー級王者、テリー・ファンクが地区入りすると、ハンセンはテリーの用心棒を買って出ます。19日の2人はタッグを組んで、エリック&リッキー・マーテルと闘いました。が敗れました。

 

この頃、田園コロシアムを伝説の場とすることになる、アンドレ・ザ・ジャイアントとの初対決も行われています。正確な日時、場所はわかりません。おそらくフォートワースと思います。メインエベントとして行われ、アンドレがフライングボディプレスで勝ちました。

 

そしてハンセンは、WWWF地区に転戦し、4月26日のMSGで王者ブルーノ・サンマルチノの「首を折って」名を売ることになります。

 

 

MSGでのサンマルチノ対ハンセンの抗争がひと段落して、次の挑戦者はブロディでした。ブロディは76年9月、10月とサンマルチノを苦しめた後、77年に入ってダラス地区に大きくなって戻ってきました。まさしく「カムバック、サーモン」です。

 

以後、翌年オーストラリアに転戦するまで、ブロディはダラス地区に長期滞在します。ブロディはヒールとしてエリックやジミー・スヌーカと抗争しました。また、この時期にはすでにケビン、デビッドといったエリックの息子たちもデビューしていて、リング外では、彼らの兄貴的な存在だったようです。

 

オーストラリア遠征最大の土産は、お嫁さん(バーバラ嬢)を連れ帰ってきたことでした。79年、オーストラリアから戻ってきたブロディは再びダラス地区に戻ります。そして、80年1月、全日本プロレスに、いよいよ初来日を遂げます。