懐かしのエッセイ・・・ブルーザー・ブロディ | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

全国2500万人のプロレスファンの皆さん今晩は。レッド・ツェッペリンの「移民の歌」にのってブルーザー・ブロディの登場です。

 

「ウオッ!」「ウオッ!」「ウオッ!」

 

私とブロディとの出会いは1976年のことであった。

 

この年の4月ニューヨークMSGでブルーノ・サンマルチノがスタン・ハンセンに首を折られた。2か月の入院、休養をへて6月サンマルチノはハンセンに雪辱。8月に完全決着の末、9月からはブロディがサンマルチノの抗争相手となった。ブロディに対してもサンマルチノは大苦戦、当時私はハンセン、ブロディのことを知らず、「無名の若手にあんなに苦戦するなんて、サンマルチノもヤキが回ったもんだぜ」と思ったものだった。

 

実をいうと私は大のサンマルチノファンである。サンマルチノが苦戦したのならよっぽどの大器と思うべきだが、クラッシャー・ブル・ベドウやブルドック・ブラワーあたりの「一応名前は知っているけど2流」に苦戦した実績がサンマルチノに対する不信となっていたのであろう。ハンセン、ブロディの後の活躍ぶりをみればサンマルチノも苦戦のしがいがあったということになる。その前年、2人がブロディとハンセンがアメリカ・ミッドサウス地区でタッグを組んでいたというのも因縁だ。

 

ブロディが初来日したのは79年全日の新春ジャイアントシリーズであった。78年暮れ、「月刊プロレス(だったと思う)」誌上のファンクス、ビル・ロビンソン、ニック・ボックウィンクルの座談会で、「次のシリーズにはいよいよキングコング(ブロディ)がくるようだな。」なんて述べていた。一流どころにも注目されていルンだな、と思った。

 

まず、正月恒例のバトルロイヤルで度肝をぬかれた。だれかがブロディの足をすくう。5~6人でおおいかぶさる。しかし、なんとブロディははねのけたのだ。こんなことって後にも先にもみたことがない。故ロッキー羽田のおどろいた顔を見せる。

 

数日後の川崎でブロディは馬場からピンフォールをとっている。「デラックス・プロレス」のインタビューで馬場からピンをとったことについて「ラッキーだった」と述べている。ちょっとこいつは違うな、と思わされた。

 

当時のブロディの武勇伝をあげておこう。

 

カンサス(だったと思う)でハリー・レイスのもつNWA世界ヘビー級タイトル幻の奪取。ピンを奪うものの判定が覆る。落ちついた目をして胸の前にベルトを掲げた写真が残っている。

 

78年暮、オーストラリアでアンドレ・ザ・ジャイアントをロープ最上段からのニードロップでフォール。ロープ最上段からの攻撃を反則にとられ判定が覆ったため公式の記録には残っていない。「プロレス・スーパースター列伝」で有名なネタである。猪木がアンドレから世界初のギブアップを奪った86年より前のことだ。

 

冷静に考えれば、当時の海外情報は、アメリカ発がほとんどで、オーストラリアからのルートはなかったか、あってもアメリカ経由である。情報はあまり伝わってきていなかった。同じような試合展開は、79年9月のセントルイスで、それが「オーストラリア発」と誤って伝わったのであろう。

 

ブロディのプロレスは難解で、日本のファンに理解されるようになるのには時間がかかった。余力を残して戦っていることがミエミエで、見ていてスカッとしない、これが当時の感覚だ。

 

82年僚友ハンセンが全日に移り、待望のハンセン&ブロディも実現した。このタッグは史上最強タッグとはいえるが名タッグとはいえない。チームワークが全く感じられず、1+1=2でしかないからである。しかしその「1」の大きさがとてつもない。ハンセンに触発されてブロディも本気を出すかと思ったがこれも期待はずれであった。さらに、テンポの早いハンセンがそばにいたことで、ブロディのかったるさはさらに目立ってしまったのだ。

 

これがブロディのスタイルなんだと私が理解できた頃、彼は新日に移った。全日最後のシリーズはロード・ウォリアーズが初来日した。自分に注目が集まらない腹いせか、両国国技館での長州力との試合は目茶苦茶であった。技を全く受けず、顔面に容赦のないキック、ブロディ強しを印象づけた。

 

一ヵ月後両国での猪木との初対決、いろいろ言われた闘いだが、当日会場にいた者として証言する。「あれは名勝負であった」。

 

試合経過は殆ど覚えていない。しかし、一万人余りの観客が二十数分間引き込まれ続けたのは事実だ。プロレスを超えた人間と人間との戦い、といったところであろうか。ブロディが新日に出ていた一年半、猪木が輝いていた最後の時期だったのかもしれない。何度かにわたるシングルマッチはどれもハイレベルな戦いであった。

 

ブロディと新日との間のトラブルで対前田戦、対アンドレ戦が流れた。歴史にIFはタブーだが、この二つの戦いが実現していればプロレスの歴史は変わっていたであろう。

 

87年秋、ブロディは全日に復帰した。暮れの最強タッグにジミー・スヌーカと組んで出た。ハンセンはテリー・ゴディと組んで参加しており、いよいよハンセンとブロディの対決だ。場所は後楽園ホール。ド迫力の対決は「明るく楽しく激しい」全日本プロレスの原点といえるものだ。

 

当時新日は「ギブアップまで待てない」「たけしプロレス軍団」「前田、長州蹴撃」事件など暗い話題が多く、のちにリバプールの風となった山田君は「ペガサスと組んで全日に出たい」なんてグチってたっけ。88年3月27日武道館で鶴田からインター王座を4年ぶりに奪回、これほど嬉しそうなブロディを見たことはない。試合後リングサイドのお客さんと抱き合っていた。

 

大阪での防衛戦の相手は天龍。30分ジャストで両者リングアウト。当時としてはお客さんをがっかりさせる結果であったが、内容の濃い試合であった。

 

「ハンセンにはプロレスラーの凄さを、ブロディにはプロレスの凄さを教えられた。」当時天龍は述べてる。結局タイトルは鶴田に奪回されるが、ブロディはインタビューで「天龍、谷津、鶴田とぶつけられて防衛し続けるには至難なことだ」としんどさを素直に述べている。特に鶴田戦のハードさを強調しており、天龍革命以前に鶴田の力についてきちんと述べていたのである。

 

 

そして7月、あの忌まわしいプエルト・リコでの事件。リアルタイムで力道山の死を知らぬ私としては、プロレスラーの死としては最大のショックであった。ジョン・レノンの死にも匹敵した。

 

そして、プロレス界にあいた穴はあまりにも大きく、未だ埋まりきっていないようにも思える。8月末に武道館で追悼試合。私は花をもってかけつけた。暑い残暑の日であった。次の年が明けてすぐ、元号は「平成」にかわり、「平成プロレス」にブロディはいない。

 

(1996年頃に書いたものです)