物語 オーストリアの歴史(備忘録) | 月を見上げるもぐらのように

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日記及び読んだ本や面白かったサブカル感想(ネタバレ有り)を書きたい、なと思ってみたり、みなかったり。

前の記事で書いたオーストリアの歴史で、興味深かった人物の概略を残して置こうと思います

😊
面白かったのは、第6章「ザルツブルク」で紹介されていた

1.レオンハルト・フォン・コイチャッハ
2.ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ
3.レオポルト・アントン・フォン・フィルミアン  の3人です。

まず、ザルツブルク州の概略を。
ザルツブルクを日本語訳すると「塩の砦」になるそうで、言葉通り塩や鉱石などの地下資源が多くあった土地柄でした。
西ローマ帝国崩壊後、キリスト教の布教を中心に発展した宗教都市であり、豊富な地下資源と生きる上で欠かせない「塩」を武器に経済的にも発展しました。
西暦798年にはキリスト教の大司教区に、1218年には大司教が神聖ローマ帝国の侯爵になり「侯爵大司教」が治める特異な領地となりました。

1.「コイチャッハ」
コイチャッハは、1495年に大司教に就任し、今では「世界の名城25選」にも選ばれている

※画像は拾い物。
ホーエンザルツブルク城を整備強化しました。
コイチャッハは、就任以来 領主の権限拡大に努め、鉱業の振興、住民への苛税を敷きました。
結果、時のローマ皇帝に融資をしたり、統一通貨を持たなかった帝国内で、コイチャッハが鋳造した貨幣が流通する程の信用を得るに至りました。

しかし、北イタリアに近くアルプスの交易路として経済的に発展してきた、ザルツブルクの名士達は、コイチャッハの暴政に我慢がならず、遂にはローマ皇帝に暴政への介入を願う訴えを出すに至ります。

皇帝の介入を受けたコイチャッハは、市民達の反撥を抑える事の難しさを痛感し強行手段を決断しました。
1511年、反撥をやめない市長及び市参事会員たちを、ホーエンザルツブルク城の晩餐会に招待したコイチャッハは、武装した傭兵たちを引き連れて市長達を拘束しました。
※遅れてきた参事会員が、晩餐会場から激しい怒号と悲鳴を耳にして、恐れおののいて街へ逃げ帰った伝承があるそうです

コイチャッハは、捕らえた市長達を厳寒の中、晴れ着のまま橇に乗せ、死刑執行人を連れて南方の街へ連行しようとしたところ、多くの市民たちからの哀願を受け、市長達を開放しました。
※寒さと恐怖で命を落した者もいたそうです。

コイチャッハは、自身の権力の強大さを市民に最悪な形で刻み込み、市民達の特権を剥奪し、自治権を著しく制限する事に成功しました。

2.「ヴォルフ・ディートリヒ」
1587年に大司教に就任したヴォルフはザルツブルクの全盛期を築いた人物。
ヴォルフは母親がイタリアの名家メディチの係累で、時の教皇を大叔父に持つ聖職エリートでした。
プロテスタントが台頭した時代に大司教に就任したヴォルフは、ザルツブルクの市参事会員は今後全員カトリック教徒たるべしと定め、違反者は市外追放に処すと言い渡し、大聖堂で熱烈な説教を行ったり、市民が領外のプロテスタントとの婚姻を防ぐため厳罰を持って対処した。
だが、鉱山労働者の多くがルター派信者であり、カトリック修道会の手練手管を持ってしても難しい事を知ったヴォルフは、プロテスタントへの迫害の手を緩めた、鉱山労働者は補充困難な専門職であり、彼らが領外へと亡命した場合の経済への悪影響を危惧した為と言われている。
現実主義者であったヴォルフは、富める者からは容赦なく税を搾り取る一方で、民衆から搾取する不正徴税吏には厳罰で対処し、ペストの脅威には隔離病棟を設け、救貧活動にも力を入れた。
カトリックの要職に励む一方で、贅沢な宮廷生活を好んだヴォルフ大司教は、独身を守るべき立場でありながら、市内の商人の娘と内縁関係を結び15人の子供を設けた、ヴォルフの行いはカトリック界からも避難を受けたが、ヴォルフは動じず、遂には時の皇帝ルドルフ2世から妻と子供達に貴族の称号を取り付ける事にすら成功している。

そんな、ヴォルフが着手した最大の事業がザルツブルクの大都市計画である。
教皇シクストゥス5世の時代にローマで花開いたバロック建築に魅せられたヴォルフは、大司教館の大規模改築、古い市壁の撤去、架橋工事に至るまで、都市像を根本から変化させザルツブルクの外観を刷新した。
歴史的建造物であった旧ザルツブルク大聖堂が焼失した際も、協会関係者が恐慌状態に陥る中、ヴォルフは「燃えるものは燃やしておくがよい」と言い放ったと伝わるとか。
火災の被害は甚大で、焼け跡の瓦礫撤去だけで8年を要し、大聖堂の火災が1598年に発生し、新たな大聖堂が完成を見たのは1628年の事だった。
ヴォルフの情熱により華麗な街並みへと変身を遂げたザルツブルクは、のちに「アルプスのローマ」「小ローマ」の異名取った。

暴君であり、優れた領主でもあったヴォルフであったが、1611年塩の採掘権をめぐり隣国バイエルンと争いを起こし、敵国からの不意の派兵に直面し、ひそかに逃亡したが追手に捕らえられた。
協会内、領内共に多くの敵を抱えていたヴォルフは虜囚としてザルツブルクに帰還するが、大司教の座を廃位されホーエンザルツブルク城で幽閉され、その生涯を終える事となる。

3.「フィルミアン」
1727年に大司教に就任しザルツブルクを衰退させる原因となったプロテスタント迫害を行った人物がフィルミアンである。
ザルツブルクでもプロテスタント信仰は広く支持を集める様になっていた、大司教領であるザルツブルクではカトリック以外の信仰は公には認められていないが、経済的な影響を考慮され、時どきの大司教により締め付けと緩和を繰り返される形となっていた。

しかし、フィルミアンの登場で状況は一変する。
就任と同時に領地における「信仰の浄化」を掲げたフィルミアンは、プロテスタント撲滅を推進する過激派 イエズス会を導入し、プロテスタントへの逮捕・監禁、焚書など厳しい措置が取られた。
1730年頃には大司教領で2万人を超えていたプロテスタントは、フィルミアンの急激な弾圧に反撥し、領内のルター派の農民は団結し、帝国会議に信仰の自由を求めて嘆願書を提出する。
領民による直訴はフィルミアンの弾圧に拍車をかける結果となった。
フィルミアンは領内のプロテスタント全員を叛乱分子と断じ、領外退去を命じた。
時代は30年戦争が終結してから一世紀以上が過ぎ信仰を巡る争いはピークを過ぎ、ローマ教皇ですら厳しい処罰よりも改宗への働きかけなど、穏便な対応策を望んでいたとか。
フィルミアンは、穏健派からの介入を防ぐ為、宗教問題解決に対して実力行使を行う際の諸問題を「領主への叛逆」という罪状へとすり替えて弾圧を続けた。

フィルミアンの追放令執行は苛烈を極めた、プロテスタントの人々は冬が迫る中、着の身着のままで叩き出され、降雪期の凍てつく山道をバイエルン国境へと連行された。
翌年の春までにおよそ2万2千人の住民が強制移住を強いられた。
これほどの人口流出の結果、大司教領の産業と経済は19世紀に至るまで立ち直ることができなかった。
そして故郷を追われた2万もの群衆は、プロイセン王 フルードリヒ・ヴィルヘルム1世の保護を受けプロイセンの国力増強に寄与したり、新天地を求めてオランダや新大陸まで旅を続けた者も居たとか。

大司教の暴挙を恥じて、フィルミアンの末裔である伯爵夫人は、亡くなる前に自らの莫大な財産をもとにザルツブルク出身の新教徒の子どもたちを対象とする奨学基金を設立したり、第二次世界大戦後には、ザルツブルクのプロテスタント教区監督叙任式に招かれた大司教がフィルミアンと同じポストを占める者として、迫害への深い斬鬼の念を表明した。

他にもティロルで対ナポレオン戦争で活躍した、ティロル解放戦争の英雄 アンドレアス・ホーファーも備忘録に残しておきたかったのですが、ティロル解放戦争が複雑で自分ではまとめきれなかったので断念しました😅

↑ブログで紹介していたページを一応貼っとく。