
スタンダードを極めた人間にしか、スタンダードを超えることはできない。
基礎と格闘せず、早道を行こうとする奴は、たいてい失敗する。
表面だけで、根本がないからだ。
突き抜けたことをしたいなら、基礎を徹底的に学ぶことだ。
基礎を超えるなら、格闘しながら基本を極めるしかない。
何の報いも期待されず、何かを与えられた者は、どう思うだろう?
何としても相手に多く返したいと思うにちがいない。そこに人を動かす力の本質がある。
毒にも薬にもならない人間には、何も為せない。そして人は、薬にばかりなりたがる。
しかし、何かを激変させる力があるのは、薬ではなく毒のほうだ。
何かがうまくいっているときに、人はみんな
「運がいいよね、うまくいっちゃって」って言うけれども、冗談じゃないよ。
俺はあんたの100倍血のにじむような努力をしてるんだっていうふうに
言いたい気持ちを抑えて、飲み込むわけですよ。
それを言っちゃったら馬鹿だから。
「運がいいよね」って言われてないときは、うまくいってないときだから、
「運がいいよね」って言われなきゃ駄目なんですよ。
そのときに自分で、これほどの努力を人は運というか、
っていうふうに苦笑しているっていうのが、一番いい時だと思うんですよね。
だから「これほどの努力を人は運と言う」っていう言葉が僕はとっても好きなんです。
新しく出ていくものが無謀をやらないで、一体何が変わるだろう。
僕が一番嫌いなのは、小手先とか、表面的とか、上辺とか、それが一番嫌いなの。
それでやってる限り、結局出てくる結果も、上辺や、表面的や、小手先でしかない。
チャンスは「今がチャンスだ」と思うものではない。
後から「あれはチャンスだった」と思うものなのだ。
「神は細部に宿る」という建築家の言葉は、仕事にもあてはまる。
つい、見過ごしてしまうものにこそ、事を左右する鍵がある。
小さなことを守れないやつに、大きな仕事などできるはずがない。
「努力」という言葉を、僕なりに定義し直すと、それは圧倒的なものになって、
初めて「努力」と言える。一般的に言う「努力」など、その名に値しない。
人が足元にもおよばないほど行った凄まじい努力が、僕の言う「努力」である。
圧倒的努力とは、とても単純である。
人が寝ている時に寝ないってこと。人が休んでいる時に休まないってこと。
そして、どこから手を付けていいかわからない膨大なものに、手を付け、最後までやり通すことだ。
「運が良かった」は、謙遜でのみ使うべきだ。断じて他人をこう評するべきではない。
その言葉は思考を停止させ、努力を放棄させ、成長を止めてしまう。
【幻冬舎】見城徹が語った『努力』に関する言葉