慶応四年二月。
庭には春の草花がちらほらと見え始めている
(この風景も…あとどのくらい見ていられるんだろう…)
自嘲的な笑みを浮かべ、僕は薄暗い庭を一人でぼんやりと眺めていた。
「あの…沖田さん、何をしているのですか?あまり夜風にあたっていると、お体に障ります。風邪をひきますよ」
おずおずとした声が聞こえた。
庭から目線を外し、声のする方へ顔を向ける。
背丈の小さな少年が、羽織りを手に立ち尽くしていた。
「別に。庭を眺めているだけだけど?」
冷たく一言だけ返すと、声の主はしょんぼりとうな垂れ、踵を返して立ち去ろうとしている。
「…なんだけ?」
「えっ?」
僕が声をかけた事に、ひどく驚いたらしい。
戸惑いながら僕の様子を伺っている。
(乳臭い顔のガキだな。どうせ土方さんに上手く言いくるめられて、わけもわからずここにいるんだろう。)
「君の名前」
ぶっきらぼうに問いかけると、怯えた顔でボソボソと呟いた。
「市村…です」
「市村…何?」
「鉄之助です。市村鉄之助です」
緊張しているのか、怯えているのか、声がわずかに震えている。
(てつのすけ…鉄之助…。前にいた奴は銀之助とか言わなかったっけ?ペラペラとよく喋る子供だったな。銀の次は鉄か…)
鉄之助は僕に声をかけられたものの、どうしたらいいのかわからないらしい。
一歩も動かずその場で居心地悪そうに立ち尽くしている。
「ここ…座ったら?」
僕の隣を指差すと、明らかに躊躇した顔を見せた。
「あぁ、僕の傍に近寄るなって、土方さんに言いつけられてるのか。僕の病は移るからね。」
「違います!」
鉄之助は真っ赤な顔をして、少し怒ったような声を張り上げた。
「僕なんか…僕なんかが話し相手では…つまらないと思うので…その…」
「つまらないも何も、君とはろくに話をした事がないから、そんな事わからないよ」
鉄之助は数日前からこの屋敷に滞在している。
色々と面倒を見てもらってはいるが、必要以上の会話をした記憶はまったくない。
「すいません」
「別に謝らなくていいんじゃない?」
「すいません」
「とにかく…ここに座ったら?」
鉄之助は黙って僕の隣に腰を下ろした。
「…」
「…」
しかし何か話しかけてくる様子は一つもない。
「梅の花を見てたんだ」
痺れを切らせ、僕の方から話しかけた。
「梅ですか?」
黙って庭の白梅を指差すと、「綺麗ですね。」と小さく呟いた。
「『梅の花 咲ける日だけに 咲いて散る』」
(だったよね、確か?あの豊玉先生の詠んだ歌は)
「それって…沖田さんが詠んだ歌ですか?」
大きな目をキョドキョドとさせながら、僕の顔を覗き込んできた。
(そんな事あるわけがない!)
噴出しそうになるのを必死に堪え、わざと大真面目な顔でこう応えた。
「この歌はさ、豊玉って有名な歌人が詠んだ歌だよ」
「そうなんですか!…うめのはな…さけるひだけに…さいて…ちる…うめのはな…」
鉄之助は何度も何度も土方さんが詠んだ歌を繰り返し繰り返し口にしては、なにやら嬉しそうに頷いている。
(何?もしかして…土方さんが詠んだ歌に感心してるわけ?)
さらに笑いがこみ上げそうになるのを堪えながら、僕はさりげなく問いかけた。
「ねぇ…この歌が気に入ったの?」
「はい!なんだか…なんだか新選組の事を詠んだようですね」
(そうかもね。なんたって新選組の鬼副長が詠んだ歌なんだから)
「じゃあ、こんなのはどうかな?『梅の花 一輪咲いても 梅は梅』」
「なんですか、それ?ずいぶん素人っぽい歌ですね」
さっきとは正反対の酷評に、ますます笑いがこみ上げてくる。
「沖田さん?どうかしましたか?気分…悪いんですか?もしかして…寒いんですか!?震えてるじゃないですか!」
どうやら笑いを我慢して肩を震わせている僕を、具合が悪くなったんだと勘違いしているようだ。
真剣な顔で僕の背中を擦り始めた。
「…ふっ…くくくくくくくく…もう…だめだ…」
「そんなに辛いなら早く布団に横になりましょう!」
「ぷっ…あはははははははは…もう我慢出来ない…面白いよ、君。面白すぎる」
鉄之助は僕が笑い出した意味がよくわからないらしい。
オロオロしながらその理由を考えているようだ。
「あっ…そうか…すいません…僕…歌の良し悪しがわからなくて…。二番目に教えてくださった歌…あれの方がいい歌だったんですね…。すいません…勉強不足でした」
(いい歌…土方さんの詠んだ歌を…いい歌…だって…もう駄目だ…お腹が…よじれる。)
「すいません。僕…歌の良し悪しもわからないし、なんだか沖田さんの世話もろくに出来なくて…ホントすいません」
笑い声を堪えながら、僕は横目でチラリと様子を見た。
鉄之助はがっくりとうな垂れ、今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。
「君って面白いね」
「は?」
「久しぶりに笑ったよ。面白かった」
「面白い?笑ってた…んですか?僕、何か面白い事…言いましたか?」
おどおどとした目が僕の顔を覗き込んだ。
「うん!すっごく面白かった。君の前にいた…銀之助だっけ?あの子はかなりのおしゃべり上手だったけど、いま一つ面白みにかけるんだよね。お腹の底から笑わせてくれたのは君の方だよ」
鉄之助は色白な顔を赤らめ、はにかんだ笑顔を浮かべた。
「何が面白かったのか全然わかりませんけど…沖田さんとお話し出来てよかったです。僕も面白かった…楽しかったです」
「そう?」
(そのクソ真面目で、妙に正直なところが面白いんだよ。からかい甲斐もありそうだし)
鉄之助は僕のほくそ笑む顔の意味にまったく気づかず、にっこりと笑いかける。
そしてゆっくりと庭の白梅へ目線を移した。
「綺麗ですね…夜に咲く梅の花」
「うん、綺麗だね」
僕らはそれ以上何も話さず、ただ黙って梅の花を眺めていた。
それはまだ少し肌寒い、春の夜の事。
僕が過ごした最期の年の、春の夜の出来事だった。