函館を出てどのくらい経ったのだろう。
まだまだ日差しが暑い夏の日、僕はやっと日野宿まで辿り着いた。
道を聞いても誰も耳を貸そうとしない。
そうだろう、ボロボロな服に薄汚れた顔、こんなにもみすぼらしい格好をした僕に関わりたい者などどこにもいない。
暑さと疲労と空腹でぼんやりしながら、僕は必死に目的の家を探し続ける。
やがて一軒の家に辿りついた。
何度も何度も玄関を飾る表札を見た。
「ここだ…やっと…やっと…着いた」
ふらふらと家に近寄り、無我夢中で家の戸を叩き中の人を呼んだ。
やがて一人のご婦人が現れた。
いぶかしんだ顔で、僕を上から下までなめる様に見つめている。
もしかしたらこの人は、土方さんのお姉さんなのかもしれない。
目の辺りがよく似ている気がする。
言い表せない感情を持て余しながらたった一言「土方さんの命で…」とだけ呟き、ボロボロになった包みを差し出した。
ご婦人が手を出した瞬間、僕の目の前は暗くなり、ここで僕の記憶は途切れてしまう。
次に気がついた時には、僕は布団の中にいた。
「鉄之助…君?大丈夫?」
身動ぎすると、先ほどのご婦人が心配そうな顔で僕の顔を覗き込んでいた。
「よくここまで来たね。たった一人で…辛かったでしょう。でも、もう大丈夫だよ。歳三も…歳三も…君みたいな小さな子に無茶させて…本当にもう…」
苦笑いを浮かべながら、薄汚れた僕の頬を長い指でそっと撫でる。
「少し食事を取って、それからお風呂に入ろう。服は歳三が残していったものがいくつかあるから…でも、少し大きいかな?」
土方さんの名前を聞いて唇が震えた。
何か言葉を返したいが、上手く口が回らない。
言葉が空回りして口をパクパクさせる事しか出来ない。
そんな自分が余りにももどかしくて、涙が出た。
そんな僕を咎める事もせず、ご婦人はただ黙って抱きしめてくれた。
「大丈夫だよ…もう大丈夫だからね…」
久しぶりに感じた人の温もり。
僕はただ…咆えるように声を上げ泣いた。
その後、僕はしばらく佐藤家で世話になる事を決めた。
最初に会ったご婦人は、やはり土方さんのお姉さんである佐藤ノブさんだった。
ノブさんは僕を年の離れた弟のように可愛がり、優しく接してくれた。
と同時にとても厳しい人で、何度か不始末を起こしては遠慮のないげんこつが僕の頭に落ちた。
「まるで女版の土方歳三だよ」
そう言うと、いつも少しだけ寂しげに笑っていた。
そんな表情も、在りし日の土方さんを思い出させる。
やがて時が過ぎ、榎本さんの使いを名乗る者がこの家を訪れ、土方さんが蝦夷で戦死した事をはっきりと告げた。
それは僕が五稜郭を脱出した、ほんの数日後の出来事だったそうだ。
土方さんは孤立した味方の救出に向い、その途中銃で撃たれて亡くなったらしい。
凶弾に倒れても最後の最期まで戦い抜いたという。
「無茶苦茶な人だよ、本当に…。でも…あの人らしいや」
僕は遠くへ往ってしまったあの人へと思いを馳せる。
遠い北の大地で眠る、僕が憧れ追いかけ続けたあの人へと思いを馳せる。
そしてゆっくりと、三年の月日が流れて行く。
僕は長い間世話になった佐藤家を離れ、実家へ戻る事を決めた。
ここに戻って来たのは何年ぶりだろう。
僕の生まれ育った家は、何一つ変わってはいなかった。
そして僕はここで意外な人と再会する事になる。
兄、辰之助だ。
お互いにもう会う事はないだろうと覚悟を決めていたため、この再会は僕にとっても兄にとっても大きな喜びだった。
兄は僕の体をひしとかき抱きながら、僕の名を何でも呼びながら涙を流す。
生きていてよかったと…初めてそう思えた。
そして時はさらに流れていく。
僕は更なる動乱の世界へと、身を投じる事になる。
俺は今、戦場にいる。
これまでに俺は何人もの敵を斬り、何人もの仲間を失っていった。
しかし俺は恐ろしくなどない。
俺には大切なお守りがあるのだから。
ポケットから黄ばんだボロボロの紙を取り出し、そっと広げた。
「なんだなんだ。鉄、お前はいっつもその薄汚れた紙を眺めて笑っているよな。もしかして…惚れた女子からの恋文かよ?」
兄の茶化すような声が聞こえた。
「違うよ。これは豊玉という歌人の俳句さ。しかも直筆だぜ。この歌をすごく気に入ってるんだって言ったら…その場で書いて俺にくれた。俺の一生の宝物で…心強いお守りだ」
梅の花 咲けるときだけ さいて散る
そう声を出して読み上げ、また胸のポケットへとしまい込んだ。
「ふぅ~ん…お前に歌を嗜む趣味があったとはね…」
「俺は正直歌の良し悪しなんてよくわからない。ただこの歌を見ると…不思議と怖いものがなくなるんだ」
そう…怖くなどない。
僕は鉛の玉の飛び交う中、刀を手に敵兵へと立ち向かう。
肉を裂く感触。
骨を絶つ音。
耳に響く絶叫。
生暖かい血が俺の顔を濡らし、生臭い匂いが鼻をくすぐる。
その血の匂いに酔ったのだろう、段々と気分が高揚していく。
俺に怖いものなどない。
恐れるものなど、この世に一つもない。
さらに敵兵を切りつけた瞬間、胸の辺りに衝撃が走り熱くなった。
そっと胸元を見ると、俺の胸には花が咲いていた。
赤い花
赤い一輪の花
胸に咲く大輪の赤い花
「ぼ…たん…のはな…みた…い…だ」
重心がぐらつき、膝を突きそうになるのを必死に堪えながら、俺を狙いに来た敵兵の首を狙った。
絶叫とも歓喜の声とも取れるような意味不明な言葉を残し、敵兵の体は崩れ落ちる。
激しくほとばしる血飛沫に顔をしかめながら刀を持ち直し、銃弾の飛んできた方へと走り出す。
(俺はまだ戦える)
銃を構える敵兵が狙いを定めているうちに、胴ごと切り捨てた。
(生きなくては…)
「俺は…俺は…生きなくちゃいけない。あの人と交わした…あの人との約束を果たさなくてはならないんだ!」
さらに渾身の力で敵兵の腹を斬ったその瞬間、再度胸の辺りに強い衝撃が走った。
ついにその衝撃に耐える事が出来ず、俺の体はゆっくりと仰向けに倒れていく。
俺の名を呼ぶ兄の声が聞こえた。
だが、それは絶叫にかき消されてしまった。
兄を探そうと体を起こしてみるが、首を持ち上げる事すら出来ない。
苦痛に耐えながら目を凝らす。
「あぁ…浅葱色の…」
いつか見た新選組の隊服と同じだ。
袖を通す事は出来なかったが、俺が憧れ続けたあの色が目の前にあった。
あの空の向こうには、きっとあの人がいるのだろう。
俺が憧れ目指した人が…
白梅のように凛としたあの人が…
最期の最期まで諦めず、強く生き抜こうとした…あの人が。
(ばかやろう!こんなくだらねぇ事で命落すつもりか!!)
突然の罵声に目を見張った。
(こんなところで…こんなところで死なせるために…お前を日野にやらせたんじゃねぇぞ!!)
「すいま…せん…土…方さん」
(いい大人になってもまだ『すいません。』かよ。ったく…お前は本物の大馬鹿野郎だ)
「はい…俺は大馬鹿野郎です…。でも…」
(なんだ?)
「俺…なんだか…」
(…)
「なんだ…か…疲れちゃっ…て…もう…動け…な…い…」
(…鉄)
「はい…」
(俺が与えた任務を、お前一人でよくこなしたな)
「あっ…ありが…とう…ございま…す」
(辛かっただろ?)
「いえ…これでも…俺は…新選組…隊士…で…す…から」
(そうだな、お前は立派な新選組隊士だ。俺は鼻が高い)
「へへっ…うれし…い…な…」
(鉄…)
「はい…」
(もういい)
「…」
(もういいから…目瞑れ。ゆっくりと寝ろ)
「…」
(最後に…お前に一つだけ頼みがある)
「は…い」
(俺に見せちゃくれねぇか?お前の笑った顔を)
「か…お?」
「あぁ…お前のあの大輪の牡丹みたいな笑顔をよ…最期に…もう一度だけ俺に見せてくれ)
「ひ…じ…かた…さ…ん」
(なんだ?)
「あっ…ありがとう…ござい…まし…た」
懐かしい笑顔が見える。
俺はそれに答えるように、眼前に広がる空に向かって笑って見せた。
土方さんの期待通り、上手く笑えたかどうかはわからない。
もう土方さんの声は聞こえなかった。
俺の耳にもう…
誰の声も…耳を掠める風の音さえも…届かなくなっていた。
