医務室から戻った私はミネラルウォーターを買ってたっぷりの水で薬を飲み込んだ。
頭とお腹の痛みは徐々に和らいでいった。
前半の仕事をなんとかこなし、私はお昼休憩に出る。
一人っきりの休憩時間、メールをチェックする事もなく、私はぼんやりと歳三さんとみちるさんの事を考えていた。
前に若様はみちるさんの事を『壊れた』と言った。
言葉の感じからすると『精神的に』という事だと思う。
でも、みちるさんは今お腹に赤ちゃんがいる。
みちるさんは入院しているはずだ。
だったら退院出来るほど回復してるのかな?
そしたら…歳三さんとみちるさんは結婚して…一緒に暮らして幸せになるんだ…。
当たり前だ。
二人は今も愛し合っている。
私が入る隙などないくらいに、二人はお互いを大切に想い合っている。
じゃあこの想いは…わたしの想いは…この消せぬ想いは…どうしたらいいのだろうか。
憎む事も忘れる事も出来ない…この切ない気持ちは…どうしたらいい?
昨日ずっと考えていたけど、答えは見つからかった。
私と同じ気持ちを抱える沖田さんは…沖田さんならどうするんだろう。
「沖田さんだって…そうだよ。おねぇはきっと原田さんと結婚する…どんなに好きでも…おねぇを手に入れる事は出来ない」
複雑な想いを抱えていた…寂しい男の子。
沖田さんは私を…当たり前のようにおねぇと一緒にいる私に嫉妬していた。
あの日、私に激しい憎悪をぶつけてきた沖田さん…最後に見た顔は…泣きそうな顔だった…気がした。
「沖田さん…沖田さんもどうしたらいいのかわからなかったの?あの時本当は…何が言いたかったの?」
考えても考えても…答えは出せず、ただ胃がキリキリと痛み始めた。
午後、私の体には異変が起きていた。
私は胃を絞られるような痛みと激しい嘔吐感に襲われていた。
吐き出しても吐き気は止まらず、とうとう胃の内容物は全て出しつくし、胃液だけがせり上がってくる。
トイレの個室にしゃがみこんだまま、苦しさのため立ち上がる事も出来ない。
「先輩!医務室行きましょう!!」
心配して様子を見に来たゆきちゃんが個室の外で叫んだ。
「嫌!行きたくない!!先生も呼ばないで…大丈夫…平気だから…」
(今日の医務室…嫌な感じがした…もう行きたくない…あの先生…怖い…)
血が出るんじゃないかというくらい吐きつくした後吐き気がやっと治まり、私はよろよろと個室を出た。
鏡で顔を見ると恐ろしいほど真っ青だ。
「先輩、主任にも課長にも許可取りましたから、今日は早退してください」
「ん…ちょっと事務所で休んで…帰る…。明日は病院行ってみるし…何かわかったらすぐに連絡しますって伝えて…」
(死んでしまいたい、この世から消えたいなんて考えたから…罰が当たったのかもしれない…)
ゆきちゃんに支えられながら、静かな事務所へと戻った。
鍵をかけて、私は机にうつ伏せる。
(どうなっちゃったのかな…私の体。怖いよ…頭も体も…どうかなったのかもしれない)
言い表せられない恐怖のあまりに涙が零れ落ちた。
怖い
死にたくない
怖い
死にたくない
その言葉だけが私の頭の中を埋め尽くす。
(こんなに心細くて怖いのは…初めてかもしれない。どうしたらいいかわからない…)
呼んでも私の声は届はずがないとわかっているのに、私はあの人の名を心の中でずっと叫んでいた。
(歳三さん…助けて…怖い…助けて…お願い…私を…助けて…)
流れる涙を拭う事も出来ず、私はただぼんやりと虚空を見つめていた。
静かな午後の昼下がり、医務室にまた一人迷える羊が訪れる。
「おやおや…ずいぶんと早いご登場のようですが…まぁ…いいでしょう。私は貴方を歓迎いたしますよ」
私は羊を招き入れ、そっと医務室のドアを閉めた。
ガチャッと冷たい鍵のかかる音が響く。
「例の…モノを…」
羊の体は震えていた。
「ずいぶんと我慢したようだね。時に我慢は必要だ。でもね…薬というものは苦痛を和らげるためにある…そうでしょう?」
私は机の上の救急箱から錠剤のシートを取り出した。
中には緑色の錠剤が並んでいる。
1シートを羊の目の前に出し、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
紙コップに水を注ぎ入れていると、羊は震える手でシートから二粒の錠剤を取り出していた。
「おやおや…私が前に言った事を憶えていないのですか?この薬は一回につき一錠ですよ。薬の用法用量はちゃんと守らないとね…。楽しい気分を長く味わいたいでしょう?守らなかった者がどうなるのか…貴方は知らないハズはないでしょう?外には洩れていないようですが…内部では相当な噂話になっていたハズだ…」
錠剤を一粒取り上げ、紙コップを渡す。
喉を鳴らして薬を飲み込む様子を満足げな笑みを浮かべ眺めていると、今朝訪れた新たな子羊の事を思い出した。
「今朝初めて見た子羊はどうしたんでしょうね。無粋な羊が急に飛び込んできたおかげで、彼女が薬を口にする瞬間を見逃してしまいましたよ。薬の用量も…説明する間もなく飛び出して行った。ふっ…子羊と言うよりは…彼女は子ねずみ…実験用のマウスのようだった。ふふふっ…」
薬袋に残りのシートを入れて、目の前の羊に手渡した。
「さぁ、お行きなさい。くれぐれも楽園への入り口の事は内密にね。あまりにも目立ち過ぎると、私はこの場を離れなくてはいけなくなる。そうすれば貴方達…楽園の住人は楽園を追い出される事になる。失楽園…ですよ。神を裏切り悪魔の言葉に耳を傾けた罰を受けなくてはいけなくなるのですからね…。神はもちろん新見先生です。天上にいるという『神』こそが悪魔だ。そして…『新撰組』という名の正義の名の下に制裁という名の暴力を振るう悪魔集団に気をつけなくてはね…」
哀れな羊は黙って頷くと、スーツの内ポケットに薬袋を滑り込ませた。
鍵を開け、私は羊を送り出す。
「今朝の子ねずみはずいぶんとオドオドしていた…。ふふっ…ここで若いお嬢さんが被験者になるのは初めてです…。また会えるといいのですがね…。次に会う時はぜひ…渇望した目で来ていただく事を希望しますよ」
次にこの部屋を訪れるのは神の助けを求める羊なのか、それとも…
私はドアを開け、静かに次の来訪者を待つことにした。