先生の書いた「プリン」を久しぶりに読んだ。
読みながら当時のことを思い出せば、今も切なさが込みあげてくる。
当時、先生は特選小説で官能小説を書きながら、別の世界を模索していた。
他で小説を発表できる場所はないか?
と、先生に言われたので、アシスタントもどきだった私は、小説公募の中からあれこれと見繕って先生へ薦めた。
旅情作品は先生の得意とするものだったけれど、現地取材をする時間もなく断念。
そんな中で見つけたのが、日本動物児童文学賞だった。↓
ハードバージの話は、元々、先生が見つけた話だった。
たまたまウィキペディアで見つけたと言われ、読んでみると、怒り、悲しみ、やるせなさ…喜び以外の感情が入り混じると最後に切なさが込みあげてきた。
そして、このタイミングでハードバージに出会うとは…
官能小説で描ける世界観に限界を感じていた先生にとって、書くべくして天から下りてきた使命のような気さえした。
それでも当初は「童話」という未知の世界に尻込みしていた。
なんとか書いてもらいたかった。
書くこと=生きている証のような気がして、私は先生の魂に注ぐ生きた血に飢えていた。
ただ、ハードバージのことを書きたくても資料は少なく、先生の創作意欲を掻き立てるものが今一つ見つからなかった。
必死に探すこと数日…やっと見つかった。
書いたのはサンケイスポーツ競馬欄の本誌の印を担当している佐藤将美記者。 以下、当時の先生に送ったメールから貼り付けておきます。
菊花賞で伏兵視されているセンシューオウカンには悲しき裏話が秘められている。
そして、センシューオウカンの父親である皐月賞馬ハードバージについて、こう続きます。
種牡馬失格のラク印を押されて流転の余生を送ったあげくに、昨夏福井県の牧場で死亡していたことが1日になって判明した。本当に運命とは皮肉なもの。初めて中央のGⅠで走る産駒が出てきたというのに…。
ハードバージがデビューしたのは昭和51年の7月。年内6走するも勝てず、初勝利は翌昭和52年の1月でした。続く300万下の特別レースも5着に終わり、まったくの凡馬と思われていましたが、なんと10番人気で毎日杯を勝って皐月賞に出走。内田騎手から天才・福永洋一騎手に乗り替わったものの、評価は低く8番人気 でしたが、レースでは疾風のような追い込みを見せ、見事に牡馬三冠レースの一冠目を制したのでした。
続くダービーでは、福永騎手から職人・武邦彦騎手に乗り替わり、皐月賞2着のラッキールーラのアタマ差2着。皐月賞がフロックでないことを証明しましたが、脚元の不安からそのまま引退し、北海道の門別スタリオンステーションで種牡馬生活に入ったのです。しかし、最初の3年は43頭、48頭、37頭と交配相手に恵まれ たものの、活躍する産駒が出なかったため評価は急激にダウン。センシューオウカンの年には10頭足らずしか種付け相手もいなくなり、やがて見切りをつけられて乗用馬として石狩の乗馬クラブに譲渡されたのでした。
ライバルだったダービー馬ラッキールーラも、種牡馬として韓国に輸出されたあと行方が知れないと聞きます。活躍した馬の余生にも注目が集まる今と違い、当時はGⅠ馬ですらこの程度の扱い。去勢手術を施されたハードバージのほうは、乗用馬としての適正も欠いていたようで、わずか3ヶ月で、またしても他人の手に渡ります 。
次の所有者は福井県で観光業などを手がける会社。その乗馬センターに落ち着くことになりますが、この頃になるとハードバージが皐月賞馬であることは、すっかり忘れられていたようです。しばらくして「世界古城博覧会」という滋賀県で行われたイベントに参加。ジャッキー・べノンというフランス人が主催した中世の騎馬戦を あしらったホースショーに、8頭のうちの1頭として貸し出されたのです。
鎧を含めると90キロ近い人間を乗せてのアトラクション。13歳になっていたハードバージには、地獄のような3週間だったかも知れません。イベントが終わり福井県に戻ったあと、急激に衰え、次第にカイ食いも細くなります。やがて日射病にかかって、昭和62年7月、皐月賞馬ハードバージは静かに息を引き取ったのでした 。
のちに『優駿の門』という漫画でも描かれたりして、競馬ファンの中には知っている人も多い話ですが、このハードバージの流転の物語を最初に紹介したのがサンケイスポーツの記事だったのです。読み終えたときの衝撃と、行間に溢れる馬への愛情は忘れられません。のんびりと余生を送れる馬はほんの僅か。たくさんの馬たちが 肉となっていく事実も踏まえられていますが、もちろん競馬関係の仕事をしている以上、声高にそれを表現するわけにはいかず、でも、抑えの利いた文章の裏側に、そうした馬たちの悲しい余生に対する精一杯の怒りが込められた素晴らしい記事だと思います。特に、締めくくりが秀逸。
「腰の強かった馬でしたね。まあ救いなのは、大往生だったこと。ホントに眠るようでした。でも実は私は、死ぬ間際まで名馬だということを知りませんでした」。最後に世話をしていた小林さんというお年寄りはポツリと語ってくれた。馬好きの人に最後まで見てもらったことは馬にとっては幸せだったかもしれな い。流転の末路などというのは人間のセンチメンタリズムにすぎないのだから…。
この記事を読めば、動物好きの先生は必ず泣くと思った。
泣けば漲る力が蘇ってくることは、私にはわかっていた。
そして作品は完成し、私達は一頭の馬の生涯を見届けた。
今も地方の山中で小さな石仏を見つけることがある。
険しい上り坂の先に馬の名前が刻まれた墓を見つけると、馬主の感謝と深い愛情が伝わってくる。
プリンは幸せだったのか?
何度も問いかけ、悩み、語り合ったけれど、結局、まだ答えは出ていないままかもしれない。
幸せの形は目には見えないけれど、ただ、少なくとも、私は先生に出逢えて幸せで、先生に愛された犬や猫も幸せだったと思う。
美月