もうこんなに来たのかと思う
まだこの先があるのかと思う
見上げた空の彼方
まだ見えない未来
まだ見えない自分
未来は 私の中にしかないのだ
私に立ち向かうしか未来を手に入れる方法はないのだ
「愛されているのに、寂しいのか」
彼は、窓の外を眺める彼女の横顔を、見た。
彼女の横顔からは、何も読み取れなかった。
「寂しいわ」
窓の外を見たまま、彼女は応えた。
白い頬をいっそうほの白く見せる、淡い桜色の口紅を丁寧にほどこした形良く整った唇を、彼は見た。
唇は、再び無言となった。
彼女は、ゆっくりと彼のほうを見た。そして、真正面から、彼を見た。
一瞬、何の理由もなく、店内が静まり返ったような気が、彼にはした。
彼は、彼女の視線を受け止められなかった。
だから、唇を、見た。
そして、こう訊ねた。
「寂しいなら、どうするんだ。」
優しさの消えた低い声で、彼女は応えた。
「耐えるだけよ。ひとりで。」
桜色の唇が、閉じた。
唇の両端が、ほんの少し微笑みを形作ったように、彼には見えた。
ドアが開き、彼女が部屋へ入ってきた。
部屋には、あらかじめ間接照明を灯してある。だから、彼女が髪や体の湯滴をぬぐっているバスタオルが、ごく淡い緑色であることがわかる。バスタオルは、髪から太腿のつけねまでを被う事ができる大きさだ。バスタオルが動くたびに見え隠れする、無駄なく引き締まった細身の体には、バスタオルの緑よりもわずかに濃くみえる若草色で心地よさそうな光沢のある素材で作られた小さなショーツだけを身につけていた。あとは裸だ。
彼女は、部屋へ入ってきた時と同じゆっくりとした速度でやや大股に、ドアの正面にある壁とほぼ同じ高さを持つ窓へ向けて歩いた。足の裏に、よく磨かれたフローリングの木の冷たさが、心地良かった。
彼女は、右手にイエロー・グリーンの透明の瓶を持っていた。蓋を抜いた瓶の中身は炭酸入りの水だ。ラベルには、デザイン的に工夫された製品名がグリーンのバリエーションで描かれている。フレーバーが加えられていないプレーンなものを好んでいる彼女だが、バスルームの窓ごしに降る中から窓の外に降る雨を眺めていて、ふと、ライムの香りを思い出した。それで、バスルームから出た後にキチンへ行き、冷蔵庫の中から炭酸水を一瓶とライムを取り出した。ライムは一部分をウェッジに切り取り、残りはラップで包んで冷蔵庫へ戻した。炭酸水の栓を抜き、瓶の中へライムを絞り込んだ。指先に軽く力を込めて数滴だけ絞り、ライムは瓶の中へと押し込んだ。
だから、彼女がいま持っている瓶には、瓶よりも濃い色のグリーンによって出来る影が、うっすらと見える。
彼女は、カーテンを引いていない窓から、ヴェランダに降りこんでいる雨をしばらくの間眺めていた。時々、右手に持っている瓶を口につけ、ライムの味がする炭酸水を飲んだ。バスルームにいる時はわからなかったが、雨はかなりの降りだった。そう大きくないヴェランダは、格子状になったウッドパネルを敷き詰めて、ウッドデッキのようにしつらえてある。雨は木の表面を激しく叩きつけるように、激しさそのままの音を立てて降り注いでいた。窓は閉まっているが、その音は静かな部屋によく響いている。今夜最後の天気予報では、落ち着いた声の男性が典型的な梅雨の気圧配置がくずれつつある天気図を見ながら、あと数日で梅雨明けになると説明していた。大陸から張り出してきた高気圧の動きを見ながら、この雨は今夜だけだろうと彼女も思った。
激しく降り続く雨を見ながら、彼女は炭酸水を飲んだ。しばらくそうしていたが、ふと、髪から肩にかけたままのバスタオルをとり、フローリングの床へ落とした。そのまま窓の鍵を開け、激しく雨が降りつけるヴェランダへと出ていった。
たちまち彼女の頭上からスコールのような激しい雨が降り注ぎ、またたくまに全身はずぶ濡れになった。ショーツの薄い生地が裸の体へぴったりと張り付き、形良く引き締まった尻の形がくっきりと顕わになった。さきほどバスルームで浴びたシャワーとは決定的に違う圧倒的な水量と極めて激しい水勢に、彼女は思わず歓声を上げた。
雨は、初夏に近い気温を受けて少しだけあたたかさがあり、その温度も今の彼女にとっては心地よかった。
雨滴は、彼女が右手に持った炭酸水の瓶の小さな口の中へも飛び込んだ。ウッドデッキに軽く両足を開いてまっすぐ立ち、雨に濡れる髪を左手で後ろへ何度も撫でつけながら、彼女は雨滴が入った冷たい炭酸水を飲んだ。そうして、裸の体に降りつける雨の感触と、ライム味の炭酸水と一緒に自分の体内を流れてゆく雨の雫を想像して、彼女の笑顔はより一層深くなりつつあった。
月 齢 : 18.500 / 輝面比 : 79.961%
21時27分:てんびん座δ星が極小
08時18分:水星が西方最大離角(18.4°)
札幌 20:37 - 09:57 仙台 20:48 - 09:52
東京 20:57 - 09:52 名古屋 21:09 - 10:03
大阪 21:15 - 10:08 広島 21:28 - 10:20
福岡 21:40 - 10:27 那覇 22:02 - 10:29
■臥し待ち月・寝待月・十九日月■
臥し待ち(ふしまち)・寝待ちとは、19日頃には満月の月の出から4時間程遅くなることから、
もはや月は寝て待つ・・・ということになるという意味だそうです。
「シンハー・ビールを2本と、お魚のゴイクンを4本。それに、青いパパイヤのサラダを1つ下さい」
わずかにエキゾチックな佇まいを感じさせるウェイターが、かしこまった様子で伝票へ注文を書き留め、丁寧に一礼をしてからテーブルを離れた。
すぐに戻ってきた彼は、右の手のひらへ載せたステインレスのトレイの上へ数本のビールを載せていた。そのうちの2本を、おそらく現地の屋台の雰囲気を作ろうとした結果こうなりました、というような雰囲気のビニール製のテーブルクロスの上へ置くと、また丁寧に一礼してから他のテーブルへ移っていった。
彼女と彼女の友人は、極めて高い今夜の湿度に乾杯し、よく冷えたビールに口をつけた。
ビールは冷えすぎといっても良かった。しかし、早朝から30℃を越えていた今日一日のしめくくりとして、やさしく軽い飲み口でわずかに柑橘系のフルーツのような香りを持つ熱帯雨林の国のビールは、この上なく正解だった
「このビールはヴェトナム料理にもタイ料理にも、マレーシアやインドの料理にもまったく違和感なく合い、気持ちよく飲むことができるわね。他にもそういう銘柄がいくつかあるわ。東南アジアでは皆、ビールの嗜好が似通っているのかしら。」
喉をくだっていく冷たさの余韻を楽しみながら、彼女は友人の話を受け止めた。
そして、半ば以上冗談を言うときのいたずらめいた笑顔を浮かべると、次のように答えた。
「メコン川流域の国々の料理や飲み物は、みな一様に特定の法則の上に立って作られているのではないかしら。その法則は、この地域の人々にとって国境も歴史もまったく無関係に、恒久の普遍性を持っているのよ。そして、その法則を忠実に捉えて作られたビールであれば、どの国のビールをどの国の料理に合わせても、少なくとも、違和感なくすんなりと料理に溶け込むことができるのよ」
「どんな法則?」
友人はテーブルに右の肘を着き、殆ど空になった瓶を軽く振りながら訪ねた。
彼女は空になった瓶をテーブルの上へ置き、丁度こちらを向いた先ほどのウェイターへ手で合図をしながら答えた。
「一年のうち半分近くは雨が降る熱帯雨林に囲まれているだもの。湿度50パーセントないしは60パーセントにも届くような気候を生き延びるために出来うる限りの快適さを追求する、という法則よ。」
友人は快活に笑い、なるほどね、と言ってから、次のようにまとめた。
「湿度60パーセントの法則ね」
友人の言い方に、彼女は声をたてて笑った。