R6 02/21【ゲスト:武田 邦彦】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第313回 | eteko屋スタジオ

eteko屋スタジオ

勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

R6 02/21【ゲスト:武田 邦彦】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第313回


自炊を始めたのは、いつからだったろうか。
サラリーマン生活をやめた頃は、まだ、やってなかったなあ。
まともな会社を辞めた時は、自炊はしてなかったなあ。

3,11の震災までは、ナカちゃんと一緒に桜川のボロ屋敷にくらしてた。

ナカちゃんが作った料理を食べたと言う記憶もあまりないなあ。

家族と一緒に、食事すると言う事もなかったなあ。

いつも一人の部屋で、一人で食事してたなあ。

基本的に、お米はうけつけなかった。
みそ汁もあんまりしょくさなかったなあ。

今も、みそ汁は作らないなあ。

作るのは、カレーぐらいかなあ。

おやじが晩酌の時に、母親にあたるようになった。
ご飯が硬いとか、味が薄いとか、つまらない事であたりだした。
そして、酒乱になって、毎日のようにちゃぶ台返しをやるようになった。

それに茶碗をぶななげたりして、障子戸のガラスをわったりした。

そな事が続いて、家族で会食することはなくなった。
母親が、etekoの分の食事を、etekoの部屋に運ぶようになっていた。

物心ついた時から今まで食事をするのはひとりだった。

親父は、外のストレスを、家族の食事の時に持ち込んで発散していた。


奇妙な生活。( 創作ノート その1 )

1960年に親父が建てたボロ屋敷に、一人で住んでいる。
ひとりになってしまったと言うのが正しいか。
親父もお袋も亡くなってしまった。

親父は、平成17年に、港病院でなくなった。
母親は、平成元年に、常陸太田の西山堂病院で亡くなった。

私が物心ついた時は、両親は、日立市の新町と言うところで、米屋をやっていた。
新町は、日立鉱山の大煙突の下を流れる宮田川北側に沿って6号国道まで続く地域だった。
宮田川の両側は、低い山に挟まれた扇状地になっている。
扇状地の要の部分の北側の山が鞍掛山なのだろうか。
そして、6号国道までが、神峰山なんだろうか。

宮田川の南側の山は、高鈴山のすそ野になっているんんだろうか。
後で、調べてみよう。

宮田川の北側の地域は、今は、宮田町となっている。
南側は、高鈴町になっている。

1950年代は、どこからどこまでが、新町だったのかは、よくわからない。

ただ、私が生まれたのは、新町だと言う事だった。


私の記憶に残っている新町での記憶は、断片的だ。
私が幼稚園に入る前の年までたから、5歳までの記憶だ。

私が、物心ついた時には、両親は、米屋をやっていると言うことだった。
日立鉱山の方から続く道路沿いに、米屋の店舗を借りて、商売をしてた。
貸店舗と言っても、新しい建屋ではなかった。
昭和かそれ以前に建てられた店舗なのかもしれない。

この道路沿いには、10件くらいの、お店が立ち並んでいた。
隣はおすしやさんだった。
お肉屋さんもあった。
そして、ラジオ屋さんと言われてたお店。
文房具屋や化粧品を置いてたお店。

ラジオ屋さんには、私と慈雨年代の兄弟がいた。
弟が同年代だった。

肉屋には、とっちゃんと言う男の子がいた。
文房具屋には、よっちゃんて言う女の子がいた。

両親は、この店舗よりも上の方の道路沿いの、貸家に住んで、お店に通っていた。
この貸家は、農家の庭に、二家族が入居できるような借家だった。

この借家の母屋の方に、大屋さんが住んでいた。
そこの、大屋さんには、自分達の孫の様に、可愛がられた。
両親が、子守にあづけることもよくあった。

お店には、若い使用人が、2、3人いた。
せいちゃん、勝男、ター坊、ジン坊、などなどいた。

後で分かったのだが、みんな母方の甥っ子だった。
母方の甥庫だった。

母親は、三姉妹のばっちだった。
ばっちと言う言葉を、母親からよく聞いてたけど、小学生の頃までは理解できなかった。
甥っ子達とは、一世代くらい、年が離れていた。
お店では、定職に就くまでのバイトのようなものだったのか。

何人もお店に来ていたのを覚えている。
お米の配達を手伝っていたのだろうか、それとも、私の子守役もまかされていたのだろうか。

よく、お店の下の方にある共楽館の映画やお祭りに連れて行ってもらったのを覚えてる。
共楽館は、日立鉱山の福利厚生施設として創建された劇場です。元は従業員やその家族が利用するための施設でしたが、社外にも広く開放され、地域住民の文化体験や子供の学芸会にも利用されるなど、多くの人々に親しまれる存在でした。



 劇場でありながら工場建築の手法も取り入れられた構造は、鉱山技師による設計です。内部には歌舞伎の上演もできる本格的な回り舞台や花道、客席などを備え、一流の芸能人による演劇・歌謡ショーなどもたびたび催されました。テレビがまだ普及していなかった時代に、共楽館は都市部の文化を日立に伝える役割を果たしていた。

昭和20年代になると映画の専用館となり、企業の補助もあって市価より安い料金で名画が楽しめたため、昭和41年の閉館まで映画館としても多くの市民に利用されていました。

そして、その頃に建設された神峰動物園にもよく連れていかれた。

• 1957年(昭和32年) - 動物園・遊園地が開園 。
• 1975年(昭和50年) - 日立市郷土博物館が開館 。
• 1976年(昭和51年) - 運営管理者の変更。日立市から日立市公園協会へ無償譲渡される 。
• 1983年(昭和58年) - レジャーランドが開園、かみね市民プールが開館 。

+
神峰公園の沿革を調べたらこういうことになってる。
出来たてほやほやの頃に連れていかれたんだなあ。

貸家の家を出て、空を見上げると、半分は黒いカラミ山の斜面となっている。
その左端には、巨大な煙突が、山の頂上から立ち上がっている。
そんな風景を毎日見ていた。

それも、幼稚園に入る前の幼児の目に焼き付いた。