この曲は、作詞が宮沢賢治。
作曲が、etekoだよ。
2011年の3月11日に、etekoは被災したよ。
被災といっても、etekoの部屋がめちゃくちゃになって、オーベーションのギターの表面板が割れちゃっただけだよ。
etekoの部屋は、ずーと五味部屋だから、散らかってもどうでもいいんだけどね。
震災の地震の揺れが切れたときに、一階の部屋に戻って、車椅子のナカちゃんを連れ出した。
隣の洗濯屋の店の前の駐車スペースに、車椅子に乗ったナカちゃんを異動させた。
洗濯屋の前の車道は、山側に直線で、200メートルくらい続いてる。
はす向かいに、北のオーナーのパチンコ屋があり、それから山側には、市営の2階建ての鉄筋コンクリート造りのアパートが拡がる。
3.11の震災の10年前でも、この車道は、ひとっけ一人いない道路だった。
車がたまに通るくらいだった。
朝夕の通勤時間は、人影や車を見るけど、その間は皆無といってもいい。
その車道に、20人近くの人陰が見えた。
車道の両脇に、4世帯が入れる2階建てのアパートが4棟立ち並んでいた。
その裏にも、6棟くらい同様の建屋が建てらている。
10棟で40世帯分だなあ。
この市営アパートというか、団地ができた時は、昭和の高度成長のはじまりのころだよ。
一部屋には、一世帯で、少なくとも4人くらいは住んでいたなあ。
一人っ子の家は、一件だけだったなあ。
みんな、一部屋に4人素性はすんでいたなあ。
親と子供が二人で4人だよ。
4人以上は、多かったなあ。
40世帯分の部屋があって、そこに、4人以上で住んでたんだなあ。
この団地ができた、昭和38年からの昭和の時代までは、200人以上の住人が居たことになるよ。
海側の平屋のアパートと合計すると、500人近くは、この小さな地域に、1000人くらいの人間が暮したことになる。
アパートの住人は<
ゆわわくらいだけど、周りには、地主さんの家とか、etekoのぼろ屋敷みたいなあ戸建ても、ぽつぽつあった。
etekoのぼろ屋敷なんか、最初は、日立製作所の国分工場の寮をやってたから、ぼろ屋敷には、30人くらいの人間が暮らしていた。
etekoの家族の4i人。
親戚の従妹や姪が、住み込みや、通いで働きに来ていた。
親戚化関係で、10人近くはぼろ屋敷にいた。
そして、国分工場の新入社員は、おもに、東北地方からの新入社員だった。
東京まではいかなかった金の卵だった。
高度成長のあおりで、日立市内にある日立製作所の工場群は、新しい労働力を、地方から集めまくった。
ただ、その頃の、日立市内には、外から流入してくる人達を住まわせる住宅が皆無だったよ。
幹部社員の社宅は、少しはあったけど、大量に地方から流入してくる人たちの住居スペースは皆無だった。
そんな時に、親父が、新町から、多賀の桜川に、米屋の店舗を移した。
親父の考えでは、米屋の店舗をいきなり、多賀地区の桜川に移しても、顧客はゼロだよ。
顧客を得るまでのつなぎとして、日立製作所の地方からの新入社員の部屋を作ろうと思ったらしい。
そんな訳で、昭和34年に、田園地帯のひろがる一角に、大きな木造の
二階建ての家が建築された。
その団地に、今は、何人いるんだろう。
50人以下だなあ。
20人もいないかもね、
ブーさんの車に乗ってた時に、周りの市営アパートの住人が、どんどん消えていくよ、消えた後には、誰も入居しないと言った。
ブーさんも、周りの市営アパートの事は気にしてるみたいで、ネットでみてるみたい。
周りのアパートは、今は入居者を募集してないよ。
今住んでる人間が消えるまで待ってるみたい。
人がいなくなったら、取り壊して、何かの施設を造るんじゃあないのかなあ。
新しい、市営アパートを作るんじゃあないのかもね。
何しろ、日立市で一番古い、アパートだからね。
空いた部屋に、次の入居者が入らないのは、そう言う事だと思った。
あと0年もしないうちに、昭和の30年代に建てられた市営アパートは取り壊されるのかなぁ。
この地域に住む住人は、10年も経てば、1桁になるよ。
その1桁の中に、etekoは生き残ってるのかなあ。
ここまでくると、どうでもいいよね。
死ぬまでは活きてるよ。![]()
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もう、文章がまとまらないよ。
めためただよ。
まあー、いいよ。
頭に浮かんだことを書き出すことが大事だよ。
こんな事を繰り返していけば、まともな文章も、一つくらい書けるかもね。
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