etekoチャンネル 0088
恵美ちゃん星になる> 創作ノートねその4
父方の妹の叔母を、ず-と恵美ちゃんと呼んでいた。
恵美ちゃんは、結婚する舞うに、、実家の助川から、etekoのボロ屋敷に働きに来ていた。
etekoのボロ屋敷は、60年前の、1960年に、ここにバカでかい家を建てた。
今でも分からないんだけど、30代の親父が若くして、こんなバカでか
でかい2階建ての木造建築の家を建てられたのか、分からない。
日立鉱山の大煙突の建つ城下町で、米屋をやっていた。
でも、こんなバカでかい家を建てられるほど金回りは良かったんだろうか。
陸軍から復員んして、10年くらいで、この家を建てる資金が溜まったんだろうか。
謎だ。
etekoのボロ屋敷が建つ前に、親父に連れられて。桜川のボロ屋敷に<
府、3度訪れた炉がある。
その時は、土タイ゛の、セメントの枠組みしかなかった。
汲み取り式の、深くなってるトイレに落とされた記憶がある。
幼稚園に入る前のetekoは、4歳くらいか。
深いトイレの中に入れられたetekoは、這い上がれなかった。
しばらくして、親父が泣きべそ側のtekoを手を差し伸べて引き上げた。
etekoのボロ屋敷が経った頃は、周りに何もなかった。
田園地帯と言う風景だった。
前の道路は砂利道だった。
家の魔堀の、側溝は、用水路が流れていた。
田園が広がる中に、遠くに、地主の農家さんの殻ぶき屋根の家が望めた、
遠くと言っても、100メートルぐらいしか離れてない。
それが、6号国道までの海側に点在してた。
etekoのボロ屋敷が、経ってから、道を挟んだ隣に、Fさんの家が建設され始めた。
奥さんが、地元の地主さんの親戚らしく、農家風の家を建てた。
奥さんは、結婚するまでは、小学校の先生をしていた。
夫は、日立製作所の多賀工場の社員を定年まで勤めた。
この夫婦には、息子が二人いた。
etekoと年上の3iと、一つ年下の弟だ。た。
この二人とは、゛期の頃よく遊んでいた。
近くの市営アパ-トの児童公園で、三角ベ-スの句さ野球を毎日のようにやってた。
幼なじみと言う奴だ。
その状況は、二が、中学に入る頃から変わった。
兄さんは。一緒に遊ばなくなった。
受験体制に組み込まれ、eteko達のガキたちとは遊ばなくなった。
ただ、弟の方とは、しばらく、一緒に遊んでいた。
そんな頃、恵美ちゃんは、実家の助川から、etekoのボロ屋敷に働きに来ていた。
まかない、家政婦で、etekkkoのボロ屋敷に通っていた。
あれは、etekoが幼稚園から、少額の艇が年までだったよね。
etekoのボロ屋敷には、恵美ちゃんだけでなく、ナカちゃんの方の、甥や従妹も多数、働きに来てた。
新町で、米をやってた頃から、ナカちゃんの甥が、4i人ぐらい、働きに来てた。
ナカちゃん、三姉妹のバッチだった。
上野二人の姉の息子たちが、この頃、高校を卒業した年頃だった。
新町の親父の米屋に働きに来てた。
みんな、二、三年で米屋を離れていった。
、いろいろなところにに散らばっていた。
その、二、三年間で、と上のいとこの名前をいろいろ覚えた。
せいじ、和夫、仁さん、などなど、5人入るなあ。
久子もいたなあ。
こっちは、etekoのボロ屋敷に賄出来てた、ナカちゃん姪っ子だなあ。
久子は印象に残ってるなあ。
1960年代に、家のお手づ台を止める頃に、ハワイ旅行に行ったんだなあ。
あの頃は、海外旅行とか、信じられない世の中だったなあ。
旅行からかぇって来た、久子は、日焼けして黒くなってたなあ。
そして、お土産に、、小さなヤシの実の灰皿を持ってきたのを覚えてる。
あの頃は、1ドルが<360円の時代だよ。
久子さんとは、親父とかナカちゃんの葬儀何かで、何回か再開した。
etekoと一緒にお風呂に入ったとか、ぢきあげたんだよとか言っていた、
ああ-<自分の記憶に残ってる人達は、みんな、70過ぎてるあ。
そして、80,90代だなあ。
奇
恵美ちゃんは、鬼籍に入った。
etekoも、もうすぐかなあ。