”通院介助も疲れます” | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

だいぶ前からフォロしてるブログをリブログしてみた。

親御さんが認知症になって大変みたいだよ。

 

でも、このブログを知った頃には、etekoの両親は大変だったなあ。

 

知る前からだったからだったなあ。

 

親父は、若いころから、喘息の持病で、ゼイゼイ行ってた。

近場の町医者からから、喘息の発作が起こると、家に来てもらって、駐車を売ってもらってた。

寝起きする布団の頭には、端を履く洗面器が置かれてた。

 

一日で、その洗面器はいっぱいになっていた。

 

母親が、そのたんの詰まったん麺期の汚物を捨てていた。

 

少年兵で、戦前に軍隊に志願した親父は無口で、そんな体でも働いていた。

 

年に一回くらいは、町医者のちゅしゃではどうにもならなくて、日立総合病院に入院していた。

 

そんなからだにもかかわらず、酒、煙草はやめられなかった。

 

年を重ねるごとに、喘息の発作で入院する回数も日にちも増えていった。

 

50を過ぎた頃に、入院している病院で胃がんが発見された。

そり頃は、総合病院の多賀病院だった。

 

 

胃の三分の二以上は切り取った。

 

石灰後に切り取った、胃の部位を、見せられた。

 

それから、おゃしせの食は細くなった、煙草も酒も飲めなくなったみたい。

 

相撲取れみたいな体つきは、みるみる痩せて骨と皮みたいになて言った。

 

喘息の発作は出なくなったけど、脳梗塞や心筋梗塞で何度も緊急入院した。

 

そんな頃に、母親も、若いころからの糖尿病がひどくなってきたのか、歩行困難にまで陥ってた。

 

その頃のetekoは、社会人になってから務めてた会社を自主リストラした。

 

45歳くらいだったかなあ。

 

もう限界だったなあ。

 

親父が倒れるたびに、救急車に真夜中に、、2、3回付き添って乗るようになってた。

 

あの頃が限界だったなあ。

 

親の介護をしないと立場になってしまった。

 

自由気ままに生きたいと、他の誰よりも思いが強いのにね。

 

でも、考えてみたら、親の介護とか、子供が始末をつけないといけないことだよ。

 

でも、etekoが生まれて育った時代は、そんな当たり前のことまで考えられないアホ日本人に情報操作されて生きてきたよ。

 

 

日本人は生まれたら死ぬんだけどね。

 

 

大東亜戦争の敗戦でアメさんの属国になった時から、そんな当たり前のことまで、気が付かないように生かされてきたよ。

 

結局は、雨佐那の利益の為なんだよね。

 

令和の時代になって、アメさんの属国支配も、いろいろなほころびが出てきたよ。

 

日本を滅ぼす前に、アメさんが消えそうだよ。ショボーン