その男は茨城県の新町と言うところで、小学校に生まれて育った。
生まれた日付は、1956年の3月13日と言う事になっている。
生まれて、、小学生になるまでの記憶は、あいまいだ。
ただ、記憶してる事を書き出してみたい。
この頃の記憶は、両親は、新町と言う場所で米屋をやっていて、毎日、忙しく働いてたと言う事だった。
新町は、日立鉱山のおひざ元言うか、日立口座な行動が、宮田川に沿って、栄えた町だった。
この地域は、明治の高頃まで、北関東の、一寒村に過ぎなかった。
それが、明治の後半から、時代の流れに乗って、隆盛を極めた。
北関東の寒村地帯だったのに日立鉱山の隆盛に伴って、日立鉱山の坑道の入り口から上下に、日本の各地から、工夫が集まってきた。
日立鉱山は、鎌倉時代亜チリから、この地を支配してた佐竹氏が金山の開発を目指して、何度もこの辺りの山を開発したよう。
それ以前には、東北から続く、最先端の山系から太平洋にそそぎから
の河川には、砂金が取れたみたいだ゛。
その為に、律令体制が整い始めた奈良時代から、一画千金を狙った山師達が、阿武隈山系の再選たの山に多く入り込んだみたいだ。
その山師達は、その当時の権力者たちが推奨する、仏教、神教の伝道師みたいな肩書で進出してきた。
園山氏が入り込んだ、山と言うか居住地には、神社とかが建設された。
常陸太田市には、金砂神社と言うのがある。
ここは、私の亡くなった母親化生まれた土地だ。
この地域には、80,年に一度行われる大祭と言うものがある。
これは、山奥にある金砂神社を、久慈川にそってくだり、太平洋側にある港町の自浜まで運ぶと言うものだ。
亡くなった母親は、生きてる間に、2度目の、この大祭を見られたと喜んでいた。
母親の実家は、この金差後神社から、近い山奥の中染と言う地域にあった。
母親が、幼い時に、この大祭があった。
母親の実家は、その地で、ずーと百姓だったみたい゛。
ただ、祖父母が、少しは賢ったみたいで、大正時代の頃から、タバコを栽培したみたいだ。
これが当たって、山奥では裕福な農家になったみたいだ。
その為に、立派な茅葺きの大きな家を建てたみたいだ。
この茅葺きの邸宅には、金砂神社の大祭の時に、行列の人達とかとか、周りの親戚が20iくらい家に泊まって、三日三晩酒を飲んだくれと止まって行ったという話を聞かされた。
そんな話を聞いてた。
母親が、80代になった時に、この金砂神社の大祭が行われると言う事が、全国的に話題になった。
80,年ぶりの金差後神社の大祭を、身近で接して、再び見たのは、亡くなった私の母親くらいかなあ。
その母親も、米寿を祝った次の月に、脳足で倒れた。
それから、日立総合病院に緊急入院した。
心臓の負動脈の血栓が脳に行って倒れたみたいだ。
担当医から、脳の半分が、決戦の為に遣られてる。
今の状態よりは、良くなることはないと言われた。
緊急入院してから一週間くらいは、意識は戻らなかった。
その後は、意識はかいふくしてきた。
たた、脳梗塞で、阪神ふづぃになっていて、身体の半分は動かなくなっていた。
意識が回復して、ベットの側にいる私の事は認識できるみたいだった。
ただ、脳の半分が遣られてしまってて、言葉を話せなくなっていた。
自分の感情を声で語れないって、なんて悲惨なんだろう。
自分の思いを語れないってことほど悲しい事はない。
そんな、母親に、3,年3ヶ月付き合った。
付き合ったと言っても、脳梗塞で倒れた、母親は、病院のベットで寝たっきりだった。
最初は、緊急入院で、日立総合病院のベットで寝ていた。
日立総合病院では、そんな病人を長く病院には、入院させられない見た。
その後直ぐに格下の、大みか病院に転院させられた。
大みか病院も、しない内に、他の病院に転院をさせられた。
保険料の関係で、寝たっきりの老人は、長くおなじ病院に入院するのは、無理だと言う事だった。
寝たっきりの老人の入院は、どんどん格下の病院に移されて行く。
そして、最後は隣の常陸太田市にある西山堂病院だった。
この病院に移る条件は、胃婁の手術をすると言う事だった。
それまで、母親は、花から管を入れて、栄養剤と言うか食事を流してたよ。
そこまでは管理できないので、西山堂病院に転院するには、胃婁の手術をすることだった。
隣の常陸太田市の西山堂病院を紹介された時に、日立市内の徳陽の病院も、2つくらい紹介された。
こっちは、前からいい話は聞いてないので、隣の常陸太田市の病院に転院することにした。
こっちのほうが、母親の実家の土地にも近いよ。














