あの悪夢からは20年前だったんだね。
あのから、etekoの韓国の拒絶反応ははっきりしたものになった。
それまでも、お袋が、「あいつらとはかかありになるな。」と言い聞かされていた。
親父も同じだったろうけど、親父は商売もやってた関係で、口には出さなかった。
元々、無口な男だった。
しゃべるようになるのは、晩酌をして悪態をつきは占める時だけだった。
親父は、幼少の時に植えの姉と一緒に、会津の親戚の家にあづけられた。
若い両親は、実家の田畑を売り払って、ブラジルに移民するつもりだった。
親父の両親が、会津でどのような暮らしをしてたかは、分からない。
誰にも聞けてない。
誰からも聞けなくなった。
誰にも語れなくなった。
30日の午前中にウコちゃんに一週間分のエサをあたえた。
そして、etekoの上の見廻りをした。
午後からは墓参りに行って地代を払う予定だった。




大晦日と正月は田尻の別宅に行って過ごそうと思ってる。
洗濯も溜まってねしね。
壊れた濯機は修理不可なんだろうか。
壊れたPCは直せないんだろうか。
テレビのモニーターに繋げないファミコンはこわれてるんだろうか。?
いろいろなものが壊れてるのに何一つ修理できてないなあ。

荒れ果てたeteko農園を今年の春に向けてなんとかしないといけないなあ。
何とかしないと思い続けながら、何ともなならない人生だなあ。
もう終わっちゃうよ。
土づくりを遣らないといけないなあ。
土づくりと言っても、ウコちゃんの小屋を掃除して、💩を含んだ土を運ぶだけなんだけどなあ。
etekoは、づーと腰が痛くなってきた。
動くと痛くなる。
ぎっくり腰の一歩手前だなあ。
猫車のタイヤのパンクも修理できずにいるしなあ。
すべての事が、左肩下がりだなあ。
すべてがマイナスに進んでいく。
負のスパイラル。
だんだん、いつもより回ってます。





最初に父方のお墓に線香をあげてきた。
6号国道を北上してる時に、雨が落ちてきた。
そして、激しく落ちてきた。
スマホで、天気予報で確認したら、曇りで降水確率は、ゼロなのに何てことだい。
今日の魚座は、12位だった。
日立市市役所の山の方にある父方のお墓詣りはあきらめろと言う事かい。
雨を落とす雨雲が北の方にかかってる。
山の裾の方は明るい。
晴れてる。
通り雨かなあ。
父方の墓参りはあきらめて、母方のお墓に直接向かおうかとも思った。
6号国道は、渋滞していた。
いつもより渋滞してた。
年末の里帰りの車も交じってるんだろう。
前の黒いバーンの車のナンバーは、「川口」だった。
日立総合病院あたりに差し掛かかる前の、丁字路に差し掛かった頃、後ろから緊急車両が赤橙を付けながら近づいてきた。
ブーさんは気づいてるのか。?
後ろから救急車が来てると言った。
車を歩道に寄せて信号の前で停車した。
雨は激しく落ちて来ていた。
ワイパーを作動させた。
信号の前には、車が2台停車してた。
ここの信号は、停車時間が長い。
だらだ走ってたので、道路の周りの風景をいろいろ見渡せた。
信号の丁字路の角海側は、まぐドナルドがある。
山側は最近と言うか、新しいファミマのスーパが開店してる。
細菌と言っても、平成の30年以前は、閉鎖していた大きな喫茶店が建っていた。
その建屋を解体して、ファミマの店舗が建てられた。
もともとのオーナーは、みんな売っぱらったのかなあ。
オーナーはもうあっちの世界に行っちゃったのかなあ。
その子供が売っぱらったのかなあ。
いろいろな事を妄想した。
ここのお店は、1980年には、立派な2階建ての鉄筋の建屋だったなあ。
1980年は昭和55年みたい。
スマホで確認した。
昭和55年のこの喫茶店に、何度か入ったことがあるのを思い出した。
あれは、社会人バンドの仲間と訪れたんだなあ。
6国沿いにあり、駐車場も10台以上は止まれる。
入りやすかった。

昭和に建てられた建物はどんどん取り壊されていくなあ。
壊された後の建屋は、アパートとコンビニなってるなあ。
平成の頃に進出してきたスーパーのマルトも、その敷地は別の持ち主だったなあ。
桜川のボロ屋敷に近い諏訪のマルトは、元は日立製作所の社宅の敷地だったなあ。
低い山のなだらかな斜面をしたから上の方に社宅が立ち並んでいた。
石内の十文字から山側に上る左側に、二階建ての鉄筋コンクリートのアパートが並んでいた。
ここのアパートは若い夫婦達がすんでたなあ。
多賀地区にある、日立製作所の国分工場、多賀工場のエリート社員達の社宅だったのかなあ。
この社宅には、幼稚園、小学と同じだった、S君とかT君がいたなあ。
こういうのを幼馴染と言うんだろか。
この二人は、つねに成績優秀でがり勉タイプだった。
ほとんど付き合いなかったなあ。
小学校の頃は、優秀だったと言う事でうわさが入ってきた。
同じクラスになったことはなかったけどね。
あの頃の小学校は何クラスあったんだろう。
10クラスまではなかったかなあ。
それでも、一クラスは50人近くいたんじゃないのかなあ。
はっきり思い出せないなあ。
卒業のアルバムなんかも、半世紀くらい見てないんじゃあないのかなあ。
家に残ってるのかなあ。
探してみる必要はあるなあ。



日立市役所の丁字路まで着いた。
雨はよくなっていた。
父方の墓参りに行くことにした。
今日を逃すと、今年はいけなくなってしまう。
車を山の方に向けてもらった。
どっちにしろ、日立市役所の横の坂道を上ったところのマルトで生花を買わなくてはいけない。
それに、高萩の叔父さんの所に持っていく歳暮も買わなくてはいけない。
マルトで生花と歳暮を買うと、雨は上がっていた。
山まで上がることにした。
空は曇っていた。
この時期に墓参りしてる人はいるのかなあとおもったけどど、3組くらい訪れていた。
父方のお墓は、小高い山の斜面を整地して無理やり作ってある。
その一番高い方に、父方のお墓はある。
ブーさんは一番高いところにある駐車場に車を止めた。
一台の車が止まってた。
etekoだけが、車を降りて、駐車場からの上り坂を生花などを抱えて、喘ぎながら登って行った。
その先に、2人の男女が坂道を登っていた。
男の方は、お相撲さん体系だった。
女性の方も同じような体系だった。
夫婦なのか。
etekoよりも若いなあ。
祖父母の墓なのか、両親なのかなあ。
そんな事を妄想した。
男の方のお墓、女の方のお墓かなあ。
親族の墓かなあ。
知人と言う事はないなあ。
いろいろ妄想しながら坂道を喘ぎながら登っていた。
先に上っている男女は途中の墓で止まる思ったら、坂道の突き当り付近まで登っていた。
上から2段目くらいにお墓があるみたい。
etekoのお墓は、上から5段目くらいか。
生花をあげよう生花台をみたら、しなびた生花が活けてあった。
12月中には、親族のものが上げたんだろうけど、誰かはわからない。



最近気が付いたんだけど、こんな坂道の上の方にお墓を親父が建てたのかを。
この東平霊園ができた頃は、お墓を建てる区画はかなり空いてたと思う。
それが、今になると、こんな坂の上のほうのを区画を選んだのかがわかるような気がした。
この場所は景色がいいんだよ。
ただ、それだけだ。
ここから海の方を眺望すると、日立市役所が見える。
市役所の敷地を横切るように6号国道が走ってる。
そこから縦に、海岸線にあるJRの日立駅まで続く平和通りが走ってる。
平和通りには、両脇に桜が植えられている。
日立市の桜の名所となっている。
この平和通りは、途中で欅(けやき)通りにぶつかる。
けやき通りの山側の方に、父方の祖父母が日立市で暮らし始めた米屋の店舗と家があった。
その前は、どこかの長屋に住んでいたのかもしれない。
なにしろ祖父母はブラジルに渡ろうとしてた流れ者だからね。
ブラジルに渡ろうとして神戸まで行ったけど、夢はかなわなかった。
その祖父母は、意気消沈して、実家のあった会津に近い、茨城県の日立市まで戻ってきた。
日立市に戻ってきた時は、もちろん米屋ではなかった。
米屋を始めたのは、いつの頃からだったんだろう。
誰からも話を聞けないようになってきたなあ。
ここからだと、その家もここから、望めたのかもしれない。
けやき通りから海側は、日立製作所の海岸工場がある。
ここは、東京に進出するまでの日立製作所の本社があった。
あとでよく調べてみよう。

海を臨んで左側見ると、神峰山の切れ端辺りが見える。
切れ端の辺りには、神峰神社があり、そこから山裾に神峰公園が広がってる。
神峰動物園がある。
山の高いところに観覧車が見える。
今も動いてるんだろうか。
あの観覧車に乗った事はあったかなあ。
一度もないようなきがする。
あそこには、国民栄養賞をもらった、吉田正記念館もある。
その風景は高鈴山のすそ野で隠されている。
その高鈴山のすそ野と神峰山に挟まれた峡谷?とも呼べない境を宮田川が流れている。
宮田川は高鈴山の方から流れてくる。
神峰山と高鈴山が高く重なり合ったところに、日立鉱山の坑道が神峰山側に口を開けている。
ここから日本鉱業が始まった。
宮田川の神峰山の接する低い土地に精錬所とかの施設が設置された。
そして、日立製作所も発祥した。
日本鉱業は今は、エネオスと言うのか。
日立鉱山の精錬所の低い場所から、神峰山のすそ野を煤煙を流す芋虫のようなドームが山の頂上まで張り付いている。
そして、ここに建設当時は世界一高い大煙突が建設された。
この煙突は、大風が吹いた時に、下から三分の一くらいを残して倒壊してしまった。
あれは、いつの事だったろう。
昭和の時代は、高鈴山のすそ野に隠れずに煙突の上の方が半分くらいは見られたのかも。
そのころの記憶は残ってない。

右側は、日立製作所の工場群が見える。
海岸線を常磐線が走ってる。
多賀地区の方は見渡せないなあ。
視界を遮るのは、日立市で一番高い山の高鈴山のすそ野なのかなあ。
と言う事は、日立総合病院とかある辺りも高鈴山の一部なのかなあ。
後で調べてみよう。
墓守はetekoひとりになってしまった。


ここからは変なアングルでシャッターを切ってしま写真だなあ。
こちは、高萩にある母方のお墓だ。
ここのお墓は、実家に近い集落の共同墓地から、ナカちゃんが移設した。
ナカちゃんの実家は、常陸太田市の中染と言う地域にある。
この地帯は、常陸太田市の中心から、大分山の方に入る寒村地帯だ。
八溝山系から連なるあまり高くない山のすそ野に、昔から人が住んでいた。
山の間を流れる河川付近に住み着いて、稲作をしていたようだ。
縄文人の時代から人が暮らしてたようだった。
そんな昔から住んでた地域で稲作をやって生きてきた人間達の松枝だったのか。
もちろん、この山岳地帯には、野生の動物もいた。
狩猟民族が住み着いて、農業を始めて定住したのだろう。
西の方から、日本の権力者が出てきた。
地方にもそれなりの権力者が出てきた。
日本中に住み着いた縄文人は、狩猟民族だったのか。
もともとは、野山に分け入って野獣を借ると言うよりは、海伝いに渡ってきた海洋民族だと思う。
その海洋民族が日本列島に定住し始めた。
若い者は海に出て、漁をした。
年老いたものや、女、子供は陸地に残り細々とイネや作物を作り始めた。
そして沿岸地域に定住し始めた。
日本の権力は北九州から北上していった。
小国家が九州に乱立した。
小国家は周りの国家と対立し淘汰された。
強大化した小国家は、北上した。
日本列島を北上した。





