2021/10/29(金) 武田邦彦×須田慎一郎×居島一平【虎ノ門ニュース】 | eteko屋スタジオ

eteko屋スタジオ

勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。



2021/10/29(金) 武田邦彦×須田慎一郎×居島一平【虎ノ門ニュース】を聞きながらの殴り書きを書こうと思ったてたら、書かないうちに動画が終わっちゃった。


中古の新しいPCは、Wi-Hi でしかインターネトに繋がらない。

記事を書いてる内に、Wi-Fi が切れる。

オフラインになってしまう。

オフラインになっても文章は書けるけど、記事を投稿できない。
下書きで登録しておこうと思っても登録できなかったりする。

Wi-Fi を復活させようとして、トラブルーシューティングや再起動を繰り返しやってる。

文章を書いてる時間よりも、PCの不具合に付き合ってる方の時間が長いしまつだよ。

Wi-Fi が切れてオフラインになる原因が全く分からない。
クラウドの重量規制がネックになってるのか、それとも、家庭内のネット環境の設定が影響してるのか、原因が未だ分からないよ。

今は、我那覇真子チャンネルの動画を聞きながら文章を書いてるよ。

書き終わった時に投稿できるかどうかわからない。
最低でも下書き保存で、もう一台のPCから、下書き文章の修正で投稿だよ。

Wi-Fi がすぐ切れるPCで、アメブロの投稿にこだわってるのは理由があるよ。

ここのPCwでアメブロに投稿した記事は、FaeBook の方と連携してて、同じ内容を投稿できるよ。

前は、Twitter にも書き込めたんだけどね。

Twitterの方は、2年前くらいに、リー地域とか、シンコロナ(武漢肺炎)の事を書いてたら、バンされちゃったよ。

でも、FaceBookの方のアカウントは生きてて、書き込めてるみたい。

ところが、もう一台のPCからは、FaceBook にも書き込めなくなってるよ。

なんでだろうと、原因を追究したことはないんだけどね。

何か分からん力が悪さをしてるんだろうね。


その原因を突き止めようと時間をかけた事はないけどね。

etekoは、奇妙な人生の中で、1980年に社会人になってから、コンピュータと付き合うようになったよ。

大学は文系だったのに、日立製作所の重電機部門の会社と言うか工場に潜り込んだよ。

最初は、文系の部署と言うか、経理と同列の技術と言う課に配属されたよ。

半年も経たないうちに、この部署でいろいろあって、退職を決意したよ。

一週間くらい会社に出勤しなかったよ。
そして、退職願いを書いて、工場に言ったら、工場長に呼ばれて、みんなお前が悪いと言われたよ。

涙が出たよ。
悔し涙が出たよ。

まあー、会社組織はこういうものだと言うのは分かってたけど、涙が出たよ。

工場長と言うのは、その工場では、一番上の人だよ。

工場に派遣された時、派遣会社の社長よりは偉い人だと認識してたけど、工場長と対面して面と向かって話したことはなかったよ。

辞表は受け取らないが、明日からCADグループに行けと言われた。

CADグループと言っても、そこは、etekoが派遣された年から、建造されたCAD室の事だった。

このCAD室は、etekoが工場に派遣された時から、建設が始まっていた。
CAD室と言っても、設計棟の横に、2階建ての大きなプレハブの家を建ててるようなものだった。

ただ、噂では、この建屋の2階に導入する大型CAD端末は、5000万くらいするというものだった。

建屋の2階のフロアーは絨毯がしかれ、エアコンも完備されていた。
総額で、しょぼい建屋にの2階には、1億ちかいおかねが注ぎ込まれている話だった。

そこでは、会社では、落ちこぼれの課長と一人の社員がいるだけの部署だった。

etekoが社会人になった、80年代は、今だと信じられないけど、工場の出荷する製品の図面、仕様書などの文章は、みんな手書きだった。

手書きと言っても、日立製作所内には、これらの文章を製本する印刷会社の子会社も存在していた。

設計部門では、製品を作る図面や仕様書などは、この製図された元図をゼロックス、コピーして変更部分を手書きで修正して文書を仕上げていた。

設計の担当者の下には、4,5人の設計補助要員が付いていた。

この設計保持要員は、製品を作るのではなく、その設計図や仕様書の文章を修正作成する要因だった。

製品の電気知識はかいむだった。

そんな要員の一人として、日立製作所の子会社みたいな、「日立エンジニアリング(株)」と言う会社に、etekoは派遣された。


この80年代は、世の中に、コンピュータが浸透し始めた創成期だった。

etekoが大学時代には、インベーダーゲームが大ブレークしてた。

それまでも、ゲームセンターと言うものはあったが、そのゲーム機はみんなアナログだった。

80年代以前に、コンピュータとして、一般のアホ日本人達が認識してたのは電卓だけだった。

弁当箱くらいの大きさの電卓があっという間に、紙ぺらみたいなサイズになっていた。

etekoが社会人になった80年には、やっとワープろと言うものが売り出されてきた。

そして、マイコンと呼ばれた、8ビットのPCが出てきた。

CAD室に配属となったetekoは、最初にと言うか、20年も生きてきてから、キィーボードを叩くことになった。

それまで、キィーパンチャとかの職業があるのは知ってたけど、社会人になって、自分がキィーボードを叩く仕事に付くとは思いもしなかった。

それも、叩いてるCADの機器は5000万もするという。

周辺機器には、ハードコピーと言うものと、ドットのプリンターか゛設置されていた。

ハードコピーはモニターを印刷するだけなんだけど、このちゃちい機器だけど、500万はした。

このCAD室に、後から、ワープロと言うものが導入された。
これは、富士通のオアシスと言うやつで、400万くらいした。
このオアシスは、使えない課長の玩具だった。

時間があれば、使えない課長は毎日のように何かの文章を作成してた。

今思うと、この課長がオアシスで作成した文章を一度も見た事なかったなあ。

あんなことやってて高い給料をもらってる課長を一段と軽蔑してたなあ。

日立製作所の子会社みたいな「日立エンジニアリング」が、億単位のCADシステむの導入したのは、上からのトップダウンだった。

始まりは、日立製作所の原子部門から始まった。
もともとは、アメさんの影響なんだけどね。

原発の機器を納入するのに、手書きの図面はないだろうってことから始まったらしい。

日立製作所は、アメさんの属国になってから、布目さんのGMの支配下にはいってみたい。

アメさんは、軍事技術の進歩で、コンピュータ―とかディジタル化が属国の日本よりも一歩進んでたよ。

そんな圧力で、日立製作所の内部でも社内のデジタル化と言う圧力が半端なかったよ。

その先頭に立たされたのが、大型CADだよ。
これは、コンピュータで図面を書くと、その一式の図面から、部品の仕様書とかライン表とかが一式作成敵ると言うプログラムになってるよ。

この大型CADは、ビルゲイツのウィンドーズが出る前の10年前以上前だよ。

etekoが派遣された工場は日立市の十王町の山の方にあったよ。
ここは、日立市のはずれなんだけど、常磐道が通るのに合わせて、十王町が工業団地とか言って、日立製作所の工場を誘致したみたい。

そんな日立市の中心部のはずれのCADで書いた図面は、日立駅の近くにある日立エンジニアリングの本社の半地下にあるコンピュータルームに設置された「静電プロッタ」に出力されたよ。

この本社と十王工場の距離は、20キロ以上離れてるなあ。
この間を、本社 の大型コンピュータと特殊回線と言う電話回線でつながっていた。

この回線の料金が、月に100万以上かかっていた。

それでいて、月に作成できる図面は、10枚くらいが限度だった。

ああー、いろいろ思い出すなあ。

こんな経験して生きてるのはetekoくらいかもしれないなあ。