最悪のシナリオ その2 | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。



【DHC】2020/11/5(木) 有本香×百田尚樹×居島一平【虎ノ門ニュース】を定時から見てる。

そしたら百田直樹がでてる。

頭から、バイデン勝利のカラクリを言ってる。

票の伸びのグラフで一目両全だなあ。

バイデンが選挙開票で不正をなりふり構わず発動したなあ。

アメリカの大統領は直ぐには選出できないなあ。

アメリカ分断工作が達成できるのかなあ。

善と悪の最終戦だなあ。



月曜日はだか病院の歯科クリニックだった。
行きも帰りも歩きで言ってきた。
予約時間の1時間前に、桜川のボロ屋敷を出た。
多賀病院に着いたのは予約時間の10分くらい前だった。
着く頃には曇り空から小雨が降りだしていた。
げっ、多賀病院まで歩いて、50分もかかった。

本当にetekoは歩行困難に陥ってる。えーん




前回の2回の通院は、タクシーを呼んで行ったよ。
帰りは歩きで、一時間近くかけて歩いて帰った。
その間、帰り道の周りの景色をいろいろ見て回ったよ。

その時に気が付いたんだけど、国分工場の敷地の横を走る歩道をまっすぐに歩いて行って、245号線にぶつかる丁字路を左折するよ。
丁字路の過度に広がる国分工場の駐車場のわき道を歩いたほうが近道になるんじゃないかと思った。

多賀病院の帰りに国分工場の駐車場のわき道と思える歩道に入り込んでみた。
わき道の入り口は、245号線を挟んだ多賀病院の出口に広がっていた。
ピンク色のビル?の横からは入れた。
このわき道は、国分工場の敷地内だなあ。
出口は帰り道の車道に出られるのか不安だった。

無職のetekoは、出られなければ、戻ればいいと思ってた。
ただ、歩行がつらかったけどね。

そしたら、出られた。

このわき道を通ると、少しだけ近道だった。照れ






桜川のボロ屋敷から多賀病院まで歩きで通ってる時に、こんな石碑とかお墓みたいのが設置されてるのに気が付いた。

桜川のボロ屋敷から多賀病院までの道は、山の方から流れてる桜川に沿って歩く道だよ。
桜川はetekoの家の近くを流れてる。
その河口の断崖に立ってるのが多賀病院だよ。

この桜川は小さな川だけど、長年の流れで扇状地みたいな地形を形成してる。
日立市内では、海に迫った山から流れるこうした短い川で、いくつかの同じような地形構造を作っている。

この桜川沿いの亮岸の土手には、こうした石碑が多く建てられていた。
etekoもその存在は、桜川のボロ屋敷に住みついた半世紀以上前から知ってた。
何しろ、家の近くの桜川の所にも、こうした石碑がいくつも建てられていた。

昔に建てられられたのか、石碑に刻まれた文字は経年の為、薄くなってた。
ただ、その石碑の文字をじっくり見たのは幼少の頃だった。
刻んでる漢字は読めなかったよ。

でも、石碑には大きな文字で馬神と刻んであった。
これは、馬のお墓なんだと思ってたよ。

幼少のetekoは、勝手に思い込んでいたよ。
この石碑は、大東亜戦争の時に、この辺りの農民達が農耕馬をみんな軍に供出したんだなってね。
その供養にこんな石碑を建てたんだろうってね。

この石碑の事について、親や周りの人には、今まで一度も聞いた事がなかったよ。

今まで、桜川の周りに建ってる石碑の側を歩かなかった。
そしたら、6号国道に出る手前の所に、石碑に関する説明文の石碑が建っていた。

6号国道の向こうには、今は葬儀屋さんになってる建物が建っている。
ここは、元々は結婚式場だったんだけどね。

ここで、会社の部下の女子?の結婚式に何度か呼ばれて、何度もご祝儀を渡したなあ。

今だ、一円も回収できずだ。

結婚式場から葬儀屋さんになってからは、親父の葬式はここでやったんだなあ。
あの時は、会社を辞めた年だったから、勤めてた会社の人はほとんど来なかったなあ。
それよりも、昔、etekoのボロ屋に下宿して国分工場に通ってた人達が何人か来てくれた。
その人達は、東北地方から高卒くらいで、日立製作所の国分工場に入社し若者達だった。
親父の葬儀の頃には、定年前後になって、日立市で家庭を持って落ち着いた数人の人達だった。
親父は、その人達の結婚式には、親族でもないのに必ず呼ばれて、ご祝儀を渡していたんだろうなあ。ガーン










ここの石碑には平成の時代になってから建てられた市の歴史保存の部署建てた石碑の説明文の小さな石碑が建ってた。

この石碑の文字は読めた。

それによると、この桜川の流れる一帯は、古戦場だったみたい。
説明文によると、戦国時代に、福島のあたりにいた相馬氏がこの地を支配していた佐竹氏に攻め入ったみたい。
桜川を挟んで、佐竹氏と相馬氏が対峙して戦ったみたい。
相馬氏は戦いに敗れ、敗走したみたい。

その時に、多くの相馬氏の兵士の戦死者を桜川のたもとに多く埋葬したみたい。
その墓を地元の農民たちは、ずーと香華して供養し続けてたと言う。

江戸時代になって、相馬氏の殿様がこの桜川を通った時に、地元の農民達が長きに渡って相馬氏の兵の死者を供養し続けてる時に感激し、歌を詠んで大きな石碑をたてたみたい。
それからも、地元の農民は、相馬氏の戦死者を供養し続けてたみたい。


etekoは、いろんなことが線で繋がったよ。

相馬の馬追い祭りいと言うのがあるのは昔から知ってたよ。
全国的にメージャーなお祭りだよ。
でも、お隣の福島県のお祭りだから、茨城県の日立市に住んでいるetekoにとっては、身近なものではなかったよ。

日立市の桜祭りの時には、この相馬市の馬追い祭りの観光PRで、お馬さんと武者姿の人達が5,6人やってきて、平和通りを練り歩いたりしてた。

そんなつながりがあったんだね。

還暦過ぎたetekoが、今になって知ったよ。ガーン











この石碑の説明文と言うか歌碑の文字を読んで、etekoは、いろいろ妄想したよ。
相馬氏の軍勢は、佐竹氏に搾取されてた農民達が呼び寄せてたんじゃないのかなあ。
相馬氏の軍勢は、佐竹氏の悪政から農民達を解放してくれる救世主だったんじゃないのかなあ。
その救世軍が、悪の佐竹軍に敗れちゃったんで、農民達は相馬氏の戦死者を供養し続けたんじゃあないのかなあ。

etekoの地元を統治してた佐竹氏についてはあまり知らないよ。
ただ、昔から知ってる都市伝説では、江戸時代に佐竹氏は、茨城県から秋田県に、お国替えになったよ。
この時に、佐竹氏は多くの側室や美人を秋田県に連れて行ってしまった。
その後、茨城県は全国的なブスの産地となった。
それから反対に、秋田県には、「秋田美人」と言う言葉が生まれた。

都市伝説じゃなく史実のような気もするけどね。

でも、江戸時代になって、佐竹氏はなんでお国替えになったんだろう。

佐竹藩が水戸藩に代わったて言うのも、調べてみよう。

時間がいくらあっても足りないなあ。

引き籠っていても、退屈はしてないみたい。照れ