【DHC】2020/8/4(火) 百田尚樹×髙橋洋一×居島一平【虎ノ門ニュース】を聞きながら「ラジオ屋」の創作ノーを書き進めよう。
大東亜戦争前後の年表とかいろいろなことを調べながら書いてる。
年表はノートにボールペンで文字を書き出してる。
おおー、今までにこんなに文字を書いてるの、受験勉強の学生時代以来だなあ。
しかし、悪字だなあ。
関心するほどへたくそな文字だなあ。
ラジオ屋 ( 創作ノート その27 )
私の電気店が軌道に乗ってから、いい名づけの美子を実家の常陸太田市から呼び出していた。
一階が店舗で、2階には急な階段でつながっていた。
階段と言うよりは、梯子を緩やかにかけたような会談だった・
6畳間が2つくらいの広さだった。
実際は、12畳の部屋の真ん中を、ふすまで塞いであるような形だった。
二人だけだと広すぎる部屋だった。
美子が来る前までは、半分の道路際の部屋でせんべい布団をしていて寝てるだけだった。
部屋の中央にはちゃぶ台があり、その周りには怪しい一升瓶が並べてあった。
ここは、美子が来る前までは、桜川一家のたまり場と言うか、ちょっとしたバーになっていた。
それは、私が堅気の電気屋になってからもしばらく続いていた。
もちろん、いちさんも毎日の様に来てた。
いろいろな事を、いちさんとは話し込んだ。
その頃は巷ではカリスト酒とか怪しい酒が出回っていた。
でも私の所には、横流しの洋酒が山積みの在庫だった。
それを目当てに、桜川一家の面々が毎日の様に訪れていた。
これから日本はどうなるんだとか、私達のような人間はどうなるんだと言う事を話し込んでいた。
いちんも、道を挟んだ向こう側で、米屋を始めていた。
その米屋は、いちさんの親父か゛、日立の弁天町で始めた米穀店の支店のようなものだった。
弁天町の店で精米した米を新町の店に持ってきて、販売配達してた。
その頃は、日立駅前近くの弁天町よりも、日立鉱山のおひざ元の新町の方が栄えていた。
いちさんが弁天町の米屋を切り盛りしていた頃は、配達と言うと日立鉱山のおひざ元の新町の方が多かった。
そんなもんで、いちさんが終戦後に住み始めた新町の仮屋の近くの仮店舗を借りて米屋を始めた。
いちさんの店は、私の電気屋とは、狭い道路を挟んだはす向かいにあった。
店の広さは、私の店を横にしたような作りだった。
私の店は縦長だったが、いちさんの店舗は、道路に沿って横に広がっていた。
それでも、10畳くらいの広さだったろうか。
大きな店構えではなかった。
ここに弁天町のいちさんの親父さの店から精米した米を運び込んで並べていた。
あの頃は、直に店に米を買いに来る鉱山労働者のおかみさん達もいたけど、大部分は配達だった。
あの頃のいちさんは、車は持ってなかった。
単車の荷台に大きなカゴを据え付けて、コメを30キロくらい積んで配達の日々だった。
いちさんの単車が店の前に出入りする音を間断なく聞いていた。
私といちさんは、天皇の玉音放送を聞いて、茨城県に復員してきた。
いちさんは陸軍。
私は海軍だった。
それが、復員してきた時の水戸駅で接点を持った。
あの時からの付き合いだった。
と言っても、5年くらいしか経ってない。
その間に、兵隊に行った、死にぞこないの二人の若者には、いろいろな事があった。
あの頃の私達が、生まれてから一番内容の詰った人生だった。