CCRの音源聞きながら、ラジオ屋 (創作ノート その25 ) を書き進めてみよう。
CCRと言えば、あのベトナム戦争の時、の映画とか反戦歌によく流れていた。
ラジオ屋 (創作ノート その25 )
闇物資で小金のできた私達は、新町の空き店舗補を借りて、商売を始めた。
私は電気屋、いちさんは米屋を始めた。
いちさんは闇物資の輸送を辞める前から、親父の日立の弁天町にある米屋を手伝っていた。
手伝っていたと言うよりは、いちさんが店主みたいな感じで働いていた。
店を開業したた親父さんの実哉(みや)さんは生まれつきの虚弱体質だった。
それが勉学の方に彼を向かわせたのだろう。
ブラジルの移民と言うか出稼ぎで、故郷に錦を飾ろうと、渡航の地、神戸に行ったのに、最終審査で、美哉(みや)さんが引っかかり、渡航は叶わなかった。
いちさんの両親は、故郷の福島の会津に近い、茨城県の日立市まで戻ってきて、そこに住み始めた。
その頃の日立は、農村地帯の茨城県の県北地帯にありながら、戦前から日立鉱山で栄えていた。
その日立鉱山から、起業した電気会社の町工場のような日立製作所が関東大震災のおかげで大躍進してた。
とにかく、第一次大戦からの好景気から、茨城県の片田舎の日立地区は工業地帯として大躍進していた。
関東大震災後で、被災を免れた日立地区は、関東では大躍進した工業地帯として栄えていた。
日立鉱山と日立製作所で繁栄してた日立は半端ではなかった。
周りの、地域からも人材が集まっていた。
それは日本全国からだった。
その当時は、朝鮮半島も、満州も日本の領土だった。
そして台湾も、
日本列島の外で生まれた日本人が、一獲千金を夢見て、日立地区に流れ込んできた。
多くは、半島からの朝鮮人達だった。
とにかく、本土の日本に渡れば、今よりもいい生活が送れると信じた。
確かに、朝鮮半島にいるよりは、密航してでも、日本に渡れば、今の生活からは逃れられる。
日立市まで戻ってきたいちさんの両親夫婦はそこで死に者狂いで働いたと言う。
なにしろ、故郷の親戚には、自分達の幼い姉弟を親戚にあづけて、ブラジル移民に行こうとした。
それは叶わなかった。
その頃、日立鉱山と日立製作所で景気の良かった日立まで、いちさんの両親は戻ってきた。
ここで、小金を溜めて、会津に帰ろうと思ってたのに違いない。
なにしろ、このいちさんの両親は死ぬまで、自分の本籍地を福島県の会津から変えずに亡くなった。
いちさんも、亡くなるまで、茨城県の日立市に住みながら本籍地を変えなかった。
本籍地を変更したのは、いちさんと一緒になった、妻の清美さんだった。
あの時は、私も生きてた。
いちさんの妻の清美さんからは、本籍の変更の相談をいろいろ受けてた。
相談を受けてたと言っても、暇つぶしに、いちさんが住んでた家に毎週のようにお茶のみに行ってただけなんだけどね。
闇物資の横流しを辞めた頃から、私といちさんは新町の商店街に住み着いていた。
私は、電気屋、いちさんは米屋だった。
いちさんの実家と言うか、弁天町にある米屋は、終戦直から営業を始まった。
働き手がないために、いちさんが店主兼丁稚みたいな形で働いていた。
その時頃は、年の離れた二人の双子の弟たちは、まだ高校生になったばかりだった。
いちさんは、弁天町に親父が立ち上げた米屋の為に働いていた。
親父さんは、事務関係を取りまとめると言った形だった。
幼い弟たちも育って、弁天町の米屋を手伝うようになった。
手伝うと言うか、他に就職の口はなかった。
この頃の、米屋の仕事と言っても、仕入れた玄米の出し入れ、洗米、商品の並べだった。
そうして主なる仕事は、お米の配達だった。
注文された米を注文先に届けると言うものだった。
この頃の輸送は、まだ自動車は普及してなかった。
単車の後ろに大きなカゴを取り付け、注文主に郵便配達のようにお米を届けていた。
弁天町の店も、幼い弟達が育って、仕事につかえるようになってきた。
そこでいちさんは、この米屋の支店と言うか、店を新町に借りることにした。
そこには、弁天町で精米したコメを運んだ。
そして、注文主の電話で、周りの地域に米を販売し続けた。
新町には、米屋が一軒しかなかった。
競合する店もなかったので、偉い繁盛してた。
新町の商店街では、一番の売り上げを誇っていた。
この頃の共楽館は戦前には鉱山労働者の福祉厚生施設の一環として、新町の海側の方に建てられいた。
終戦間地かの、1945年(昭和25年)の空爆、艦砲射撃によって、日立の市街は東京と同じように焼野原になっていた。
焦土化した、日立の市街で、共楽館だけは、奇跡的に消失を免れていた。
戦前の開業の時は、歌舞伎公演がこけら落としとして、3日間の公演をした。
そんな大衆劇場の「共楽館」は、映画館として復活していた。
週一休みで、毎日毎日、洋画と邦画を周りの映画館よりも、安い料金で放映し始めた。
「共楽館」で、私達は、映画を毎日のように見た。
後に、昭和の後期に、テレビで、「なんとか洋画劇場」「金曜映画劇場」「NHKの映画劇場」で、黒沢映画を流し始めた。
民放のテレビで放送された映画は、CMでぶった切れに編集されてた。
それにアテレコなんかで、日本語の吹き替えに生ったりしてた。
私は、あの頃、「共楽館」の大スクリーンで放映されてた映画がテレビの小さな画面に納まって、つまらないCMでづたづたに切られて放映されてのを苦々しく思った。
本当にあの時に、「共楽館」の大スクリーンで放映してた映画は、後のテレビの小さな画面に、もれなくテレビの画面に映しだされていた。
あの頃の私は、「共楽館」で映画づけだった。
後で思ったけど、淀川先生と同じくらい、毎日、映画を見てた。
自分の近場で、安い料金で、朝、昼、晩と映画を放映してる場所があったよ。
そりゃあ通うよね。
この頃、私は、田舎から、いい名づけの、美子を呼び寄せていた。
電気屋の店も軌道に乗っていた。
家庭を持ちたいと言う希望も湧いていた。
ただ、将来の日本には何の光にも見いだせていなかった。
復員して、実家の常陸太田市に帰った時には、親戚の娘の美子がいい名づけになっていた。
これは、私が学生で東京に旅立つ前からなんとなく決まっていた。
茨城県の県北地帯の常陸太田市は、徳川光圀の隠居所「西山荘」がある場所だった。
ここで、光圀は、「大日本史「を編纂することにした。
それは、江戸時代に、常陸の地域を統治下る水戸藩の国是となった。
「大日本史」は、光圀が生存した、江戸時代の初期から幕末まで続いた。
そんな「西山荘」見渡せる丘の上が私の実家だった。
もともとは、この辺りの農村だったんだろうが、小金を溜めた、ちょっと賢い?農民が
商売を始めた。
そんな背景もあって、親戚と言っても、水戸藩が統治してた農民たちだった。
隣村に娘がとつぎ、隣村から嫁を貰ういというのが、何百年と続いていた。
もとを辿れば、血縁と言うのが当たり前の地域だった。
そんな中で、大学に行く前に、隣村では、親父の弟の娘がいるからいい名づけだと、親族の長老から言われてた。
私は、そんなものかと思った。
彼女と顔を合わせたのは、大学で上京する前の一度きりだった。
正月のお祝いで親戚の家を訪れた時だった。
あれ以来、なんの接触もなかった。
彼女の名前は、美子だった。
農家の、2男三女の末娘だった。
長男、次男は、陸軍に徴兵されていた。
男達は、先行きどうなるかわからない。
そんな関係で、親戚の私に、美子がいい名づけとして設定された雰囲気だった。
私が、横須賀から復員して実家に戻った時は、ボーとしていた。
誰に会いたいと言う気持ちもなかった。
実家の中にいて自分が飯を食ってるのも恥ずかしいくらいだった。
その内に、私の復員をき聞きつけた周りの知人や親せきが、実家を訪れるようになっていた。
実家は、物々交換の闇市のお店になっていた。
酒も米も何の不足もなかった。
毎日の様に客人が訪れていた。
毎日宴会続きの日々だった。
そんな中、美子の親戚も美子を伴い訪れた。
若い娘の美子は、もんぺ姿に、若いぴちぴちした赤手ぽっぺたを桃色に染めていた。
親戚の叔父さんは、美子を、今日は置いていくと言う勢いだった。
私は、この申し出を断った。
復員してきたばかりの私には、何もない。
ただ、お国の為に、海軍に学徒出陣で兵隊になったものの、死ねなかった、死にぞこなぞこないの身だった。
多くの同僚が、死んでいったのをまじかで見ていた。
そんな抜け殻のような人間か゛美子さんと結婚して、子供を作るなんて想像できません。
私は、泣きそうな顔で叔父さんに答えた。
あの出来事が、実家を立たせる切っ掛けになった。
実家に復員してきた私には、本当に大きな虚無しかなかった。
実家にいるほどに、その虚無は大きくなっていった。
その大きくなった虚無は最後に大爆発だ。
その大爆発が、私の自死だった。
ただ、この自死に何の意味付けもないのが私を真っ白にした。
生まれてから、20数年の私の人生は何なんだったろう。
自分自身でなんの意味付けも浮かばない。
これて、ボウフラから生まれた蚊よりも酷い。
蚊なら人間の血を吸って卵を産んで子孫を残す。
今の私が生き延びたからと言ってこれからどうなるんだろう。
訳の分からない絶望感が私を押しつぶしていた。
私は、実家を旅立つことにした。