こんな音楽の動画を聞きながら、ラジオ屋の創作ノーとを書いてみよう。
ラジオ屋 ( 創作ノート その24 )
闇物資の輸送は一年くらい続いただろうか。
週に二日の行き来だった。
東京から茨城県の日立市までの、220キロをボロトラックで走っていた。
それも2年くらいは続いた。
終戦後の日本では、終戦前からの統制経済が続いた。
終戦になって、大陸や半島からの黄身者など、都市部では急激な人口増加があった。
それに付け加え、連合軍の進駐軍も入ってきて、都市部の人口は爆発した。
この時に、日本は食糧難のどん底に陥った。
連合軍の各国、戦勝国と呼ばれる、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどは、自国から食料を輸入することにした。
しかし、蒋介石のシナは、日本の現地で、食料を確保するとする政策を実施しようとした。
連合軍の中では、シナの蒋介石と連合国軍で対立が生じた。
連合軍の中では、進駐軍の中では、自国から食料を輸入すると言うのが大勢を占めていた。
このため、蒋介石のシナは、日本に進駐できなかった。
蒋介石は、このころシナの本国で足元に火がついていた。
シナの国内で毛沢東の共産軍との内戦が始まっていた。
この内戦に蒋介石は敗れた。
その理由は簡単だ。
アメリカが、蒋介石の中華民国の支援を辞めたのだ。
蒋介石はの中華民国政府は、毛沢東の共産政権に敗れ、戦前までは日本の領土だった台湾に逃げ込んだ。
この時には、いろんな逸話が残っている。
蒋介石が逃げ込んだ台湾は日本統治によって、国民の民度か゛、その当時の一等国の日本に限りなく近かった。
そこに、民度の低いシナからの蒋介石の軍隊が逃げ込んできた。
多くの兵隊は、識字率も低く、初等教育も受けてないものが多かった。
彼らは食うために武器をもって敵と戦う道を選んだものが多かった。
逃げ込んだ時は、蒋介石の軍隊は、台湾市民を、虐殺、弾圧を行った。
略奪の限りを尽くした蒋介石軍は、台湾の民家にあった水道の蛇口を、ことごとく外して盗んだと言う。
蛇口を盗んで、自分の家や部屋に持ち帰り取り付けたと言う。
そうすれば、蛇口からは、水道の水が出ると信じてたらしい。
取り付けた蛇口から水が出ないことから怒って、また暴れたと言う。
シナの大陸から、逃げてきた蒋介石の軍隊は、見すぼらしかった。
軍服も汚れていた。
軍服を着てるのはましな方だった。
裸同然で入ってきた物もいた。
とにかく、台湾人の方が小ぎれいだった。
そんな中に割り込んできた、蒋介石の敗戦兵達は、台湾で、極悪非道の限りを尽くしていった。
そんな蒋介石のシナは、国連の常任国として、戦勝国として常任国の五大国として就任した。
そんな頃、私達の闇物資の運送も終わろうとしてた。
権力側の統制も強まってきた。
私といちさんは、新町で正業を始めるようになっていた。
闇物資の仮さぅこになってた、店舗を借りて、私は電気屋を始めた。
電気屋と言っても、最初の頃に置いた商品は、電球ぐらいだった。
それと中古品のラジオを置いて販売した。
それにラジオの修理もやった。
ラジオの修理は、真空管を入れ替えればよくなった。
ただ、新しい真空管が感が手に入らなかった。
この時に、私は東京から運んできた闇商品の中に、真空管を手配しておいた。
何回も、東京と日立の新町での間を輸送する内に、私でも自分で必要な物資を手配できるようになっていた。
私が手配した中での売れ筋は、石鹸や化粧品だった。
原料のオイルやアルコールなども手配して、バッタ物の商品を作り出して売り出したのもよく売れた。
いちさんは、親父が始めた、弁天町の米屋を手伝うようになっていた。
手伝うと言うか、いちさんが店主のように働きまわっていた。
いちさんの兄弟は、10歳近く離れていてた。
双子の弟が二人いたが、まだ中学生で、店の力にはならなかった。
いちさんの親父さんも、もともと体力が弱く、力仕事には向かなかった。
戦前に勤めていた食料倉庫でも、事務員と言う立場だった。
いちさんの親父さんは、復員してきたいちさんの為に米屋を立ち上げ、いちさんに働居貰おうと思っていた。
このままでは、息子のいちは、ヤクザになってしまうと心配していた。
いちさんの親父の頭の中には、「他人さまには迷惑をかけるな。」と言う教えがあった。