ラジオ屋 (創作ノート その13) | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

 

 

 

ラジオ屋 (創作ノート その13)

 

いちさんは、新町の貸家に住んでいた。

新町は日立鉱山の坑道の入り口の下の方を流れる宮田川に沿って、太平洋にそそいでる。

 

宮田川は、高鈴山系と神峰山系に挟まれた低い土地を流れてる。

日立鉱山の坑道から山側に入ると傾斜がきつくなる。

それが。高鈴山の尾根の高い所まで続いてる。

そこが宮田川の水源なのだろうか。

 

水源の反対側には、高鈴山は常陸太田市の方に傾斜している。

ここからは、常陸太田市を流れる里川へ流れる短い川となっている。

 

日立坑道の入り口、大煙突の下の方から海側の6号国道まで続く宮田川に沿って、日立市から常陸太田市へ続く、山越えの古道が続いてた。

 

この宮田川には、6号国道から大煙突に向かって、川の両側に、2本の道路が山側まで通っている。

それが、日立鉱山の下の所で、一本になって、山の方へと、急な坂の山越え道として、隣の常陸太田市に続いている。

 

神峰山の方にある道の両側には戦前から、鉱夫達の宿舎や長屋が並んでいた。

道に沿って、すし屋、八百屋、米屋、洋品店の商店が、道に沿って並んでいた。

 

大煙突側から下がっていくと、日立鉱山や、日立製作所の支援の下、建てられた保養施設の共楽館、武道場、野球グランドが道の両側に建設されていた。

 

戦前から、日立市のこの地帯は、一番に栄えていた。

店は開いていたが、店で売ってるものは、闇商品ばかりだった。

ただ、ここでは駅前で見るような喧騒はなかった。

 

わしの実家の常陸太田の実家の店とは変わらなかった。

 

私は、いつかこの町で、電気屋でも開ければいいと思っていた。

そこから発展して、日立製作所のような会社が持てればいいとも空想した。

 

何もない私は、妄想すると元気が出た。

 

いちさんの借家は、新町の上の方だった。

並んでる、店に顔を出してた。

2軒目の店で、すいとんや煮込みを作ってる店で、腹ごしらえすることにした。

 

店主に、いちさんの居場所を知らないかと尋ねた。

住所を差し出そうとする前に、「もちろん、知ってるよ。」と言う返事が返ってきた。

 

店主の返事で、中国人か朝鮮人だと分かった。

煮込みは、今では、ホルモン焼きと、カタ仮名表記されてる。

 

もともとは、進駐軍は、牛や豚、トリの肉は食べるが、内臓は食わずに捨てていた。

内臓は捨てるもの、かっぼるもの、放るものだったのだ。

それを、三国人が引き取って、終戦後の日本で商品にして売りまくった。

 

日本人なら、こんなものを人様に食わせて大丈夫なのかと躊躇するところだが、彼らは自分達の利益になれば何でもいいのた。

 

特亜三国の民族性は、日本の敗戦直後に、日本中に吹き荒れていた。

今までは、日本の権力が、彼らの横暴を押さえつけていたけれど、その抑えが消えてしまったのだ。

 

日本中が無法地帯になっていた。

GHQは、最初はこの状態を自分達の目的の為に黙認してたが、あまりにも酷いので抑え込みに入った。

 

しかし、彼らも周到だった。

地下に潜っただけで、日本の闇へと勢力を拡大していった。

 

大煙突を見上げなから緩やかな道路を歩いていた。

大煙突を初めて目視した。

本当にそれは今まで見た建造物の中で一番高い建造物だった。

大煙突に比べたら、人間は豆粒だ。

 

その豆粒の人間がこんな高い煙突を建てるなんて、人間と言うか大したものだと思った。

 

今だと分かるだが、この煙突は、大正時代に建てられたものらしい。

日立鉱山の坑道の入り口の下の方には、鉱石の製錬所がある。

製錬時に排出するばい煙が、周りの農地に降り注ぎ、農作物を汚染して深刻な被害を与え続けていた。

 

もちろん、その当時は、日立製作所の工場はあったものの、周りは昔からの農村地帯だった。

高度成長期の昭和30年代に入るまで、日立市は農村地帯だった。

田畑が広がり、そこに農家の茅葺きの家が点在していた。

 

そんな中で、鉱山のばい煙が、周りの人々を苦しめた。

大煙突は、そんな公害に日本で一番最初に、公害対策で建設された日本人の心の象徴のような建造物だ。

 

大煙突は山の頂上付近に建てられているから、余計に高く見えた。

大煙突の下の方には、下の製錬所からばい煙を通す、ドーム型の竈を長くした建造物が張っていた。

 

そんな大煙突を見上げながら、いちさんの借家のところに行きついた。

 

水団と煮込みを食した店主からは、「下駄屋のうらっかわだ。」と聞いていた。

 

下駄屋は、小さな店舗だった。

6畳くらいの広さで、店主が真ん中で、下駄づくりをしてた。

靴もつくってるのだろうか。

店主は、店の中央に、作業台を置き、下駄の原木を削っていた。

右側に、材料が積まれてた。

左側には、作られたばかりの下駄が、4っつくらいな並べてあった。

後ろの壁の棚には、下駄や靴が、半々に20足くらいならんでいた。

 

もともとは、下駄屋だったが、靴の修理もすると言う店だった。

 

店に入って、「この辺りに、いちさんと言う人が住んでると聞いて尋ねてきた。」と言うと、

 

店主は、ささくれた手を止めて、ぶっきらぼうに、「ああー、この店の裏だ。」と答えた。

 

私は、店主に、謝意を述べて裏に回った。

店舗と店舗の境目が狭い通路になっていた。

 

隣の店舗は、下駄屋の2倍の広さがあった。

八百屋の様だった。

 

狭い通路を通って店舗の裏に出た。

 

そこの敷地には、3軒の建屋が立っていた。

宮田川の側近くに、戦前に建てられたわかる日本家屋、そして、店舗の裏川に沿って、4世帯が

入れるかまぼこ式の長屋が立っていた。

 

その長屋の前には、長屋の半分くらいの建屋がたっていた。

それは共同の炊事ばと便所だった。

 

一目見ただけで、ここの大家さんは、もともと百姓で、家を建て替えた時に、庭に貸家を建てたとわかった。

もちろん、その時は、農業はやめてる。

 

いちさんの家は、下駄屋に、「一番右恥だと聞いていた。」

玄関の木の柱に、紙に書いた表札が釘で止まってた。

 

玄関の硝子戸をたたいた。

「ごめん下さい。」

 

家の中から、「おう、-、どちら様で、」と言う、いちさんの返事が聞こえた。

 

玄関に家の中にいた、いちさんが降りてきた。

素通しになってる玄関のガラスから、部分的にいちさんの姿が確認できた。

 

薄暗い、家の中から、直ぐに、いちさんが顔を出した。