【武田邦彦 歴史】真実の日本の歴史 大正時代 NHKが正しく伝えない日本近代史!【歴史講座】と言う動画を聞いてブログみたいなものを書いてみよう。
それにしても、教えられなかった近代の日本史の真実を知るのは良い事だなあ。
10月5日のナカちゃんの四十九日の写真が出てきた。
今まで、体調不良に加え、パソコン環境ももやもやだったんで紹介できなかったなあ。
待てよ、紹介してたかも。
etekoのボケは進んでるのかなあ。

10月の5日は、専照寺と言うお寺さんで四十九日の法要をした。
10時を目指して、専照寺の駐車場に向かった。
法要は、10時30からと言う事だった。
10時をちょっと過ぎた事に、到着した。
ちょっと遅れたなあと思った。
車で向ってくるときに、スマホに妹から連絡が入る。
プリちゃんは市役所の所の交叉点まで来てた。
桜川のボロ屋敷から専照寺までは、6号国道に出て北上するのが距離的には短い。
専照寺は、日立市役所の山側にある。
10時近くなっても、etekoが駐車場に来てないので連絡が入った。


専照寺の駐車場に到着すると、広い駐車場には車がまばらに停まってた。
法要の関係者は、3人しか来てなかった。
入り口を入ったそばの駐車場にプリちゃんを停めた。
隣に泊まってる軽の車が、生花を頼んだ大みかの花屋さんのIさんの車だと分かった。
挨拶しながら、注文してた生花を受け取った。
「場所が分かりずらかったでしょう。」
と声をかけた。
Iさんの花屋さんは、専照寺のお寺さんとは、今まで取引したことがないみたい。
とりあえず、住所と電話番号は教えてたけどね。
Iさんは、生花を置いて帰って行った。
駐車場には、eteko、妹と父方の妹の息子の3人だけになった。
10時20分くらいになってから、高萩の叔父さんの家族が到着した。
6人で、お寺の本堂に向かった。
駐車場にある平屋の建屋は、大人数の法要の時の休憩所だ。
そのわきの狭い道路を入っていくと、本道がある。


法要が始まる間際に、父方の兄弟の親族の二人が到着した。
ここのお寺は、親子の坊さんが二人いる。
法要は、参列者の各自に教本を渡される。
教本には漢字が並んでる。
仮名がふってある。
それを坊さんと一緒に合唱する。
ほんまに合掌だ。
こんな事を今まで何度繰り返してきたろう。
仮名に合わせて読み上げるだけで、意味はまったく理解してないよ。
この参列者は、親族の8人だけだった。
こんなもんだろうなあ。
一般人の四十九日法要はね。

専照寺の住所は高鈴町になってる。
ナカちゃんの葬儀の時に、認識したんだけどね。
お寺の敷地は、日立市で一番高い山の高鈴山のふもとなんだろうかなと思ったよ。
宮田町なのかと思ってたよ。
お寺の敷地は、山の斜面を削って造成されてる。
その斜面を下ったところに、日立鉱山の方から流れてくる宮田川が流れてるよ。
宮田川の横には、入四間を通って、常陸太田市に抜ける道路が続いてる。
この道路と宮田川の平らな土地に、日立製作所の工場群が建ってるよ。
ここが山の手工場と呼ばれてたのかなあ。
宮田川の反対側は神峰山なのかなあ。
川と山に挟まれた平らな土地が、昔は新町と呼ばれてた。
ここで、etekoは、幼稚園に入る前まで暮らしてた。
etekoは、ここで生まれたのかなあ。
鉱山病院かなあ。
それとも産婆さんかなあ。
そんな話を亡くなった両親からは、一度も聞いたことがない。
新町は、日立の大煙突から、海側を走る6号国道まで狭い道路で続いてる。
この道路の山側の方に鉱山病院があったんだなあ。
この道路沿いに、小さな商店が並んでたんだなあ。
そこで、etekoの両親は、米屋をやってたんだなあ。
向かい側が化粧品屋さんだった。
その隣が親父の親友のラジオ屋さんだった。
ラジオ屋と言うのは、電気屋さんをやってたTさんのニックネームだ。
ラジオ屋さんは、海軍の兵隊上がりで、親父よりは年上だった。
親父も少年兵で志願して、陸軍に入隊してたみたい。
軍隊上がりと言うのもあって、気があったんだろうね。
親父は、この頃は、米屋で金回りが良かったよ。
一財産を気づいたんだろうね。
30代で、桜川にバカでかい二階建ての家を建てからね。
それから、etekoの悲劇が始まったんだなあ。



ナカちゃんの納骨の時の写真だ。
ナカちゃんのお骨は、親父の墓ではなく、高萩の叔父さんの家の近くにある菖蒲園と言う墓地に納骨した。
親父が亡くなった後に、ナカちゃんは、実家のある中染の墓地から、高萩の叔父さんの家の近くの菖蒲園と言う墓地にお墓を建てたよ。
中染からお墓を写した時に、ナカちゃんの母親や祖父母を納骨したよ。
それから、お墓の蓋を開けるのは2回目だなあ。
重い石の蓋は、高萩の叔父さんが、ほとんど一人動かしたよ。
ナカちゃんとは、5歳しか離れてないって言ってたから。
86歳の爺さんだよ。
でも、ずーと、コメ作りやってきたから元気だよ。
この時のetekoは、坐骨神経痛で左足に痛みがあって、あんまり手伝えなかった。
前にいれた骨壺は、みんな小ぶりだった。
ナカちゃんの骨壺が大きいよ。
置くスペースが確保できるか心配だった。
叔父さん曰く、「小さいツボには、土しか入ってないよ。」
そう言えば、昭和の初期の頃は、土葬が一般的じゃなかったのかなあ。
etekoは、土葬を見たのは、一回だけだったよ。
あれは、昭和35年ころかなあ。
桜川のボロ屋敷に引っ越してきたころに、幼なじみのS君の爺さんが亡くなったよ。
その頃は、etekoの家の周りは農村地帯だよ。
周りが、田んぼや畑だった。
幼なじみのS君の家だって、100メートル以上は離れてたよ。
S君の家は、饅頭屋だった。
その爺さんが、亡くなって、その葬式に出たのかなあ。
両親に付き合わされたのかなあ。
自宅で葬式をしたんだよね。
棺桶が部屋に置かれてて、坊さんが拝んだのかなあ。
その後に、大八車?だか、リヤカーで、200メートル先の墓地に運んで行った。
墓地につくと、大きな穴が掘られてた。
ガキのetekoには、その穴がとっても深くみえた。
棺桶にロープを渡して、4,5人の大人が、棺桶を穴の底に落とした。
そして、時間をかけてスコップで土をかけた。
そんな様子をじっと見てた。
最後には土饅頭が出来た。
そこに、きの墓標を建てた。
土葬を見たのは、それが最初で最後だった。
その後を機会に、周りの畑や田んぼは、一気に宅地化された。



ナカちゃんの納骨は、高萩の叔父さん家族と、etekoと妹の5人で済ませた。


