「ジュリー」の愛称で知られる歌手の沢田研二(70)が騒動を起こした。10月17日にさいたまスーパーアリーナで行われる予定だったコンサートをドタキャンしたのだ。中止の理由について、所属事務所は「契約上の問題」と曖昧な説明をしたが、翌18日になって沢田本人が「会場がスカスカだったので、自分の判断で中止にした。僕にも意地がある」と明かした。
同アリーナは、客席が可動式になっており、収容人員を1万人から3万7000人の範囲で変えることができる。沢田のコンサートでは収容人員が1万2000人という規模になった。沢田は事前に「観客は9000人」と聞いていたが、リハーサルのときに客席のあちこちが黒い幕で潰されていることを知った。実際は観客が7000人程度になると聞かされ、「満員じゃないとやらない」と激怒し、そのまま帰ったという。中止による損害額は約4000万円と見られる。

この記事を目にして、「今の沢田研二に7000枚もチケットを売る力があったのか」と驚いた。今は隠居のような生活をしていると思っていたが、調べてみると、今年度(2018年7月~2019年1月)は70歳になったことを記念して大規模なコンサートツアーを開催していた。
全国66公演。ツアーの幕開けは日本武道館(7月6日)で、締めくくりは日本武道館3日連続公演(1月19~21日)となっている。地方は収容人員が2000人程度の会場が多いが、首都圏は日本武道館、横浜アリーナ、さいたまスーパーアリーナと1万人以上の会場が目立つ。隠居どころか、歌手として第一線に立ち続けていたのだ。

沢田はグループサウンズ「ザ・タイガース」のボーカルとして世に出た。確かな歌唱力と端正なマスクで人気者になり、ザ・タイガース解散後もソロでヒット曲を連発した。1977年5月にリリースされた『勝手にしやがれ』はオリコンチャートで5週連続1位となり、累計の売り上げが89万枚に達した。この曲で、同年末の第19回日本レコード大賞を受賞。TBSが中継した番組は歴代最高の50.8%を記録した。
当時の沢田は、間違いなく国民的なスターだった。TBSのドラマ『寺内貫太郎一家』では、高齢者役の悠木千帆(後の樹木希林)が沢田のポスターを見ながら、「ジュリー♪」とつぶやき、身体を揺らした。石野真子は『ジュリーがライバル』というシングル曲をリリースした。サザンオールスターズは『勝手にシンドバッド』というシングル曲でデビューした。沢田の『勝手にしやがれ』とピンクレディの『渚のシンドバッド』を掛け合わせのは明らか。サザンオールスターズでさえ、沢田の人気にあやかろうとしたのだ。

コンサートの観客動員で思い出すのが、武田鉄矢の話である。海援隊のメンバーとして、1973年12月に酒田市民会館でコンサートを開いた。当時はデビュー2年目で、『母に捧げるバラード』がヒットするかどうかという時期だった。当日は猛吹雪で、観客が会場に足を運びづらい状況だった。
同会館は収容人員が1100人。緞帳が上がると、客席にいたのは最前列の12~15人だけだった(武田は12人と言ったり、15人と言ったりすることがある)。しかも、全員が同じ学校の仲間だった。

コンサートの途中、1人の生徒が席を立った。すると、別の生徒が「どこに行くんだ?」と大声を出した。席を立った生徒が「トイレ」と回答すると、大声を出した生徒は「だったら、最初から言え!」と怒った。そのまま帰宅するのではないかと思ったのだ。
それ以降は、生徒全員が手をつなぐようになった。武田が「手をつながなければならないほど寒いのか」と聞くと、ある生徒は「いえ、途中で帰るヤツが出ないようにするためです」と答えた。その生徒は緞帳が下がる直前、武田に「今日のことは誰にも言いません」と告げたという。

コンサートが中止になることは珍しくない。その多くは主役の体調不良によるものだ。
チューリップは2017年5月27日の郡山公演を中止にした。財津和夫が25日に体調不良を訴え、診察の結果、腸閉塞と診断されたからだ。その後の精密検査で大腸がんが発覚したため、予定されていた名古屋、大阪、東京、福岡の4公演も中止となった。

コンサート当日に中止が発表された例もある。Mr.Childrenの福岡Yahoo!ドーム公演がそれに該当する。2013年1月3~4日に行われる予定だったが、鈴木英哉(ドラムス)のウイルス性胃腸炎で中止・延期になった。
このニュースが流れると、ネットの掲示板ですぐさま議論が始まった。
「桜井和寿が体調不良なら中止で仕方ないが、ドラムスなら代役を立てればいいんじゃないの? 正直、鈴木英哉と聞いても、ピンと来ない。桜井以外は、誰が誰だか分からない」
「いや、それはミスチルファンじゃない人の意見だ。ドラムスが代わったら、バンドの音がガラリと変わる。何より、メンバー全員が揃ってこそのミスチルだ。メンバーが1人でも欠けたら、それはミスチルではない」

コンサートが中止になれば、チケット代は払い戻しになる。自宅から会場に歩いて行ける人はそれでよい。ただ、中には電車を乗り継いだり、飛行機を利用して現地入りしたファンもいる。ホテルに宿泊した人もいる。その費用が払い戻しになることはないので、中止になったら数万円の損害を被るファンが出る。それを考慮すると、ドラムスが交代しても、コンサートを開催してもらった方がいいと思ったファンもいたはずだ。

プロ野球の試合は、雨で中止が珍しくない。ファンもそれを前提にしてチケットを購入するので、試合開始直前に中止が発表されても混乱は少ない。
ただ、試合会場がドーム球場の場合は、球団もファンも中止をほとんど想定していない。試合時間が来れば、やるのが当然だと受けとめている。
ドーム球場の試合でも、ごくまれに災害などで中止になることがある。球場そのものに被害がなくても、周辺の交通機関がストップすれば中止にせざるを得ない。被災者の感情に配慮して、中止にすることもある。この辺はケースバイケースだ。

今年は7月6日にナゴヤドームで予定されていた中日対ヤクルトの12回戦が中止になった。大雨の影響で交通事情が悪化し、ヤクルトの用具を運ぶトラックの到着が遅れたためだ。
用具が届かないことによる中止は史上2回目。1回目は1979年7月13日に予定されていた日本ハム対南海だった。試合会場は後楽園球場。東名高速道路日本坂トンネルの事故の影響で大渋滞が起き、用具の到着が遅れた。プロ選手の用具はオーダーメイドなので、他人の物を使うと本来のパフォーマンスを発揮できなくなる。用具一式を両チームが共有する草野球のようなわけにはいかないのだ。

沢田の意地によって中止になったさいたまスーパーアリーナのコンサート。その代りとして、1月5日と2月7日に大宮ソニックシティで公演するという。最終公演は1月21日の日本武道館になるはずだったが、ハプニングによって2月7日の大宮になった。最終公演が入れ代わったわけで、大宮(2回目)のチケットがプラチナペーパーになるのは必至である。

【文】角田保弘



押し入れの隅にあった段ボール箱を開けて、中を物色したら、懐かしい雑誌が出てきた。別冊宝島93『プロ野球の悩み』(JICC出版局)である。1989年5月19日発行とあるので、今から30年前に出回ったものだ。
表紙の写真はモノクロで、巨人の主力選手の後ろ姿が写っている。ユニフォームの背中には「HARA」「YAMAKURA」「GULLICKSON」といった名前が入っている。背中の名前と顔は見えないが、その周りにも5~6人の選手がいる。選手の1人が試合中にアクシデントで倒れ、その手当てにあたっているシーンと見られる。

目次には「企業戦略のなかの福岡ダイエーホークス」「千葉マリンスタジアムの黒いプレーボール」「北海道にプロ球団を!」「衛星ニューメディアがプロ野球中継を変える」といったタイトルが並んでいる。いずれもプロ野球をビジネスの視点で捉えた記事だ。セ・リーグよりパ・リーグとの関連性が強い記事という言い方もできる。
当時は元号が昭和から平成に変わり、プロ野球界も転換期を迎えていた。南海は福岡ダイエーに移行し、パ・リーグに地方の時代が到来しつつあった。千葉マリンスタジアムの建設は進んでいたが、そこを本拠地にする球団は決まっていなかった。札幌ドームは構想段階にすぎず、当然のことながら、北海道を本拠地にする球団はなかった。通信衛星が打ち上げられたことで、テレビの多チャンネル化が進み、12球団の全試合を中継できる可能性が浮上した。

30年後の現在、それらはどうなったか。福岡ダイエーは福岡ソフトバンクとなり、スタジアムが毎試合のように満員になる人気球団になった。千葉マリンスタジアムは千葉ロッテの本拠地となり、外野スタンドに熱狂的な応援団が陣取るようになった。札幌ドームは4万人収容のスタジアムとして建設され、北海道日本ハムの本拠地になった。通信衛星はプロ野球中継を多様化させ、パ・リーグ人気を高める要因になった。

昭和のパ・リーグはスタジアムがガラガラで、テレビ中継もなかった。スポーツニュースでは「パ・リーグの3試合はご覧の結果です」という軽い扱いを受けていた。
このため、ドラフトの有力選手は、パ・リーグの球団が交渉権を獲得すると、報道陣の前で露骨に嫌な顔をした。ドラフト前に「パ・リーグの球団が交渉権を獲得した場合は入団を拒否する」と公言する選手もいた。江川卓、小池秀郎、元木大介、福留孝介らは、実際に入団を拒否した(小池はロッテを拒否し、2年後に同じパ・リーグの近鉄に入団)。

パ・リーグはなぜ、人気が低かったのか。セ・リーグと同じプロ野球なのに、なぜ存在感が稀薄だったのか。
理由は主に2つある。1つは、テレビのプロ中継が巨人戦に偏っていたこと。もう1つは、パ・リーグ6球団の本拠地が関東と関西に集中していたことだ。
昭和のプロ野球は、巨人の人気が突出していた。王貞治、長嶋茂雄という2人のスター選手がいて、脇役も揃っていた。ほぼ全試合がゴールデンタイムに全国中継されていたので、プロ野球にあまり興味のない人でも、巨人の選手の名前はそれなりに知っていた。

巨人以外のセ・リーグ5球団は、テレビ中継の中で敵役を演じさせられた。ただ、王・長嶋に立ち向かった村山実(阪神)、江夏豊(同)、星野仙一(中日)、平松政次(大洋)、松岡弘(ヤクルト)といった投手は、敵役ながらも人気を獲得した。キャラがたっていたからだ。
一方、巨人と対戦できないパ・リーグ6球団は、敵役にさえなれなかった。テレビ中継がほとんどなかったからだ。鈴木啓示(近鉄)、山田久志(阪急)、村田兆治(ロッテ)、東尾修(西武)らがいくらいいピッチングをしても、テレビ中継がなければ、スタジアムの外にいる人は目にすることができない。スタジアムにいる観客は数千人程度。このため、パ・リーグの1流投手より巨人の控え選手の方が知名度は高いという現象が起きた。

ただ、村田は選手の晩年、「中年の星」的な扱いを受けた。怪我から復帰し、通算200勝に向けて勝ち星を積み重ねたからだ。日曜が来るたびに中6日でマウンドに上がったため、「サンデー兆治」と呼ばれた。200勝がかかった試合は、日本テレビが中継した。
鈴木も選手の晩年、顔と名前が知られるようになった。公共広告機構(現ACジャパン)のコマーシャルに起用され、「投げたらアカン!」という名セリフを口にしたからだ。「草魂」というキャッチフレーズ(座右の銘)も、そのころから知られるようになった。

パ・リーグは1979年から1988年までの10年間、6球団の本拠地が関東と関西に集中していた。西武、日本ハム、ロッテの3球団が関東、南海、阪急、近鉄の3球団が関西。関東には巨人、関西には阪神という人気球団があるため、パ・リーグの各球団はその陰に隠れる格好になった。特に日本ハムはその傾向が強かった。巨人と同じ後楽園球場・東京ドームを本拠地にしていたからだ。
その状況を変えたのが、南海を買収したダイエーだ。ダイエーは関東や関西を本拠地にしたら、既存球団と競争しなければならないと考えた。そこで、ライオンズが去って以来、プロ野球空白地帯になっていた福岡を本拠地に選んだ。

平和台球場が老朽化していたため、ダイエーは約750億円を投じて福岡ドームを建設。バブル期に計画を練ったので、開閉式のドームという夢のような構想が実現した。その隣にシーホークホテル&リゾートという高層ホテルを建設。前述した「企業戦略のなかのダイエーホークス」は、これらのプロジェクトを取り上げた記事だ。
ダイエーはジワジワと人気を高め、パ・リーグでナンパーワンの観客動員を誇るようになった。その成功に刺激されて、日本ハムは2004年に札幌へ移転。巨人戦がない日に東京ドームで試合をするという日陰の生活に終止符を打った。
2004年はプロ野球再編騒動が勃発し、オリックスと近鉄の合併計画が浮上した。このままでは5球団になるので、試合日程が組みづらくなる。その穴を埋めようと考えたライブドアと楽天が球界参入を表明。楽天が勝ち残り、仙台を本拠地にして新球団を設立した。

現在のパ・リーグは関東に2球団、関西(大阪)、札幌、仙台、福岡に各1球団という体制になった。球団の分散化が進んだことで存在感が増し、地域密着の経営方針もあって、スタジアムが日常的に満員になるようになった。ドラフトを前にして「パ・リーグ球団はお断り」などと公言する選手もいなくなった。
この30年間でパ・リーグは大きく変わった。閑古鳥が鳴き、おっさんのヤジがスタジアム全体に鳴り響いていた時代が嘘のようだ。セ・リーグでは人気が低かった広島や横浜の観客動員も大幅にアップした。昭和のプロ野球は富士山型(巨人一極集中)だったが、今は八ヶ岳型(多極分散)だ。ちまたでは「プロ野球人気が低下した」と言われているが、そのたびに「それはどこの国のプロ野球?」と聞きたくなる。

【写真と文】角田保弘



箱根駅伝5区で4年連続区間賞を獲得した柏原竜二(富士通)の陸上講座は9月17日、福島市のあづま陸上競技場(とうほう・みんなのスタジアム)で行われた。福島民報社と福島陸上競技協会の主催。今年11月18日に第30回を迎えるふくしま駅伝の開催を記念したもので、小中学生約100人が参加した。
柏原は、児童生徒に姿勢の重要性を力説した。普段から猫背だと、走っているときも自然にそうなる。姿勢が悪いと、前に進む力が弱くなると指摘。それを踏まえた上で「走っていないときも、正しい姿勢を心がけてください。朝礼で校長先生の話を聞くときは、背中が丸くならないように意識してください。日常生活が大切なんです。『練習のときにやればいい』という安易な気持ちでは速く走れません」と言った。

あづま陸上競技場は、柏原にとって思い出深い場所だ。第62回県陸上競技選手権大会兼第60回県総合体育大会陸上競技の会場だったからだ。当時、いわき総合高3年だった柏原は、5000mと1万mの2種目に出場し、このトラックを周回した。
男子5000mは、2007年7月12日に行われた。柏原は積極的に前に出て、集団を引っ張った。岡本尚文(田村高)と酒井俊幸(学法石川高教員)の2人が柏原についていく展開になった。残り300mの地点で酒井がラストスパートをかけ、柏原と岡本を抜き去った。トップでゴールした酒井は、この種目で3連覇を達成。2位は岡本、3位は柏原だった。
男子1万mは、2日後の14日に行われた。柏原は再び積極的に前に出て、集団を引っ張った。酒井は柏原に懸命に食らいついた。5000mは最後に酒井が逆転したが、1万mはその余力が残っていなかった。柏原がトップでゴールし、酒井は2位だった。柏原のタイムは30分01秒12。酒井は5000mに続いて3連覇を狙ったが、柏原に阻止された。

酒井は、柏原のがむしゃらな走りに驚いた。母校・東洋大コーチの佐藤尚に「いわき総合に柏原竜二という面白い選手がいる。まだ荒削りだが、素質がある」と報告。佐藤は柏原の走りを確認し、スカウトすることを決めた。
柏原は高校を卒業したら、就職するつもりだった。しかし、佐藤に声をかけられて、気持ちが変わった。2008年1月の全国都道府県対抗男子駅伝競走大会(広島市)に出場し、1区で区間賞を獲得したことも自信につながった。

同年4月に東洋大に進学し、陸上競技部に入部。高校時代は貧血で記録が伸び悩んでいたが、大学で才能が開花。2009年1月の箱根駅伝で5区を走り、8人抜きを演じた。タイムは1時間17分18秒で、今井正人(順大)が持っていた区間記録を47秒更新した。
東洋大は、柏原の活躍で往路優勝を飾った。復路もそのリードを守り、初の総合優勝を達成。柏原は、最優秀選手賞に相当する金栗四三杯を受賞した。「山の神」の異名を持つ今井の区間記録を塗り替えたことで、これ以降は「二代目山の神」と呼ばれるようになった。

東洋大はこの大会に監督不在で臨んだ。大会の約1カ月前に2年生部員が不祥事(電車内での痴漢行為)を起こしたため、監督の川嶋伸次(日体大OB)は責任をとって辞任。後任は置かず、佐藤(前出)が監督代行として暫定的に指揮をとった。
大会終了後に後任の監督選びが始まった。その役を担ったのは佐藤で、東洋大OBから人選することにした。従来は競技力の向上を最優先に考えていたが、不祥事が起きたことで、生活面も含めて部員を教育できる人材でなければならないと判断。実業団(コニカミノルタ)で競技経験があり、当時は高校教師を務めていた酒井に白羽の矢を立てた。

監督就任の打診を受けた酒井は、悩んだ。監督を引き受ければ、学法石川高の教師を辞めて、練習場のある川越市周辺に引っ越さなければならない。妻は県立高校の教師なので、別居するか、仕事を辞めてもらわなければならない。自分がやっていた陸上競技部顧問(監督)を誰にやってもらうかという問題もあった。
酒井に相談された妻は「やりたいなら、どうぞ。私はあなたについていく」と回答した。陸上競技部の顧問は、滋賀大大学院に通っていた松田和宏(中大OB)にやってもらえることになった。2つの問題がクリアされたため、酒井はこの話を受諾した。

驚いたのは柏原である。高校時代に同じ大会でタイムを競った酒井が監督として目の前に現れたからだ。
柏原が通ったいわき総合高の陸上競技部顧問は佐藤修一である。佐藤は田村高から順大に進学し、中距離の選手として活躍した。4年のときは全日本インカレ男子800mで2位になった。酒井と同じ1976年度生まれなので、2人は高校時代から知り合いだった。それぞれが教師になった後も、大会で顔を合わせれば会話する関係だった。
柏原は高校時代、酒井を「先生」と呼んでいた。他校の教師ではあるが、恩師の佐藤と親しかったからだ。その酒井が東洋大の監督になったので、大学では「監督」と呼ばなければならなくなった。しかし、柏原は高校時代の習性が抜けず、ときおり酒井を「先生」と呼んだ。

柏原は翌2010年1月の箱根駅伝も5区を走り、6人抜きを演じた。タイムは1時間17分08秒で、自身の持つ区間記録を10秒更新した。東洋大は2年連続で往路優勝。復路もリードを守って2年連続で総合優勝を果たした。柏原は、前年に続いて金栗四三杯を受賞した。
翌2011年1月の箱根駅伝も5区を走った。2人を抜いてトップに立ち、東洋大を3年連続で往路優勝に導いた。タイムは1時間17分53秒で、自身が持つ区間記録に45秒及ばなかった。東洋大は復路で早稲田大に逆転を許し、3年連続の総合優勝はならなかった。

翌2012年1月の箱根駅伝も5区を走った。初めてトップで襷を受け取り、2位以下との差を拡大してゴールに飛び込んだ。タイムは1時16分39秒で、自身が2011年につくった区間記録を29秒更新。東洋大は4年連続で往路優勝を果たした。復路もリードを守って2年ぶり3回目の総合優勝を達成。2位の早稲田大に5分7秒差をつける完勝だった。区間記録を更新した柏原は、3回目の金栗四三杯を受賞した。

【文と写真】角田保弘