フリーアナウンサーの唐橋ユミ(43)が、中年男性とのデート現場を『週刊ポスト』(小学館)に激写された。お相手は映画監督・脚本家の成瀬活雄(55)だ。2人は10月7日の午後6時ごろ、東京・渋谷の人混みを仲睦まじく歩いていたという。
唐橋はTBS系『サンデーモーニング』などに出演している。張本勲(野球評論家)と共にスポーツコーナーを担当している眼鏡っ娘だ。一方の成瀬は1997年に映画『不機嫌な果実』で監督デビュー。テレビでは『夢で逢いましょう』『嫌われ松子の一生』『小さな巨人』(いずれもTBS)の脚本を担当した。

2人はどこで知り合ったのか。真相は分からないが、共に城西国際大学で教員を務めていた時期がある。唐橋は非常勤講師、成瀬は准教授。その仕事を通じて、知り合った可能性もある。2人は 2017年12月に唐橋のマンションで同棲生活を始めたという。
気になるのは、成瀬に結婚歴があることだ。妻は漫画家の水沢めぐみで、2人の間に2女がいる。成瀬が離婚していなければ、唐橋との関係は不倫となる。離婚したかどうかは諸説ある。

『週刊ポスト』と唐橋は縁が深い。唐橋は同誌2011年9月16・23日号の表紙とグラビアを飾った。これが好評だったため、アンコールに応えて同年12月2日号の表紙も飾った。
同誌は、記事でも唐橋を何度か取り上げた。「唐橋ユミは巨乳」とネットで話題になっていた2011年4月30日、本人がツイッターで「私は巨乳ではありません。申し訳ありません。着る服によってそう見えてしまったのでしょうか」などとつぶやいた。これを受けて、同誌は「唐橋ユミの『巨乳騒動』に実父『あれで巨乳の部類?』」(同年5月20日号)という記事を載せた。実父とは、喜多方市の「ほまれ酒造」で社長を務める唐橋幸市郎(現在は会長。会津喜多方商工会議所会頭も兼務)だ。

同誌が載せた唐橋の記事は他にもある。「唐橋ユミ スコアが悪いと自分の世界に入るゴルファーが苦手」(2011年11月18日号)、「福島県出身・唐橋ユミ『世は無常』と自分を納得させる日々」(2012年3月9日号)、「唐橋ユミ 福島風評被害乗り越え実家の日本酒が世界一を獲得」(2015年8月14日号)、「元関脇・琴錦と唐橋ユミのBS番組で相撲がもっと楽しくなる」(2017年12月8日号)など。同誌はこの数年間、唐橋を記事のネタとして着目していたのだ。
そのハイライトが、今回の「唐橋ユミに初ロマンス発覚 メガネを外してデートする相手は?」(2018年10月26日号)だ。本誌(紙媒体)に載ったのはモノクロ写真だったが、ネット版に載ったのはカラー写真。唐橋は眼鏡なしの素顔、成瀬は短パン(バーミューダパンツ)姿だった。人混みでこの写真を撮るのは技術と時間がいる。同誌は、2人が交際しているという情報を入手し、ずっと追いかけていたのだろう。

唐橋は1974年10月22日生まれ。実家は前述したほまれ酒造だ。男女女の3人きょうだいの真ん中。兄の裕幸はほまれ酒造社長、妹の宙子はシンガー・ソングライターとして活動している。
唐橋は会津女子(現・葵)高校から実践女子大学に進学。高校時代はスキー部、大学時代はチアリーディング部に所属していた。大学卒業後の約1年間は定職に就かず、映画館のもぎり、ホテルの配膳、巫女などのバイトで収入を得た。

アナウンサーを志したのは、櫻井よしこ(ジャーナリスト)の講演会に聴衆として出席したことがきっかけだった。薬害エイズという複雑な問題を分かりやすく解説する櫻井の話を聞き、自分も人前で話をする仕事がしたいと思ったのだ。すでに大学を卒業していたが、高橋圭三が主宰する「圭三塾」に入り、アナウンサーになるための勉強を始めた。
それから約9カ月後、喜多方市に住む母・美紀子から「テレビユー福島がアナウンサーを募集している。受けてみたら?」と連絡があった。唐橋は中途採用の試験を受けて、難関を突破。1999年に契約アナウンサーとして入社した。

テレビユー福島は1983年12月に開局した。TBS系列で、本社スタジオは福島市にある。県内では最後発のテレビ局なので、先発の福島テレビに比べると経営規模が小さい。社員数も少ないため、1人ひとりの役割が幅広く、唐橋は取材先のアポとりから原稿書きまでこなした。
入社当初は午前の情報番組『まるとく』、途中から夕方の報道番組『ニュースの森ふくしま』を担当した。全社挙げて中継する11月の「ふくしま駅伝」では、中継所のたすき渡しを実況した。

ブログの冒頭に載せたのは、2000年秋に撮影した写真だ。福島市佐原の四季の里で開催された「福島コメ王国」(JA全農福島主催)のワンシーン。ステージに登場したのは、写真左から太田みどり(テレビユー福島アナウンサー)、唐橋ユミ(同)、阿部和加子(フリーアナウンサー)、佐藤加奈(ふくしまFMアナウンサー)、小林まどか(同)の5人。テレビユー福島とふくしまFMのアナウンサーが2人1組になって料理対決をするという企画だった。
テレビユー福島の2人はコック姿、ふくしまFMの2人はアディダスのTシャツ姿だった。阿部はイベント全体のMCを担当。阿部はその後、テレビユー福島の特番で照英と知り合い、結婚した(本ブログ2017年7月30日付参照)。

唐橋は2004年3月、契約満了に伴いテレビユー福島を退社した。その後は上京し、関口宏が会長を務めるタレント事務所「三桂」に所属。同年10月から『サンデーモーニング』に出演するようになった。2007年に番組で眼鏡をかけるようになり、それ以降はその姿がアイデンティティーになった。
もともと視力が悪く、番組ではコンタクトレンズをつけていた。打ち合わせの場では眼鏡をかけていたが、あるとき、それを見た関口が「番組でも眼鏡をかけてみたら」とアドバイスした。眼鏡の女子アナウンサーはほぼ皆無なので、唐橋は半ば冗談だと受け止めた。改めて確認すると、関口は「眼鏡姿でいいじゃないか」と回答した。
眼鏡をかけて番組に出演すると、大きな反響を呼んだ。それまでは視聴者に「サンデーモーニングに出演している人」と見られていたが、そのうち「眼鏡をかけている人」となり、さらに「唐橋ユミさん」と名前を覚えてもらえるようになった。眼鏡をかけたことで、唐橋は匿名の存在から脱することができたのだ。

唐橋のもう1つのアイデンティティーは会津弁だ。これも関口のアドバイスが発端だった。時期は2007年。福島県立水族館「アクアマリンふくしま」(いわき市)の研究チームがインドネシアでシーラカンスの生態撮影に成功した。『サンデーモーニング』はこの話題を取り上げ、映像を放送。そのとき、関口が「唐橋君は福島出身なんだから、福島弁で原稿を読んでみて」と求めた。
唐橋は嫌々ながらという顔をしながら、会津弁で原稿を読んだ。すると、スタジオの共演者は笑顔を見せ、「方言はいいね」と言った。2ちゃんねるの実況板は「ユミタソ萌え🖤」「ユミタソの方言にビックリ( ゚Д゚)」という書き込みが相次ぎ、1スレがあっという間に消費された。

これに気を良くした唐橋は、自分から会津弁を披露するようになった。2009年1月の全国都道府県対抗男子駅伝競走で福島県が5位入賞したときは、笑顔で会津弁を連発。同年8月の世界陸上ベルリン大会男子マラソンで佐藤敦之(会津若松市出身)が6位入賞したときは、半泣きで会津弁を口にした。2008年北京五輪男子マラソンで最下位だった佐藤が復活したからだ。
眼鏡と会津弁は、唐橋の2大武器だ。女子アナに眼鏡、アナウンサーに方言。このギャップが唐橋の人気を高めた。これらがなかったら、唐橋はよく居るお嬢さん的なアナウンサーの域を出なかった。その潜在能力を引き出した関口のマネジメント能力はさすがと言わなければならない。

被災地の福島県は2011年以降、東京で定期的に復興イベントを開催している。県内出身で、東京でも顔と名前が知られている唐橋は、その司会を任されることが多い。県内のイベントにも司会やゲストとしてよく招かれる。今年9月は、5日の葵高校創立110周年記念式典(会津若松市)で講師、17日の西田敏行福島県県民栄誉賞表彰式(郡山市)で司会をそれぞれ務めた。
その直後に成瀬との交際が発覚し、唐橋は事務所を通じて「チャンスを逃すのはまずい年頃なので、そっと見守ってください!」というコメントを出す事態になった。
交際はいいとしても、成瀬は果たして水沢と離婚したのか。これがはっきりしないと、福島県は唐橋に仕事を頼みづらくなる。仕事を頼んで、あとで不倫だと分かったら、「福島県は不倫を推奨しているのか」と突っ込まれるからだ。このままでは、唐橋が宙ぶらりんになり、仕事が少なくなる。その責任は成瀬にあるので、自らの「立場」を早く明確にすべきだ。

【文と写真】角田保弘


任期満了に伴う福島県知事選は10月11日に告示され、現職と新人の計4人が立候補した。現職は内堀雅雄(54)、新人は金山屯(78)、高橋翔(30)、町田和史(42)の3人だ。4人とも福島市で第一声を上げ、17日間の選挙戦に突入した。
投開票は28日に行われる。投票所は1256カ所で、開設時間は午前7時から午後8時まで(午後5、6、7時の投票所もあるので要注意)。報道各社は、投票が締め切られた午後8時の時点で内堀に当確を出すだろう。気になるのは投票率で、過去最低だった2010年の42.42%を上回るかどうかが焦点になる。

内堀は、佐藤雄平前知事(元民主党参院議員)の下で副知事を務めた。佐藤が2014年の知事選に立候補しない意向を示したため、その後継者として立候補を表明。民主党県連が支持を打ち出した。
一方、自民党県連は元日銀福島支店長の鉢村健を擁立しようとしたが、内堀に勝てる可能性が低いため、党本部がストップをかけた。自民党県連は鉢村の擁立を断念し、内堀に相乗り。これで大勢は決した。内堀は、元宮古市長の熊坂義裕ら5人に大差をつけて初当選した。

内堀は県民の支持率が高い。福島民報社と福島テレビの共同世論調査では、ずっと80%前後をキープしている。直近の調査では過去最高の83.6%を記録した(民報10月1日付)。これでは誰が立候補しても勝てないし、すでに首長や議員の座にある者は立候補する気にならないだろう。
あらゆる選挙で最も強いのは、2期目を狙う知事だ。1期目に大した実績を残さなかったとしても、有権者は「しばらく様子を見よう」と大目に見てくれる。「現職を交代させよう」という声はなかなか出てこない。4期5期になると多選批判が出てくるが、2期目は多選に該当しない。

もちろん、2期目を狙った知事が落選した例もある。2000年以降の18年間に限定すると、全国で3例ある。2003年の山梨県知事選(山本栄彦が落選)、2004年の栃木県知事選(福田昭夫が落選)、2009年の山形県知事選(斎藤弘が落選)だ。
この3人には共通点がある。最初の知事選は下馬評を覆して当選。次点とは僅差。県議会に敵が多く、その対策に苦心。4年後に落選というパターンだ。内堀は最初の選挙で次点に大差をつけたので、このパターンに当てはまらない。

内堀の支持率が高いため、対立候補は告示の1カ月前になっても現れなかった。共産党系の市民団体「みんなで新しい県政をつくる会」は独自候補の擁立を明言していたが、具体的な名前が出て来なかった。
その状況で、9月21日に金山が立候補を表明した。過去に白河市長選、西郷村長選、泉崎村長選、県議選(白河市・西白河郡選挙区)に立候補したことがあるので、県南地方では知名度がそこそこ高い(結果はいずれも落選)。対立候補が現れたことにより、内堀の無投票当選という拍子抜けする事態は回避される見通しになった。

続いて、10月1日に町田が立候補を表明した。共産党県委員長で、対立候補の擁立に動いた人物だ。最初は共産党色の薄い人を擁立しようとしたが、ことごとく断られた。独自候補を擁立しなければ、結果として内堀の再選を許容したことになる。このため、自分が責任をとって立候補することになった。
そして最後、告示前日の10月10日に高橋が立候補を表明した。8日に福島県文化センターで行われた公開討論会(日本青年会議所東北地区福島ブロック協議会主催)に参加。立候補の正式な表明は、その後になった。

内堀に対しては、共産党以外の各政党が支持を表明した。ただ、内堀は政党の推薦を受けず、「県民党」の立場で選挙戦に臨んでいる。福島市の街なか広場で行われた第一声では、与党代表として根本匠厚生労働大臣(福島2区)、野党代表として玄葉光一郎元外務大臣(福島3区)がそれぞれマイクを握り、内堀を激励した。県外の大物は、基本的に呼ばないことにしている。県外の大物を呼ぶと、「県民党」にならないからだ。
町田は、共産党の推薦を受けた。中合百貨店前で行われた第一声では、岩渕友参院議員(比例区)や宮本しづえ県議が応援のマイクを握った。
金山と高橋の2人は、政党組織とは無縁の存在だ。金山はJR福島駅東口、高橋は県庁前で第一声を上げた。福島県知事選は今回も含めて21回行われているが、78歳の金山は過去最年長、30歳の高橋は過去最年少の候補だ(従来の最年長は1984年の松平勇雄77歳、従来の最年少は2014年の五十嵐義隆36歳)。2人はこの年で供託金300万円を用意したことになる。

4人はいずれも県外出身者だ。これは福島県知事選では初めてのパターン。過去20回は、少なくとも1人は県内出身者が立候補した。
内堀は長野県出身。旧自治省に入り、2001年に福島県に出向した。そのまま福島県に勤務し続け、前述したように佐藤雄平の下で副知事を務めた。福島県に来たのは自分の意思ではなく、仕事の都合である。
総務省(旧自治省)出身の副知事というと、松平勇雄知事時代の友田昇(福岡県出身)、佐藤栄佐久知事時代の川手晃(神奈川県出身)が思い浮かぶ。友田は知事の椅子に意欲を見せたが、なれなかった。川手はその気があるようには見えなかった。
内堀は副知事在任中に震災・原発事故が起き、県政が混乱。その対応に当たり、存在感を強めた。佐藤雄平が2期で引退を表明したため、後継者として浮上した。震災・原発事故がなければ、佐藤雄平の引退はなかったので、2014年の知事選に立候補することはなかっただろう。

金山は東京都出身。神奈川県で住宅設備会社を経営していたが、佐藤栄佐久知事が提唱した首都機能移転に共鳴し、福島県に関心を持つようになった。国会等移転審議会が1999年に「栃木・福島地域」を移転候補地の1つに選出したため、2003年に白河市へ移住した。塙町の小学校で職員として1年働き、その後は白河市で子ども向けの乗馬学校を経営。青山学院大学時代は馬術部に所属していた。
高橋は東京都出身。都立多摩工業高校卒業後は都内の電気設備会社で働き、修行を積んだ。2014年に妻の実家がある郡山市に移住し、電気設備会社とIT会社を立ち上げた。仕事で葛尾村と縁ができたので、住民票は同村に置いている。
町田は埼玉県出身。福島大学行政社会学部への進学を機に福島市に移住した。3年生のときに共産党に入党。卒業後は赤旗記者になり、福島県内を担当した。2000年に共産党専従となり、今年2月に県委員会のトップに選出された。

県外出身者が知事選に立候補するようになったのは、原発事故で福島県知事の注目度が高まったからだろうか。2014年の知事選も候補者6中3人が県外出身者だった。県外出身者が表舞台に出るようになったのは、福島県が開けてきた証拠である。
候補者のポスター掲示板は、4人分の枠が用意されていた。県選管は候補者が2~3人になると睨んでいたのだ。ふたを開けてみれば、枠の上限である4人が立候補。5人が立候補していたら、ポスターを張る枠がなくなっていた。県選管の職員は「危なかった! 立候補する気があるなら、もっと早く表明してくれよ!」と思っているのではないか。

【文と写真】角田保弘







△岐路に立たされた岩村明憲監督

BCリーグの「福島ホープス」を運営する福島県民球団(郡山市)の経営難が深刻になっている。球団代表も兼ねる岩村明憲監督によれば、扇谷富幸球団社長と半年も連絡がとれない状態だという。このため、内部の人間も球団経営がどうなっているのか分からず、途方に暮れている。チームは宙に浮いた形になっており、来季のリーグ戦に参戦できるかどうかは微妙な情勢だ。

扇谷は富山県出身。2000年3月に金沢科学技術専門学校を卒業し、中古車販売の会社に就職した。その会社の郡山店の経営を任されたため、郡山市へ転居。同市で仕事をしているうちに「ここは関東、東北、北陸の接点にあたる」と気づいた。扇谷は「交通の要衝なので、商売に向いている土地柄」とひらめき、勤務していた会社を辞めて独立した。
2000年12月に扇を設立し、郡山市で中古車販売店を始めた。これを皮切りに盛岡市、仙台市、水戸市、宇都宮市、春日部市、新潟市、富山市、高松市、沖縄県に進出。富山市ではペットショップ、沖縄県ではビジネスホテルの経営も始めた。扇の経営は軌道に乗り、十数年後に年商20億円の会社に成長した。この間、扇谷は郡山市の女性と結婚し、子どももできたため、同市で暮らし続けた。

△音信不通になった扇谷富幸球団社長

扇谷は2013年12月に帰省した際、旧知の味方健二郎富山サンダーバーズ球団代表に会った。そのとき味方に「福島県に球団を設立して、BCリーグに参戦しないか」と持ちかけられた。BCリーグは2015年に武蔵ヒートベアーズが参戦し、7球団になることがほぼ決まっていた。奇数ではリーグ戦の日程が組みづらいので、できれば8球団にしたいという思惑があった。そこで、福島県を拠点にして事業展開する扇谷に球団設立を働きかけたのだ。
扇谷は野球に対する関心が低く、選手経験はもちろん、観戦経験もほとんどなかった。富山県出身なのでBCリーグの名前は知っていたが、生活の拠点は郡山市なので身近に感じたことはなかった。
ただ、当時は楽天が日本一になった直後だったので、「スポーツは地域を元気にする力がある」という実感があった。同時に「福島県に球団を設立し、BCリーグに参戦すれば、震災・原発事故に遭った県民を元気づけられる」と思った。味方にサンダーバーズの決算書を見せてもらい、事業として成り立つかどうかを検討。その結果、「やれる」と判断し、球団設立に動き出した。

△BCリーグの村山哲二代表(右端)

BCリーグは、柏崎市出身の村山哲二代表が中心となって発足させた。四国アイランドリーグに次ぐ国内2番目の独立リーグ。2007年に新潟、富山、石川、長野(信濃)の4球団でスタートした。当時の名称は「北信越BCリーグ」。村山はリーグを統括するジャパンベースボールマーケティングの社長を兼ねている。
村山は柏崎高校で硬式野球部、駒沢大学で準硬式野球部に所属した。就職した新潟BMWでは「日本一BMWを売る男」と呼ばれた。セールスマンとしては「やり切った」という満足感を得たので、電通東日本に転職。同社ではサッカークラブ「アルビレックス新潟」の営業を担当し、池田弘NSGグループ代表(アルビレックス新潟会長)と知り合った。

池田はプロ野球再編騒動が起きた2004年秋、「新潟市に新球団を設立して球界(NPB)に参入する」という構想を発表した。しかし、仙台市を本拠地にする楽天の球界参入が決まったため、その可能性はなくなった。NPBはサッカーと違って、昇格制度がない閉ざされた世界だ。このため、池田はNPBとは別の形で野球ビジネスに関わることを模索した。
池田は、村山に「野球の新しいビジネスモデル案をつくってほしい」と依頼した。これを受けて、村山は、①クラブチームを設立する②新球団を設立し、NPBに参入する③新しいリーグを発足させる-の3案を作成した。

△BCリーグのスポンサー(2015年)

①は、萩本欽一が設立した茨城ゴールデンゴールズをイメージしていた。チーム自体を設立するのは簡単だが、地域的な盛り上げを図るのは難しいと思った。
②は、既存のビジネスモデルである。池田が言う「新しいビジネスモデル」にはならないと思った。
③は、四国ですでに行われていた。石毛宏典元オリックス監督が発足させた四国アイランドリーグだ。現地を視察すると、選手の技量は高かったが、スタンドはガラガラだった。村山は「これと同じ形のリーグを北信越で発足させれば、ビジネスとして成立するのではないか」と考え、池田に③を提示した。

すると、池田は「君がやらないか」と言った。村山は「ビジネスモデル案を作成するのが自分の仕事。実際にやるのは池田会長」と受けとめていたので、驚いた。電通東日本社員のまま独立リーグを発足させるのは不可能なので、この案を実現するためには会社を辞めなければならない。それは電通東日本という安定した身分を捨てるという意味だ。
村山は悩んだ末、電通東日本を辞めた。「このビジネスモデル案を自分以外の誰かがやって成功したら、死ぬまで後悔する」と思ったからだ。マイクロソフトやDeNAの社員だった実兄・賢一郎の「こんなチャンスは2度とない。ぜひやるべきだ」というアドバイスも背中を押した。賢一郎はその後、DeNAを退社し、ジャパンベースボールマーケティングに入社した。

△試合を盛り上げるチアリーダー

BCリーグは、前述したように4球団でスタートした。2008年に福井、群馬の2球団が加わり、6球団へ。関東の群馬が加わったため、北信越の3文字を外して「BCリーグ」と改称した。
村山は2007年7月、福島県庁を訪問し、内堀雅雄副知事(現知事)にリーグの概要を説明した。翌8月に福島市で講演会を開き、「福島県に球団を設立したい」と語った。同年末に青年会議所関係者が球団設立に意欲を示したが、話だけで終わった。村山も積極的に働きかけることはなく、話はそれっきりになった。

BCリーグが福島県内での活動を再開したのは、震災・原発事故があった2011年のことである。9月に県営あづま球場(福島市)で復興支援の交流戦を開催。カードは「福島県社会人野球県北選抜対プロ野球OB・BCリーグ選抜」だった。プロ野球OBは桑田真澄、今久留主成幸、大塚光二、立浪和義、仁志敏久、野々垣武志の6人。試合は4-1でプロ野球OB ・BCリーグ選抜が県北選抜を破った。
こうした活動が実を結び、富山県出身の扇谷が球団設立に動いた。震災・原発事故が歯車を回すきっかけになった。バスケットボールのBリーグ「福島ファイヤーボンズ」も、同じような経緯で設立された。震災・原発事故は、結果として福島県のスポーツ界を活性化させることにつながった。

△グッズに群がる野球少年たち

扇谷は2014年5月に県民球団設立推進準備室を開設し、賛同者を募集した。6月に長岡市で開かれた各球団代表者会議でリーグ加盟が承認され、体制づくりが本格化。7月にチーム名とロゴ、それにキビタキ(福島県の鳥)をモチーフした「キーボー」「ノゾミン」という2タイプのマスコットを発表した。8月にチームの経営母体となる福島県民球団を資本金6120万円で設立。社長は扇谷、副社長は脇山智彦(いわき市・人形の東月社長)となった。チームづくりの要となるGMは、元プロ野球選手の小野剛が就いた。
小野は、巨人や西武で投手としてプレーした。選手引退後は実業家に転身し、芦牧ホテル(会津若松市)の経営に乗り出した。福島県に縁のある元プロ野球選手ということで、GMを依頼された。小野はこれを快諾し、監督の人選に入った。

△地元開幕戦は県営あづま球場で

最初は巨人時代の先輩だった工藤公康に就任を打診した。工藤は芦牧ホテルに家族で宿泊するほどの仲。工藤も前向きな姿勢を見せていたが、その直後にソフトバンク監督の話が浮上したため、見送りになった。引き続き何人かに声をかけたが、NPB球団コーチ就任などを理由に断られた。
そのタイミングで、岩村がヤクルトを退団するという話が飛び込んできた。小野と岩村は同じ1978年度生まれ。小野は岩村に面会を求め、「福島の復興に力を貸してほしい」と口説いた。岩村はBCリーグに対する知識が皆無だったが、「復興」という言葉に引っ掛かった。

△ノゾミン(手前)とキーボー(奥)

岩村はヤクルトで活躍し、その実績を引っ提げて大リーグに移籍した。2011年に帰国し、楽天に入団。2012年まで在籍したが、目立った成績を残すことはできなかった。2013~2014年の2年間はヤクルトでプレー。2013年は古巣の楽天が日本一になり、元チームメイトが歓喜する姿をテレビで目にした。そのとき「自分は被災地のために何もできなかった」と自責の念がわいてきた。
それが頭にあったので、岩村は小野の話を聞いているうちに、福島の復興に協力したいという気持ちが強くなった。監督就任を受諾し、11月に福島県庁で記者会見を開いた。大リーグでもプレーした岩村が被災地の球団の顔になるというのは、それだけで話題性がある。会見には県内だけでなく、東京のマスコミも取材に訪れた。

【文と写真】角田保弘