郡山市は今年5月、市の施設に命名権を導入する方針を打ち出した。その収入を市の財源とし、当該施設の維持管理費や運営費などに充てるためだ。2016年度は開成山野球場、中央公民館、八山田こども公園、郡山市カルチャーパークの4施設が対象になり、8月1日に募集を始めた。
開成山野球場については、9月15日の締め切りまでに4社から応募があった。市は応募金額や理由、社会貢献実績、今後の計画、愛称の妥当性などを総合的に審査し、ヨークベニマルを選出した。
愛称は「ヨーク開成山スタジアム」になる。契約期間は、2017年2月から2022年3月末までの5年2カ月。年額510万円で、総額2635万円になる。11月下旬に郡山市とベニマルが契約を締結する。他の3施設については応募がなく、2017年度の再募集を検討する。10月25日に品川萬里市長が発表した。

ベニマルは郡山市に本社を置く食品スーパーだ。2016年10月の時点で福島、宮城、山形、栃木、茨城の5県に計209店を構えている。内訳は福島県が74店、宮城県が56店、山形県が18店、栃木県が27店、茨城県が34店。大高善雄が創業し、長男の善兵衛、次男の善二郎、三男の善興が順番に社長を受け継いできた。2015年に創業家以外では初となる真船幸夫が社長に就任。善興は会長になった。もともとは独立した企業だったが、2006年にセブン&アイ・ホールディングスの完全子会社となり、上場を廃止した。2015年度の売り上げは4062億2300万円となっている。
ベニマルは、かつて野球部を運営していた。安積高校野球部のマネージャーだった善兵衛が創設したもので、都市対抗野球に8回出場し、1987年と1994年にベスト8に進出した。田村隆寿、先崎史雄、宗像忠典といった高校野球の名指導者たちは、大学卒業後にベニマル野球部に所属していた。平松省二、村上真哉の2人をプロ野球界(いずれも日本ハム)に送り出した実績もある。社長が善二郎に交代して廃部になったが、福島県の野球ファンに強烈な印象を残した。

ベニマルが開成山野球場の命名権を購入したのは、そうした経緯を踏まえてのことである。地域貢献の意味もある。プロ野球の本拠地球場なら命名権に億単位の値段がつくが、地方球場はそういうわけにはいかない。仮に応募する企業がなかったら、郡山市が恥をかくことになる。そこで、地元の有力企業であるベニマルが率先して手を挙げたのだ。
福島県内で命名権を導入した施設は、他にもある。県営あづま陸上競技場(福島市)と福島県文化センター(同)は東邦銀行が命名権を購入し、それぞれ「とうほう・みんなのスタジアム」「とうほう・みんなの文化センター」となった。楢葉町総合グラウンド(野球場)は相双リテックが命名権を購入し、「SOSO.Rならはスタジアム」となった。相双リテックは、10月20日のドラフトでヤクルトに6位指名された菊沢竜佑が所属している。

開成山野球場は、JR郡山駅から西に約1・8㌔㍍の位置にある。東北の主要球場で市街地に立地しているのは、開成山野球場とkoboスタジアム宮城(仙台市)だけだ。戦後間もない1952(昭和27)年に開場し、増改築が図られてきた。1970~1980年代は巨人のみちのくシリーズの会場になっていたが、1991年以降はプロ1軍の試合が開催されなくなった。施設が老朽化したためで、代わりに地元経済界(幸楽苑)が楽天2軍の試合を誘致した時期もある。2009年に大規模な改修が行われ、2010年以降は再びプロ1軍の試合が開催されるようになった。
改修後は左翼100.7㍍、右翼101㍍、中堅122㍍という規模になった。スコアボードは全面フルカラーLED方式。地方球場でこれだけの設備は珍しい。収容人員は公称1万8200人だが、実際は1万5000人が限度だ。過去最多の入場者数は1万4598人(2013年8月6日の横浜DeNA対巨人)。BCリーグの福島ホープスが本拠地の1つと位置づけている。

命名権の導入に伴い、2017年シーズンは前述したように「ヨーク開成山スタジアム」となる。これでは長いので、「ヨースタ」「Yスタ」などと略称で呼ばれる可能性が高い。
話は変わるが、ベニマルは地域によって呼び方が異なる。古くから出店している福島県の新幹線沿線では、主に「ベニマル」と呼ばれている。それ以外の地域では、主に「ヨーク」と呼ばれている。栃木県では「ヨーベニ」とも呼ばれている。同じ地域でも、年代によって呼び方が異なったりする。ベニマルの社員は「YB」と呼ぶ。
ベニマルは1947年、紅丸商店として設立された。紅丸は日の丸(赤丸)の一つ手前という意味だ。1963年に紅丸商事と改称。1973年にイトーヨーカ堂と業務提携し、ヨークベニマルとなった。「yokado」と「benimaru」を組み合わせたのだ。ただ、英語で書くときは「yorkbenimaru」となる。oとkの間にrが入るのだ。

方言の研究をしている半沢康・福島大学教授は、「ヨークベニマルが各地域でどのように呼ばれているか」を調査している。結果については、読売新聞福島版2006年8月26日付で次のように述べている。
《図は東北本線・阿武隈急行線の駅周辺地域で生まれ育った各年代の方を対象に、ヨークベニマルというスーパーの呼び方を調査した結果です。福島県側でベニマル,宮城県側ではヨークという略称が一般的であることがお分かりいただけるでしょう。前身のベニマル時代からお店があった福島県ではベニマルがそのまま使われ、ヨークベニマルになってから出店された宮城県ではヨークという略称が広まったようです。ただし宮城県のヨークが福島県北部から徐々に県内に広がってきているので,いずれは福島県でもヨークという名称が一般化するかもしれません》
半沢は、ラジオ福島「朝から全開」に出演する機会が多い。この番組では「矢祭町の高齢者はヨークベニマルを『ハドメ』と呼んでいる」と語った。ハトはベニマルのマーク。メは動物や昆虫の呼称。その2つの言葉がドッキングし、トがドになったと考えられる。念のために言えば、矢祭町にベニマルはない。最も近いのは棚倉店だが、それでも矢祭町の中心部から約20㌔㍍離れている。往復約40㌔㍍だから、クルマのない高齢者は簡単に行ける店ではない。

「ヨーク」と言えば、首都圏の人はヨークマートを思い浮かべるのではないか。イトーヨーカ堂がベニマルに触発されて、1975年に設立した食品スーパーだ。現在は東京、神奈川、千葉、埼玉、群馬の5都県に計78店を構えている。内訳は東京都が10店、神奈川県が26店、千葉県が22店、埼玉県が19店、群馬県が1店。食品スーパーの運営についてはベニマルの方が上なので、ベニマルの小松正樹が長く副社長として出向していた。
ベニマルとヨークマートは、2010年に本部機能、組織、商品コードなどを統合した。本社機能をセブン&アイ・ホールディングス、本部機能をベニマルに持たせ、 ヨークマートは営業本部的な役割を担うことになった。両社ともハトをシンボルマークにしているが、配色が微妙に違う。ベニマルはハトの上部が緑、下部が赤になっている。ヨークマートはその逆で、上部が赤、下部が緑になっている。

開成山野球場では毎年1回、楽天が主催試合を行っている。巨人も数年に1度の頻度で主催試合を行っている。プロ野球の結果は全国ニュースで放送されるので、同球場が「ヨーク開成山スタジアム」になると、首都圏の人々もその愛称を耳にすることになる。中には「ヨークマートが開成山野球場の命名権を購入した」と勘違いする人がいるかもしれない。紛らわしいが、ベニマルとヨークマートは兄弟のような関係にあるので、特に支障はあるまい。
2020年の東京オリンピックでは、福島県内の球場で野球とソフトボールの試合が行われる見通しになった。1次リーグの日本戦各1試合が候補に上がっている。この試合をめぐって、福島、郡山、いわきの3市が「ぜひ、当市で!」と誘致を表明した。3市ともプロ野球規格の球場があるので、2013年のプロ野球オールスターゲームでも誘致合戦を展開した。このときはいわき市(いわきグリーンスタジアム)が選出されたが、東京オリンピックでは福島市(県営あづま球場)が選出されそうだ。新幹線が通っていること、収容人員が約2万人(公称3万人)であること、実況ブースが5つあることが大きい。

郡山市も新幹線が通っているが、開成山野球場の収容人員は前述したように約1万5000人と少ない。しかも、実況ブースが1つしかないので、テレビとラジオが同時に中継する試合に対応しづらい。6月7日の「楽天対ヤクルト」では、J SPORTS 2(CS放送)が実況ブースを使用し、東北放送(ラジオ)はテントで仮設の実況ブースを設営した。
国内の試合はそれでごまかせるとしても、オリンピックで同じことをやるのは見栄えが悪すぎる。「なぜ、大改修のときに実況ブースをもっと設置しなかったのか?」と首をかしげざるを得ない。開成山野球場は立地条件がいいものの、施設面では県営あづま球場に見劣りする。東京オリンピックの会場に選出される可能性はほぼゼロなので、「ヨーク開成山スタジアム」という愛称が世界デビューすることもあるまい。


【写真の説明】
・6月7日に開成山野球場で行われた楽天対ヤクルト
・ヨークベニマルの本社
・とうほう・みんなのスタジアム
・開成山野球場を本拠地の1つにする福島ホープス
・地域によって呼称が異なる「ヨークベニマル」
・半沢康教授が作成した一覧表
・ヨークマート下板橋店
・大規模な改修でスタンドが拡張された開成山野球場
・テントで実況ブースを設営した東北放送(右端は解説の岩村明憲監督)



海老沢泰久という作家をご存知だろうか。茨城県出身で、ノンフィクションとフィクションの両方で活躍した。野球とモータースポーツを題材にすることが多く、ノンフィクションの場合は事実を淡々と書き連ねるスタイルだった。文章は口語体的で、実際を「じっさい」、楽を「らく」、間を「あいだ」と表記するなど平仮名を多用した。
1988年にホンダF1(第1期~第2期前半)を取り上げたノンフィクション『F1地上の夢』(朝日新聞社)で新田次郎文学賞を受賞。1994年に短編集『帰郷』(文藝春秋)で第111回直木賞を受賞した。2009年に十二指腸癌で死去。59歳の若さだった。
海老沢の代表作に『ヴェテラン』(文藝春秋)がある。1992年9月25日に発刊されたもので、プロ野球選手6人の起伏に富んだ人生が描かれている。
△嫌われた男・西本聖(巨人、中日、オリックス、巨人)
△成功者・平野謙(中日、西武、ロッテ)
△指名打者・石嶺和彦(阪急・オリックス、阪神)
△十年の夢・牛島和彦(中日、ロッテ)
△ヴェテラン・古屋英夫(日本ハム、阪神)
△秋の憂鬱・高橋慶彦(広島、ロッテ、阪神)

西本は松山商高からドラフト外で巨人に入団。エリートの江川卓を過剰なほど意識し、試合では江川が負け投手になることを密かに願っていた。江川に勝つために、チームメイトの遊びの誘いを断ってまで練習に励んだ。そのうちチーム内で浮いた存在になり、中日にトレードされた。中日では主砲の落合博満が全体練習に参加せず、独自の練習をしていた。このため、西本がどんな練習をやろうと、周りはさほど関心を示さなかった。
平野は名古屋商大からドラフト外で中日に入団。レギュラーに定着すると、練習で手抜きをするようになった。先輩もそうしていたからだ。そのうち試合でも凡ミスをするようになり、監督・星野仙一の逆鱗に触れて西武にトレードされた。西武では心を入れ替え、バントという地味なプレーにも喜びを感じるようになった。2番打者に定着し、3番・秋山幸二、4番・清原和博につなぐ役目を果たした。
石嶺は豊見城高からドラフト2位で黄金期の阪急に入団。高校時代は捕手をしていたが、半月板を痛めた影響で守備が不得意になった。それゆえ「指名打者」として生きることを決意。しかし、南海・門田博光の加入によって指名打者に専念することが難しくなった。監督の上田利治は、門田の意向を優先。門田が指名打者のときは石嶺が外野の守備につき、門田が外野の守備につくときは石嶺が指名打者になった。このどっち付かずの起用法でリズムを崩し、成績が下降ぎみになった。

牛島は浪商高時代、ドカベン香川伸行とのコンビで人気者になった。ドラフト1位で中日に入団し、当初は客寄せパンダ的な使われ方をされた。速い球も鋭い変化球も投げられなかったが、打者との駆け引きで打ち取ることを覚えた。抑え投手として不動の地位を確立したが、落合博満との交換トレードでロッテに移籍した。トレードを通告したのは星野仙一だった。ロッテでも当初は抑え投手を務めていたが、先発に復帰して12勝を挙げたシーズンもあった。選手生活は故障との戦いでもだった。
古屋は、亜細亜大からドラフト2位で日本ハムに入団した。大学時代は三塁手だったが、監督の大沢啓二は遊撃手に転向させようと考えた。しかし、実際にやらせてみるとプロのレベルにほど遠く、断念せざるを得なかった。打撃がよかったので、三塁手として試合に出るようになり、新人ながらレギュラーとして定着した。しかし、30歳を超えて「ヴェテラン」と呼ばれる年代になると、今度は自分がポジションを奪われる立場になった。
高橋は城西高からドラフト3位で広島に入団した。高校時代はエースで4番打者だったが、プロでは打撃を生かすために内野手に転向した。当時は珍しかったスイッチヒッターとなるため、朝から深夜までバットを振った。その姿を見た先輩から変人扱いされることもあった。その練習量が実を結んで1番遊撃手に定着し、広島では数少ない全国区のスター選手になった。しかし、言いたいことを言うタイプだったので、球団幹部とたびたび対立した。それが原因で周りに敬遠され、選手としての晩年は寂しい野球人生を送った。

この本の中で異色だったのが、第2章の平野だ。他の5人の物語はややネガティブな印象を受けたが、平野は違った。「成功者」というタイトルからも想像がつくように、中日から西武へのトレードが野球選手としての成長につながった。6人の中で唯一、ハッピーエンドの物語だった。
となると、逆にこんな疑問がわく。1990年前後の西武は戦力が充実しており、毎年のように日本一になっていた。内外野には石毛宏典、辻発彦、秋山幸二、清原和博、伊東勤といった有力選手が揃っていた。平野はその西武に加入し、ライトのレギュラーポジションを獲得。センター秋山とのコンビは「鉄壁」と称された。そういう選手がなぜ、中日を出されたのか。その背景に何があったのか。海老沢が平野を取材対象に選んだのは、その謎を解明することが目的の1つだった。

平野は今シーズン、BCリーグ群馬ダイヤモンドペガサスの監督を務めた。背番号は野球を意味する「89」をつけた。61歳になったが、現役選手のようなスリムな体形を維持している。平野の手腕もあり、群馬は前後期とも東地区で優勝を飾った。
9月10日に県営あづま球場(福島市)で行われた福島ホープスとの試合。平野は試合前に自らノックし、選手の動きを確認した。試合開始前にホームベース付近で岩村明憲と顔を合わせ、笑顔を見せた。年齢は平野の方が24歳も上だが、相手も監督なので、敬意を払う態度をとった。試合は6-3で群馬が勝利。岩村は試合後のセレモニーで「1位(群馬)と2位(福島)に戦力差はなかったが、監督の手腕に差があった」と語った。

群馬は福島との東地区チャンピオンシップを勝ち抜き、リーグチャンピオンシップ(全5戦3戦先勝)に進出した。石川ミリオンスターズを3勝1敗で下し、3回目のリーグ優勝を決めた。さらに四国アイランドリーグplusとの日本独立リーグ・グランドチャンピオンシップ(同)に進出し、愛媛マンダリンパイレーツと対戦した。群馬は敵地で2連敗し、崖っぷちに立った状態で本拠地に戻った。そこから3連勝し、初めて独立リーグ日本一になった。
平野は、読売新聞10月24日付の「顔」で取り上げられた。群馬を率いて独立リーグ日本一になったことを紹介する記事だ。BCリーグは所帯が小さいため、監督がバッティングピッチャーなど裏方もこなさなければならないと書いてある。
西武黄金期のチームメイト(東尾修、工藤公康、渡辺久信、田辺徳雄、石毛、伊東、秋山、辻)がNPB球団の監督に就く中で、平野はNPB球団ではコーチ止まりだ。西武の生え抜き選手ではなかったというハンディもあるだろう。ならば独立リーグで実績を積み、それを背景にしてNPB球団の監督になるという道を切り開いてもらいたい。

正月の箱根駅伝は、国内で最も観戦者が多いスポーツ大会と言っていいだろう。コースは、東京・読売新聞社前―箱根・芦ノ湖間の往復217.1km。2016年の平均視聴率(関東地区)は2日(往路)が28.0%、3日(復路)が27.8%だった。2日間で計12時間に及ぶ中継の平均が、これだけ高いのだ。テレビ離れが進む現代においては、お化け番組と表現しても決してオーバーではない。
少子化の影響で、大学は全入時代に突入した。選ばなければ、誰でもどこかの大学に引っ掛かる。有名大学でさえ、ひと昔前に比べると、かなり入りやすくなった。新興大学や知名度が低い大学は、黙っていたら閉校に追い込まれかねない。学生を集めるためは、何らかの特徴が必要だ。その特徴づくりの一環として、関東では箱根駅伝出場を目指す大学が増えている。

箱根駅伝の主要な最多記録は、中央大学が独占している。優勝(14回)、連続優勝(6回)、出場回数(90回)、連続出場(87回)…。箱根駅伝に中大が出場しなかったのは、過去92回のうち第1回と第5回の2回だけ。第6回が行われた1925(大正14)年以降は、92年にわたって伝統の赤いタスキをつないできた(戦争中の1941~1942、1944~1946年は大会そのものが中止)。1955年に予選会制度が導入されたが、それでも中大が本戦出場を逃すことはなかった。
ただ、近年の中大は苦戦が続いていた。総合優勝したのは、榎木和貴(現トヨタ紡織監督)や松田和宏(現学法石川監督)がいた1996年が最後。2013年以降は総合順位が記録なし、15位、19位、15位と4年連続でシード権(10位以内)を逃している。
2013年は5区の野脇勇志が途中棄権し、29年ぶりにシード落ちとなった。同年の予選会は12位だったものの、90回の記念大会だったため、運よく本戦に出場できた(記念大会は出場枠が拡大される。通常は10位まで)。2015年は9区まで8位をキープしていたが、最終10区の多田要が大ブレーキを起こして区間最下位、中大の総合成績は下から2番目の19位となった。

この状況を受けて、学内やOBの間で「このままでは本戦に出場できなくなる」「陸上競技部の駅伝部門を抜本的に立て直すべきだ」という声が強まった。インターネットの掲示板には「浦田春生監督を解任しろ!」という書き込みが相次いだ。
浦田は中大OBで、卒業後は本田技研工業に入社した。1992年の日本選手権10000mで4位になり、バルセロナ五輪男子10000m日本代表に選出された。本田技研工業陸上競技部の監督も務めた。現役時代の実績は文句なしだが、学生スポーツの指導者としては厳しさが足りなかった面もある。
もちろん、浦田1人に責任があるわけではない。中大は、伝統的に選手(学生)の自主性を重んじてきた。指導者が練習メニューを作成し、選手に「あれをやれ」「これをやれ」と指示する形の練習をしてこなかった。従来はそれでも本戦に出場できたが、他校の競技力が向上したことで苦しくなった。「中央大学」の名前では有力な高校生が集まらなくなったことも、低迷に拍車をかけた。

今年3月に指導体制の見直しが図られた。監督にOBの藤原正和が就任し、浦田はスカウトを担当することになった。藤原は35歳で、直前まで現役選手だった。指導者としての経験はゼロだが、学生時代のリーダーシップなどを見込まれて、いきなり名門・中大の立て直しを任された。藤原は記者会見で「プレッシャーはあります」と言いながらも、「中大である以上、(箱根駅伝の連続出場は)死守しなければならない」と決意を表明した。
藤原は西脇工業から中大に進学。1~3年時は箱根駅伝の5区を担当し、区間順位はそれぞれ1位(区間賞)、2位、3位だった。4年時は、花の2区を走って区間賞を獲得した。卒業間際に第58回びわ湖毎日マラソンに出場し、日本人トップとなる3位入賞を果たした。タイムは2時間08分12秒で、佐藤敦之(早稲田大学)が持っていた日本学生最高記録2時間09分50秒を破った。
卒業後は本田技研工業に入社し、マラソンや駅伝で活躍した。世界選手権男子マラソン日本代表に3回選出(うち1回は欠場)されたものの、五輪には縁がなかった。リオデジャネイロ五輪男子マラソン日本代表の座を逃し、引退を決意。その直後、中大陸上競技部部長の野村修也(中大法科大学院教授)から監督就任を打診された。本田技研工業のコーチになることを考えていた藤原は、この話を聞いて驚いた。一方で「挑戦したい」という気持ちもあったので、監督就任を受諾した。

監督として母校に戻った藤原は、選手の生活態度がだらけていることに驚いた。藤原の学生時代は原付きバイクの所有が全面的に禁止されていたが、最近は3、4年生限定で認められていた。藤原は「我々は体を動かすことが基本。原付きバイクに乗るより、歩いたり、自転車に乗ったりする方がいい。何より交通事故が怖い」として、全面禁止にした。門限も厳しくした。昨年までは門限(午後10時)を設けない日が月4回あった。藤原は「競技者としては多すぎる」と判断し、これを月1回とした。
しかし、この程度の改革では選手の意識が改善されることはなかった。競技力は向上するどころか、後退した。6月に行われた全日本大学駅伝の関東学連選考会は、出場20校中17位に終わった。過去最低の順位である。神奈川大学と創価大学が終盤で棄権しなければ、19位になっていた。
この選考会には2015年の大会でシード権を獲得した6校は出場していないので、中大の順位はトータルでは25位だったという見方もできる。この順位を箱根駅伝に当てはめると、出場枠(20校)に届かないことになる。87回連続出場の記録が途切れてもおかしくない状況になったのだ。

危機感を抱いた藤原は、奇策を講じた。主将:新垣魁都(4年)、副主将:鈴木修平(同)、小池竣也(同)の3人を更迭し、主将:舟津彰馬(1年)、副主将:田母神一喜(同)としたのだ。2人の競技力が高いのは事実だが、上下関係が厳格な大学の運動部で1年生が主将・副主将を務められるのか。しかも、中距離(800m、1500m)が専門の田母神は「箱根駅伝(各区間20km前後)に出場する気はない」と公言している。話が唐突すぎるので、マスコミはその真意を探る記事を相次いで掲載した。
関東の大学陸上競技部(駅伝部門)で3年生が主将を務めたケースはある。小川博之(国士舘大学)、高橋謙介(順天堂大学)、高橋正仁(駒澤大学)、安西秀幸(同)、服部翔大(日本体育大学)、山口修平(創価大学)、森田清貴(上武大学)、鈴木健吾(神奈川大学)らである。ただ、1年生主将は前代未聞だ。
マスコミの取材に対して、藤原は次のようにコメントした。
「今の中大はチームを劇的に変える必要がある。4年生がダメというわけでないが、最も危機感を抱いているのが1年生。その中でチームを引っ張る力のある舟津に託した」
藤原が1年生を主将・副主将に起用したのは、常識的なことをやっていたのではチームを立て直せないと思ったからだ。それだけ事態は深刻ということになる。1年生がチームの牽引役になると、上級生はやる気をなくす恐れがある。そうしたマイナス面があったとしても、藤原は「やってみる価値はある」と判断したわけだ。

それから約4カ月―。第93回箱根駅伝の出場権を懸けた予選会は10月15日、陸上自衛隊立川駐屯地から国営昭和記念公園までの20kmコースで行われた。各校12人が出走し、上位10人の合計タイムで順位を決めるというルール。関東の50校が参加し、本戦出場枠の10位以内を目指した。
結果はどうなったか。中大は、10位の日本大学と44秒差の11位に終わり、本戦出場を逃した。連続出場記録は87回でストップ。藤原は「この道しかないという思いでやって来たが、結果につながらなかった。自分に指導経験があれば、もっといろんなやり方を試すことができたと思う。人間としての力が足りなかった。長い伝統を途切れさせてしまって申し訳ない」と謝罪した。
また、主将の重責を担った舟津は、応援団への報告で次のように言った。
「先輩方に迷惑をかけながらやってきて、先輩方からサポートもしていただいた。外部から『今年、大丈夫なのか』と多くの声をいただいた。でも自分たちは『やれる!』と思ってやってきました。もし先輩方に文句をいう方がいれば、自分が受けて立ちます。自分にぶつけてください。先輩方に文句をいう人がいれば自分は許しません! 自分たちはこの日のことを忘れることはありません。忘れるつもりもありません。これからも変わらぬ応援をよろしくお願いいたします」
舟津は7カ月前まで高校生だった。主将とはいえ、ルーキーであることに変わりはない。加えて、この年代の若者は1年ごとに大きく成長する。1年生からすると、4年生は大人に見える。4年生からすると、1年生は子どもに見える。そういう現実がありながら、藤原は1年生を主将に起用した。その判断は果たして、正しかったのか。

スポーツライターの生島淳は10月18日、東北放送ラジオ『ロジャー大葉のラジオな気分』に電話出演し、次のように語った。
「箱根駅伝の予選会を取材してきました。本戦出場を逃した中央大学の1年生キャプテンは『もし先輩方に文句をいう方がいれば、自分が受けて立ちます』と挨拶しました。その話を聞いて、ジーンとしました。一方で、『1年生にそこまで言わせるのは酷かな…』とも思いました。うちの娘と同じ年ですからね。部の改革のために1年生をキャプテンにしましたが、結果としてはこうなりました。人を育てるという意味もあるので、現時点ではその良し悪しを判断することはできません。いずれにせよ、来年の箱根駅伝では(中大の)Cのマークが見られないことになります」
中大の予選会落ちをめぐっては、張本勲(野球評論家)と野村修也(前出)のやり取りも話題になった。張本は、16日放送のTBS『サンデーモーニング』に出演し、「情報によると、ちょっと内紛もあるそうだから、よく考えて立て直した方がいい」として、渇を入れた。これに対して、野村はTwitterで「全くの事実無根です。精いっぱい頑張った選手と大学の名誉を著しく傷つけるもので到底看過できません。訂正と謝罪を強く求めます」と怒りを露にした。
張本の言う「内紛」が何を指しているのかは、はっきりしない。ただ、1年生が主将になれば、チーム内に波風が立たないわけがない。上級生…特に4年生の面目は丸潰れになるからだ。
読売新聞(10月16日付)によると、練習でチーム全体を引っ張ろうとする舟津に対して、当初は反発していた上級生もいたという。その情熱に周りがひきずられて次第にチーム内がまとまったらしいが、ある時点においては内紛らしきものはあったと推測できる。野村の「全くの事実無根」は言いすぎという感じがする。