
「ゴージャス松野」こと松野行秀は、沢田亜矢子との離婚騒動で国民的なヒールになった。本業は芸能事務所の社長。しかし、所属タレントでもある沢田に離反されたため、事務所の維持が困難になった。
仕事を失った松野は、喫茶店や運送会社の面接を受けたが、いずれも不合格だった。悪い意味で有名になった影響である。このままでは生活が行き詰まるため、松野はどうしたらいいものかと悩んだ。
そんなある日、家のポストに名刺が入っていた。「橘繁行」という名前が印刷してあった。過去にそういう人物と会った記憶はなかった。名刺の裏を見ると、「あなたの力になりたいので、連絡をください」と書いてあった。反射的に「怪しい」「詐欺かもしれない」と思ったが、とりあえず連絡をとってみた。
橘は、運輸大臣などを務めた小坂徳三郎の元秘書だった。小坂が政界を引退したあとは実業家に転身し、ゴルフ場の経営に乗り出した。松野とは面識がなかったが、テレビでその窮状を知り、力になりたいと思ったという。
松野が沢田と離婚裁判をしたのは、結婚生活に未練があったからではない。沢田が記者会見で「松野に暴力をふるわれた」と言ったからだ。松野は「そんなことをした覚えはない!」と怒り、無実を証明するために、裁判をやった。弁護士費用の130万円は、お金のない松野に代わって、橘が出した。
全国各地で人生相談を行ったのも、橘のアドバイスがあったからだ。松野が「仕事が見つからなくて…」と言うと、橘は「だったら、自分で商売をやればよい」と回答した。松野が「元手がありません」と言うと、橘は「机が1つあれば商売はできる」と回答した。机が1つあれば…という話がヒントになって、松野は人生相談を発案したのだ。
松野は「地獄を見た男! 沢田亜矢子の夫」というのぼりを掲げて、路上に相談所を開設した。文字通り机1つで出来る商売だった。相談料は1回2000円。悪名も無名にまさるというべきか、1日5~6人の客がついた。その様子が写真週刊誌『フォーカス』で取り上げられたため、相談所も有名になった。
松野は沢田との離婚後、弁護士をなりたいと思うようになった。自分の裁判を担当してくれた弁護士の仕事ぶりに感銘を受けたからだ。その弁護士は東大卒で、裁判官の経験もあった。松野はすでに40歳になっていたが、通信教育で司法試験の勉強を始めた。2002年に早稲田大学の試験会場で実際に試験を受けたが、結果は不合格だった。当時は「合格するまで勉強を続ける」と公言していたが、うやむやになった。

松野は裁判と縁がある男のようで、2007年も法廷に立った。訴訟の相手は実の母親。なぜ、そんな事態になったのか。
松野は沢田との離婚裁判が一段落したあと、福島市飯坂町の実家に住み始めた。母親が胃癌を患い、看病する必要があったからだ。父親もいたので、親子3人の生活となった。
事態が急変したのは2007年3月のことである。祖母の法要が福島市で行われ、東京の新聞社に勤務する4歳上の兄が顔を見せた。以来、なぜか、兄夫婦がよく実家に泊まりに来るようになった。
5月に両親が『病院に行く』と言って外出し、そのまま行方知れずとなった。その翌日、兄夫婦と福島市職員が現れ、「老人虐待の件で話がある」と言い始めた。老人とは母親のことである。そのとき兄とケンカになり、松野はパンチをもらった。
松野は、その後も実家で生活を続けた。両親が行方知れずになったので、1人暮らしになった。そんな松野のもとに「建物明渡請求」の訴状が届いた。「松野が両親に暴言や暴力をふるうため、心配した兄が東京から駆けつけた。その兄にも暴言や暴力を繰り返したため、親子・共同居住者としての信頼関係を維持できなくなった」というのだ。
それでも松野は実家を出なかった。すると、福島地裁が建物明渡仮処分命令を下した。「1週間以内に家屋を明け渡せ」という。松野は「建物が母親名義になっているので、原告は母親になっている。しかし、認知症の気配があるので、そんな判断はできない。財産を独り占めしたい兄が裏で糸を引いているのではないか」と考えた。ただ、地裁がそういう命令を下した以上、従わないわけにはいかない。松野は実家を出て、福島市内のマンションで暮らさざるを得なくなった。
松野は12月、7カ月ぶりに母親と会った。場所は裁判所の法廷。そういう形でしか顔を合わすことができない関係になっていたのだ。沢田との離婚騒動で裁判には慣れているつもりだったが、相手が母親だったので、複雑な心境になった。前回は苦しかったが、今回は悲しかった。松野は痩せ細った母親の姿を見ているうちに「なぜ、こうなったのか」と泣きたくなった。
この問題は『週刊新潮』2008年1月3・10日号のグラビアで取り上げられた。実家の前を歩く松野の姿が大きく載った。タイトルは「骨肉相食む」。松野が実家を出たあと、SECOMが設置されたという。

タイミングがいいのか悪いのか、週刊新潮の同じ号に沢田亜矢子の記事が載った。58歳になった沢田が、国内最高齢のヌード写真集を出したというのだ。「そんな写真集を誰が買うのか?」という論調だったが、熟女ブームが到来していたこともあり、実際はそれなりに売れたようだ。
沢田は1979年、日本テレビ系『ルックルックこんにちは』の司会に抜擢され、いちやく人気者になった。5年間「朝の顔」を務めたあと、活動の主体を女優に移した。その人生が暗転したのは、1枚の写真がきっかけだった。写真週刊誌『フライデー』1985年4月26日号に沢田の私的なヌード写真が掲載されたのだ。昔の交際相手が同誌に持ち込んだもので、今風に言えばリベンジポルノである。後に沢田は月刊誌『創』1987年1月号に手記を寄せ、「怒りと絶望感と人間不信でいっぱいになった」と書いた。
この写真にショックを受けた沢田は、芸能活動を停止して渡米した。米滞在中に未婚のまま長女を出産。当初は妹夫婦の子とされていたが、1989年に自分の子であることを認めた。その子は、後に「澤田かおり」という名前で歌手デビューした。
シングルマザーになった沢田は、長女の父親の名前を明かさなかった。江本孟紀(元プロ野球選手)という説も広がったが、真相は藪の中だった。沢田はこのスキャンダルが原因で、仕事が少なくなった。
窮地に陥った沢田は、仕事で多少の付き合いがあった松野に「事務所を移籍したい」と相談。松野は東宝芸能の幹部に「沢田を受け入れてもらえないか」と打診したが、拒絶された。このため、松野は個人で沢田のマネジメントを請け負った。ギャラなしのボランティアだった。これを機に2人は親密な関係になり、1995年に結婚した。松野の口説き文句は「地獄の底までついていきます」だった。










