海老沢泰久という作家をご存知だろうか。茨城県出身で、ノンフィクションとフィクションの両方で活躍した。野球とモータースポーツを題材にすることが多く、ノンフィクションの場合は事実を淡々と書き連ねるスタイルだった。文章は口語体的で、実際を「じっさい」、楽を「らく」、間を「あいだ」と表記するなど平仮名を多用した。
1988年にホンダF1(第1期~第2期前半)を取り上げたノンフィクション『F1地上の夢』(朝日新聞社)で新田次郎文学賞を受賞。1994年に短編集『帰郷』(文藝春秋)で第111回直木賞を受賞した。2009年に十二指腸癌で死去。59歳の若さだった。
海老沢の代表作に『ヴェテラン』(文藝春秋)がある。1992年9月25日に発刊されたもので、プロ野球選手6人の起伏に富んだ人生が描かれている。
△嫌われた男・西本聖(巨人、中日、オリックス、巨人)
△成功者・平野謙(中日、西武、ロッテ)
△指名打者・石嶺和彦(阪急・オリックス、阪神)
△十年の夢・牛島和彦(中日、ロッテ)
△ヴェテラン・古屋英夫(日本ハム、阪神)
△秋の憂鬱・高橋慶彦(広島、ロッテ、阪神)

西本は松山商高からドラフト外で巨人に入団。エリートの江川卓を過剰なほど意識し、試合では江川が負け投手になることを密かに願っていた。江川に勝つために、チームメイトの遊びの誘いを断ってまで練習に励んだ。そのうちチーム内で浮いた存在になり、中日にトレードされた。中日では主砲の落合博満が全体練習に参加せず、独自の練習をしていた。このため、西本がどんな練習をやろうと、周りはさほど関心を示さなかった。
平野は名古屋商大からドラフト外で中日に入団。レギュラーに定着すると、練習で手抜きをするようになった。先輩もそうしていたからだ。そのうち試合でも凡ミスをするようになり、監督・星野仙一の逆鱗に触れて西武にトレードされた。西武では心を入れ替え、バントという地味なプレーにも喜びを感じるようになった。2番打者に定着し、3番・秋山幸二、4番・清原和博につなぐ役目を果たした。
石嶺は豊見城高からドラフト2位で黄金期の阪急に入団。高校時代は捕手をしていたが、半月板を痛めた影響で守備が不得意になった。それゆえ「指名打者」として生きることを決意。しかし、南海・門田博光の加入によって指名打者に専念することが難しくなった。監督の上田利治は、門田の意向を優先。門田が指名打者のときは石嶺が外野の守備につき、門田が外野の守備につくときは石嶺が指名打者になった。このどっち付かずの起用法でリズムを崩し、成績が下降ぎみになった。

牛島は浪商高時代、ドカベン香川伸行とのコンビで人気者になった。ドラフト1位で中日に入団し、当初は客寄せパンダ的な使われ方をされた。速い球も鋭い変化球も投げられなかったが、打者との駆け引きで打ち取ることを覚えた。抑え投手として不動の地位を確立したが、落合博満との交換トレードでロッテに移籍した。トレードを通告したのは星野仙一だった。ロッテでも当初は抑え投手を務めていたが、先発に復帰して12勝を挙げたシーズンもあった。選手生活は故障との戦いでもだった。
古屋は、亜細亜大からドラフト2位で日本ハムに入団した。大学時代は三塁手だったが、監督の大沢啓二は遊撃手に転向させようと考えた。しかし、実際にやらせてみるとプロのレベルにほど遠く、断念せざるを得なかった。打撃がよかったので、三塁手として試合に出るようになり、新人ながらレギュラーとして定着した。しかし、30歳を超えて「ヴェテラン」と呼ばれる年代になると、今度は自分がポジションを奪われる立場になった。
高橋は城西高からドラフト3位で広島に入団した。高校時代はエースで4番打者だったが、プロでは打撃を生かすために内野手に転向した。当時は珍しかったスイッチヒッターとなるため、朝から深夜までバットを振った。その姿を見た先輩から変人扱いされることもあった。その練習量が実を結んで1番遊撃手に定着し、広島では数少ない全国区のスター選手になった。しかし、言いたいことを言うタイプだったので、球団幹部とたびたび対立した。それが原因で周りに敬遠され、選手としての晩年は寂しい野球人生を送った。

この本の中で異色だったのが、第2章の平野だ。他の5人の物語はややネガティブな印象を受けたが、平野は違った。「成功者」というタイトルからも想像がつくように、中日から西武へのトレードが野球選手としての成長につながった。6人の中で唯一、ハッピーエンドの物語だった。
となると、逆にこんな疑問がわく。1990年前後の西武は戦力が充実しており、毎年のように日本一になっていた。内外野には石毛宏典、辻発彦、秋山幸二、清原和博、伊東勤といった有力選手が揃っていた。平野はその西武に加入し、ライトのレギュラーポジションを獲得。センター秋山とのコンビは「鉄壁」と称された。そういう選手がなぜ、中日を出されたのか。その背景に何があったのか。海老沢が平野を取材対象に選んだのは、その謎を解明することが目的の1つだった。

平野は今シーズン、BCリーグ群馬ダイヤモンドペガサスの監督を務めた。背番号は野球を意味する「89」をつけた。61歳になったが、現役選手のようなスリムな体形を維持している。平野の手腕もあり、群馬は前後期とも東地区で優勝を飾った。
9月10日に県営あづま球場(福島市)で行われた福島ホープスとの試合。平野は試合前に自らノックし、選手の動きを確認した。試合開始前にホームベース付近で岩村明憲と顔を合わせ、笑顔を見せた。年齢は平野の方が24歳も上だが、相手も監督なので、敬意を払う態度をとった。試合は6-3で群馬が勝利。岩村は試合後のセレモニーで「1位(群馬)と2位(福島)に戦力差はなかったが、監督の手腕に差があった」と語った。

群馬は福島との東地区チャンピオンシップを勝ち抜き、リーグチャンピオンシップ(全5戦3戦先勝)に進出した。石川ミリオンスターズを3勝1敗で下し、3回目のリーグ優勝を決めた。さらに四国アイランドリーグplusとの日本独立リーグ・グランドチャンピオンシップ(同)に進出し、愛媛マンダリンパイレーツと対戦した。群馬は敵地で2連敗し、崖っぷちに立った状態で本拠地に戻った。そこから3連勝し、初めて独立リーグ日本一になった。
平野は、読売新聞10月24日付の「顔」で取り上げられた。群馬を率いて独立リーグ日本一になったことを紹介する記事だ。BCリーグは所帯が小さいため、監督がバッティングピッチャーなど裏方もこなさなければならないと書いてある。
西武黄金期のチームメイト(東尾修、工藤公康、渡辺久信、田辺徳雄、石毛、伊東、秋山、辻)がNPB球団の監督に就く中で、平野はNPB球団ではコーチ止まりだ。西武の生え抜き選手ではなかったというハンディもあるだろう。ならば独立リーグで実績を積み、それを背景にしてNPB球団の監督になるという道を切り開いてもらいたい。