福島ユナイテッドFC(以下:福島U)といわきFCは、5月23日に福島市十六沼公園サッカー場でトレーニングマッチを行った。この試合は、天皇杯全日本選手権福島県代表決定戦の前哨戦としてマニアの注目を集めた。テレビユー福島アナウンサーの杉浦祐治やふくしまFMパーソナリティの藤原カズヒロが取材に来ていた。いわきFCのサポーターは横断幕を掲げて、試合の行方を見守った。結果は0-0のスコアレスドロー。前半はいわきFC、後半は福島Uが押しぎみだった。
本ブログも5月25日付でこの試合を取り上げ、「両クラブは、天皇杯全日本選手権福島県予選の決勝で再戦する公算が強い」と書いた。それ以外の展開が思い浮かばなかったからだ。仮にそれ以外の展開を予想した人がいたら、相当なへそ曲がりだ。

天皇杯福島県代表決定戦は、6月26日に開幕した。初参戦のいわきFCは、対戦相手に大差をつけて勝ち進んだ。1回戦のビアンコーネ福島戦は5-1、2回戦の東日本国際大学サッカー部戦は7-0、3回戦の福島県立医科大学サッカー部戦は11-0、4回戦の相馬サッカークラブ戦は6-0、5回戦のFCプリメーロ戦は6-0、準決勝の福島大学サッカー部戦は5-0。6試合の得点は計40点で、失点は1点だった。スコアだけ見たら、多くの人は「野球の試合?」と勘違いするのではないか。
これに対して、福島Uは準決勝までの試合を免除され、初戦がいきなり決勝になった。これまでの実績が評価され、スーパーシードになったのだ。天皇杯全日本選手権大会の福島県代表になって当たり前と見られていることになる。この特別扱いは、福島Uの選手たちにとってプレーシャーになる。決勝で敗れ、代表を逃したら、それこそ何を言われるか分からない。


決勝の舞台となったあいづ陸上競技場は、会津若松市の郊外にある。JR会津若松駅から南に6㌔㍍ほど行った場所で、会津総合運動公園の一角にある。同じ公園内には体育館や野球場もある。福島Uは毎年、J3リーグの一部試合を同陸上競技場で行っている。なでしこリーグのベガルタ仙台レディースも同様だ。ベガルタレディースが隣県の福島県で試合をするのは、前身が東京電力女子サッカー部「マリーゼ」だったからだ。
試合当日は快晴になり、気温が30度以上になった。熱中症や日焼けを恐れた観客は、屋根のあるメーンスタンドに腰を下ろした。試合開始前にここが満員になったので、遅れて来た観客は芝生席を選ばざるを得なくなった。両クラブのコアサポーターは、当然のようにゴール裏に陣取った。ピッチの西側が福島U、東側がいわきFCだ。観客数は2320人と発表された。

陸上競技場前の広場には両クラブのグッズ売り場が並んだ。こちらも西側が福島U、東側がいわきFCだった。テントの色は、福島Uが赤、いわきFCが黒。Tシャツなどの衣料品にはスポーツ用品メーカーのロゴマークが入っていた。福島Uはヒュンメル(デンマーク)、いわきFCはアンダーアーマー(アメリカ)。国内における販売権を有しているのは、ヒュンメルがSSK(大阪市中央区)、アンダーアーマーが前出のドームだ。

試合は午後2時4分に始まった。福島Uは前半16分、FW金弘淵のヘディングシュートで1点を先制した。いわきFCは後半41分、FW菊池将太からパスを受けたDF高野次郎が右足でシュートし、同点に追いついた。試合は1-1のまま延長戦に突入。福島はその前半9分、DF酒井高聖からのクロスボールをFW樋口寛規がボレーシュートし、1点を勝ち越した。延長の後半はいわきFCが攻勢を強め、福島はゴール前を固める格好になった。しかし、点は入らず、福島が2-1で逃げ切った。


試合後、表彰式が行われ、両クラブの選手たちが1列に並んだ。どちらの選手たちもやりきったという顔をしていた。主催が福島県サッカー協会、福島民報社、NHK福島放送局の3者なので、賞状やトロフィーの類が多かった。その後、選手たちは東西2つに分かれ、それぞれのサポーターにあいさつした。福島Uの選手たちはグラウンドに座り、サポーターと一緒に記念撮影した。

ハーフタイムの最中、いわきFCのグッズ売り場に体格のいい男性が現れた。身長は175㌢ぐらいだが、とにかく胸板が厚い。プロレスラーと名乗っても、違和感を抱く人はいないだろう。男性はスタッフを激励し、さらに「まだ1点差!後半で追いつける!」と言った。
新聞などで見覚えのある顔だった。記憶を遡ると、その名前が頭に浮かんだ。ドーム会長兼CEOの安田秀一だ。いわきFCの試合が気になって、会津若松市にやって来たのだ。さっそく「安田会長じゃないですか」と声をかけ、握手してもらった。ついでに写真を撮らせてもらおうとしたが、安田は「えっ、1人で? 何か恥ずかしいな…」と苦笑いした。

そこにタイミングよく、タレントの武田玲奈が女性マネージャーと一緒にやって来た。いわき市出身の武田は、いわきFCの公認サポーターとして会場に来ていた。女性マネージャーは安田に「武田と一緒に写真を撮ってもらえませんか」と言った。安田はこれに応じ、武田と握手した。
こんなおいしい場面を逃すのはもったいないので、どさくさ紛れで撮影した。2人の目線ももらった。労せずして、貴重な写真が撮れた。サッカーで言えば、ごっつぁんゴールだ。
ただ、武田はタレントで、しかも売れっ子だ。その容姿自体が価値を持っているので、写真を無断で公表するわけにはいかない。ましてやインターネット上に流通させれば、写真を拡散されるのは必至だ。肖像権の侵害になる恐れがあるので、本ブログには安田1人の写真を掲載することにする。

試合の後半、芝生席で顔見知りの福島県職員に会った。彼は地域政策に関わる部署でプロスポーツの振興を担当している。お互いに福島ユナイテッドFC、福島ファイヤーボンズ(バスケットボールB2)、福島ホープス(野球BCリーグ)の試合を観戦する機会が多いので、話をする関係になった。
私「観客が入りましたね。スタンドが満員です。福島FCをあっさり潰した福島県のサッカー界がこれだけ盛り上がるとは…」
職員「2000人は入ったんじゃないですか(この時点では観客数が発表されていなかった)」
私「盛り上りの原因は、いわきFCという新しいクラブが出現したことにあります。それによって、福島ユナイテッドFCの存在感も強まりました。『どちらが強いか』という見所ができたからです。スポーツにおいては、ライバル関係というのは重要な要素です」
職員「県内にJリーグのクラブが2つあってもいいと思います。面積が広いので、棲み分けは可能です」
私「県がプロスポーツの振興に力を入れていることも見逃せません。『福島県サポーティングマッチ』を開催し、そのイベントを通じて観客数の増加を後押ししています。今日の試合がこれだけ盛り上がったのも、県のそうした施策があったからです(←ヨイショ)」
職員「……(笑)」


前出の福島FCは、旧JFLに所属していた。当時はJリーグがディビジョン制をとっていなかったので、旧JFLは現在のJ2に相当する。
福島FCは1995年に旧JFLに参戦したが、経営難が深刻になり、1997年末に解散した。歴代のクラブ代表2人は億単位の借金を背負い、人生が狂った。これについては、本ブログ2012年4月に連載した「福島原発とサッカー界の微妙な関係」「佐藤前知事の主任弁護人をつとめる宗像元東京地検特捜部長がラジオに出演」を読んでいただきたい。

天皇杯全日本選手権大会の福島県代表になった福島Uは、1回戦でザスパ草津チャレンジャーと対戦し、4-1で勝った。2回戦は横浜Fマリノスと対戦し、延長の末に0-2で敗れた。今季は2012年のような番狂わせを起こすことはできなかった。
J3リーグは浮上のきっかけがつかめず、残り2試合の段階になっても16チーム中13位と低迷していた(最終的には14位)。2014年は12チーム中7位、2015年は13チーム中7位だった。これを踏まえ、福島Uは11月8日、栗原と来季の契約を更新しないと発表した。栗原は2014年に監督となり、今季は3年契約の3年目だった。後任は未定。

一方のいわきFCは、10月上旬の全国クラブチーム選手権大会で優勝し、始動1年目で「全国」の2文字がついたタイトルを手にした。福島県社会人リーグ2部は全勝優勝し、同1部昇格を決めた。ただ、最大の目標にしていた10月下旬の全国社会人選手権大会は準々決勝で敗退し、ベスト8どまりだった。
全国社会人選手権大会は、JFLに通じる道だ。この大会で3位以内に入れば、福島県社会人リーグ2部のチームでも地域チャンピオンズリーグ(旧全国地域リーグ決勝大会)に出場できる。
通常は福島県社会人リーグ2部→同1部→東北社会人リーグ2部→同1部という階段を1つずつ上らなければならない。しかも、同1部で優勝しなければ、地域チャンピオンズリーグに出場することはできない。それでは時間がかかりすぎるので、いわきFCは全国社会人選手権大会を経由して、地域チャンピオンズリーグに出場しようと考えたのだ。同リーグで上位2チームに入ればJFL昇格となるが、いわきFCはその手前で道を閉ざされた。この瞬間、来季は福島県社会人リーグ1部で戦うことが確定した。(おわり)

【写真の説明】
・サポーターに記念の盾・トロフィーを見せる福島ユナイテッドFCの選手
・観客で埋まったメーンスタンド
・福島ユナイテッドFC(上)といわきFCのサポーター
・広場に並んだ福島ユナイテッドFC(右)といわきFCのグッズ売り場
・ピッチを走り回る両チームの選手たち(上下2枚)
・ドームの安田会長兼CEOも観戦
・表彰式に臨む両チームの選手たち
・記念撮影する福島ユナイテッドFCの選手たち(上)と見守る鈴木社長
・子どもたちと談笑するハウストラ監督






毎年8月21日は「福島県民の日」である。1876年の同日、若松(ほぼ会津)、福島(同中通り)、磐前(同浜通り)の旧3県が合併し、現在の福島県が誕生したことに由来する。「福島県への理解と愛を深めて、より豊かな県になるよう皆の心と力を合わせる」という趣旨で、1997年に制定された。同日は県内の観光施設が無料開放されたり、入場料が割引になるなどの特典がある。
今年の同日(日曜)は、会津若松市のあいづ陸上競技場でサッカーの大一番が行われた。天皇杯全日本選手権福島県代表決定戦の決勝だ。カードは福島ユナイテッドFCvsいわきFC。旧福島県の福島ユナイテッドFCと旧磐前県のいわきFCが、旧若松県で激突するという構図になった。

福島ユナイテッドFC(以下:福島Uと表記)は、県内唯一のプロサッカーチームだ。前身は横田篤(ふくしまFMアナウンサー)が2004年に設立した福島夢集団ユンカース。翌2005年に福島県社会人リーグ3部に参戦し、優勝を飾った。その後、2部、1部と順調に昇格し、県内のサッカーファンに知られる存在になった。ユニホームの胸部にはスポンサー企業「サンクスホーム」の社名が入っていた。
横田は茨城大学に在籍していた2000年、水戸ホーリーホック(J2)の場内アナウンスをボランティアで担当した。大学卒業後はアナウンサーとしてふくしまFMに入社。スポーツを題材にした番組を放送したかったが、福島県には県民が一丸となって応援するスポーツチームがなかった。このため、横田は現状に物足りなさを感じ、「何とかならないものか…」と思い始めた。

親交のあった黒須充福島大学教授(スポーツ社会学)に相談すると、「ヨーロッパでは地域が1つになってスポーツ文化を育てている」と言われた。横田は「福島でも同じことができるかもしれない」とひらめき、福島大学の学生らと福島夢集団を設立し、サッカーチームの運営に乗り出した。それがユンカースである。

福島夢集団は2007年、FCペラーダ福島(東北社会人リーグ2部)の運営を任された。マネジメント能力を評価されたためで、これに伴い、ペラーダはトップチーム、ユンカースはサテライトチームという位置付けになった。ペラーダは翌2008年に福島ユナイテッドFCと改称。これに合わせて、横田は「フクシマスポーツマネジメント」を設立し、チームの運営会社とした。もう1つのユンカースはフクシマ社から独立し、FCシャイネン福島と改称した。

2010年にフクシマ社の経営難が深刻になった。スポーツフリーペーパーの発行などにお金をかけすぎたためで、チームは存亡の危機に直面した。横田は8月に緊急事態を宣言し、「今季の運営において約1000万円が不足しているため、10月ごろに資金ショートを起こす恐れがある」と訴えた。これを受けて、福島市が公金200万円をフクシマ社に拠出し、チームの存続を支援した。
2011年2月に運営体制の見直しが図られた。内容は、①福島市の経営者5人が「AC福島ユナイテッド」を設立し、運営を引き継ぐ②横田は運営から手を引く―の2点だ。AC社の社長は、後藤忠久・福島商工会議所副会頭が就いた。

その直後に東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が起こり、チームは再び存亡の危機に直面した。選手約30人のうち、被曝を恐れた7人が退団。スポンサーの撤退も相次いだ。復興関連で商工会議所の業務が増大したため、後藤はAC社の社長を退任し、会長になった。常務の鈴木勇人が社長に昇格。元サッカー選手で、現役時代は前出のペラーダに所属していたことから、この任務を引き受けた。本業は鈴木設計社長。
鈴木はチームを存続させようと考えたが、見通しは暗かった。もはや経費削減でどうにかなるというレベルの話でなかった。いくら試算しても、資金不足に陥るという結論しか出なかった。一時は存続を諦めかけたが、あることがきっかけで思い直した。

震災の発生から約1カ月がすぎた4月中旬のことである。鈴木は選手・スタッフと一緒に福島市十六沼公園の体育館を訪れた。そこで生活する避難者を激励するためである。炊き出しをしていると、小学生に「ユナイテッド、なくなっちゃうの?」と話しかけられた。その小学生はクラブが南相馬市で開いているサッカー教室に通う生徒だった。当時は家族と共に自宅を離れ、福島市に避難していたのだ。目には涙をためていた。

鈴木はその顔を見て、「このままチームを解散させたら、子どもたちを悲しませることになる。やるだけやってみよう」と思った。
選手不足を補うため、引退してコーチに専念するはずだった2人を現役に復帰させた。JA全農福島は「風評被害を払拭したい」として、スポンサーを申し出た。災害が一段落すると、福島Uを復興のシンボルにしようという機運が高まった。スポンサーも集まるようになった。2011年は結果として赤字が約400万円に収まり、予想していたほどのダメージは受けなかった。

福島Uは2008年以降、8年連続で天皇杯全日本選手権の福島県代表になっている。東北社会人リーグ1部時代の2009年は、セレッソ大阪(J2)を破るという番狂わせを演じた。2012年はヴァンフォーレ甲府(J2)、アルビレックス新潟(J1)を相次いで破り、ベスト16に食い込んだ。福島県勢がここまで勝ち上がったのは、1996年の旧福島FC以来16年ぶりだった。
2012年はリーグ戦も好調だった。東北社会人リーグ1部で優勝。その勢いで全国地域リーグ決勝大会に挑み、準優勝を飾った。2013年はJFLに昇格。翌2014年は新設のJ3に戦いの場を移した。監督は2014年から栗原圭介(元ヴィッセル神戸)が務めている。本拠地は福島市の県営あづま陸上競技場(とうほう・みんなのスタジアム)。

一方、いわきFCは今年2月に活動を始めた。後ろ楯は、米スポーツ用品メーカー「アンダーアーマー」の日本総代理店「ドーム」(本社:東京都江東区)だ。ドームは取り扱い商品の増大に対応するため、昨年12月にいわき市に物流施設を建設した。総投資額は約100億円で、約300人の雇用を生み出す大事業だ。会長兼CEOの安田秀一はこれに合わせて、「いわき市でサッカークラブを運営し、Jリーグに参入したい」と考えた。
安田は、湘南ベルマーレ社長の大倉智に声を掛けた。安田は法政大学アメフト部、大倉は早稲田大学サッカー部出身。2人は通った大学も経験した競技も違うが、同学年だったので、学生時代から知り合いだった。大倉は、安田の「スポーツで社会を豊かにする」という理念に賛同し、このプロジェクトに参画することを決意した。知り合いには「J1の社長を辞めて地域リーグに行くのはもったいない」と言われたが、気にしなかった。

ドームは昨年12月、チームの運営会社となる「いわきスポーツクラブ」を設立した。社長に就いた大倉は、いわきFC代表の向山聖也と交渉し、その運営権を譲り受けた。福島県社会人リーグ2部のチームを強化して、Jリーグに昇格させるというプランだ。大倉はまた、ピーター・ハウストラ(元オランダ代表、元サンフレッチェ広島)を監督として招聘した。オランダの優れた選手育成システムを導入したいと思ったのだ。
選手はコンバイン(セレクション)やスカウトなどで集めた。プロ契約ではなく、午前中に練習し、午後は物流施設で働くという態勢をとった。実業団チームのようなスタイルだが、ドーム(アンダーアーマー)のブランド力もあり、1年目からJFLクラブに匹敵する戦力を整えた。(つづく)

【写真の説明】
・大会の主催者が制作したポスター
・あいづ陸上競技場の広場に設置された看板
・主催は福島県サッカー協会、福島民報社、NHK福島放送局の3者
・福島ユナイテッド(左)といわきFCの送迎用バス
・AC福島ユナイテッドの鈴木勇人社長
・福島ユナイテッドFCの竹鼻快GM
・福島ユナイテッドFCの栗原圭介監督
・いわきスポーツクラブの大倉社長(右)とハウストラ監督


高度経済成長期に生まれた人は、子どものころ、「末は博士か大臣か」と言われた経験があるのではないか。それが子どもに対する社交辞令だったからだ。当時は「博士」「大臣」という肩書きが重みを持っていたので、この2つのポストが引き合いに出されたのだ。
今は完全に死語になった。「博士号」を取得しても、それに見合う職業に就けなくなったからだ。大学教員は空きが少ないし、企業は博士号を持った人の採用に消極的だ。このため、定職に就けず、単純作業のバイトで糊口を凌いでいる博士がたくさんいる。「高学歴ワーキングプア」という言葉もあるほどで、収入につながらない肩書きの代表格になった。

「大臣」に対する受けとめ方も変化した。1983年の衆院選で落選した谷川和穂防衛庁長官は、選挙事務所で悔しさを露にし、インタビューしていたアナウンサーの首を両手で締めた。現職大臣の自分が落選するとは思っていなかったのだ。今は違う。大臣が落選しても、さほど驚かなくなった。7月の参院選では岩城光英法相、島尻安伊子沖縄・北方担当相の2人が落選。安倍晋三首相は選挙対策の意味で2人を大臣に起用したが、有権者に対するインパクトは弱かった。

ただ、政界内では依然として重みのある肩書きだと受けとめられている。首相が交代したり、内閣改造が近づいたりすると、ソワソワし出す議員もいるという。いわゆる「大臣病」の患者である。もともと権力志向の強い政治家が権力(大臣)というニンジンを目の前にすると、居ても立ってもいられなくなるのだろう。自民党の場合、衆院議員は当選5回以上、参院議員は同3回以上が大臣の「適齢期」とされている。
派閥の力学が働いていた時代は、各派が推薦者リストを総理(総裁)に示し、それに合わせてポストを割り振るケースが一般的だった。「派閥順送り人事」などと呼ばれた。しかし、1996年以降は総理の権限が強まり、派閥の存在感が低下するという現象が起きた。衆院選に小選挙区制が導入されたからだ。特に「変人」の小泉純一郎首相は派閥の推薦リストを丸っきり無視し、自分の裁量で大臣を選んだ。世論調査の高い支持率がそれを可能にした。

現首相の安倍も、小泉ほどではないが、自分の裁量で大臣を選んでいる。稲田朋美(衆院議員)を当選3回で規制改革担当相、同4回で防衛相に起用した。また、丸川珠代(参院選議員)を当選2回で環境相と五輪担当相に起用した。無派閥の菅義偉を官房長官に起用し続けているのも異例だ。過去を振り返ると、同じ派閥の腹心が起用されることが多い。田中(角栄)内閣の二階堂進、大平(正芳)内閣の伊東正義がその典型だ。菅は、中曽根(康弘)内閣の後藤田正晴ともタイプが異なる。新型の官房長官だ。
菅は秋田県出身。湯沢高校を卒業し、集団就職で上京した。段ボール工場で働いて学費を稼ぎ、法政大学に通った苦労人だ。小此木彦三郎の秘書を経て、横浜市議へ。そこで顔と名前を売って、衆院議員になった。当選7回。最近の自民党は「ブランド志向」が強く、要職に就いているのは世襲議員が圧倒的に多い。その状況で菅は自力で衆院議員になり、官房長官になった。総務相も歴任した。陽の当たる道を歩いているため、同僚議員に嫉妬されることも多いらしい。

菅と同じ当選7回の衆院議員は、自民党に25人いる。このうち、14人は大臣経験者だ。複数(兼務除く)の大臣を歴任した議員もいる。一方で、あとの11人はいまだに大臣を経験していない。
その顔ぶれは次の通り。
【大臣経験者】
△下村博文(文科)△根本匠(復興)△望月義夫(環境)△山本幸三(内閣府特命)△河野太郎(国家公安委員長)△今村雅弘(復興)△伊藤達也(内閣府特命)△田村憲久(厚労)△佐藤勉(総務・国家公安委員長)△遠藤利明(五輪)△棚橋泰文(内閣府特命)△菅義偉(総務・官房長官)△高市早苗(内閣府特命・総務)△塩崎恭久(官房長官・厚労)
【大臣未経験者】
△木村太郎△三原朝彦△今津寛△宮腰光寛△竹本直一△原田義昭△岩屋毅△山本拓△平沢勝栄△小此木八郎△田中和徳

佐藤、菅、高市、塩崎の4人は複数の大臣を歴任した(塩崎は参院議員1期の経験もある)。現在の役職は、佐藤が衆院議院運営委員長、菅が官房長官、高市が総務相、塩崎が厚労相。塩崎は、第一次安倍内閣で官房長官を務めた。その役職を引き継いだのが菅だ。高市は安倍のお気に入りの1人。稲田、丸川を加えた3人は「安倍チルドレン」と言っていいだろう。

根本は若手議員の頃、安倍、石原伸晃、塩崎の3人と「NAIS(ナイス)の会」をつくっていた。政策集団兼仲良しグループだ。名称はメンバー4人の頭文字をとった。安倍、石原、塩崎の3人は父親も衆院議員だったが、根本の父親は海軍の軍人だった。曾祖父は貴族院議員を務めた根本祐太郎だ。建設官僚を経て、1993年の衆院選で初当選。同期の安倍と仲良くなったが、 2009年の衆院選で落選したため、現在の当選回数は安倍より1回少ない。
河野は、祖父が一郎、父親が洋平という政治一家で生まれ育った。ただ、原発に批判的な立場をとっていたため、自民党では異端児扱いされていた。大臣になることもないだろうと言われていたが、2015年に国家公安委員長に起用された。これに伴い、原発批判の拠点になっていたブログを閲覧不能にした。河野は「今までは外から言っているだけだった。今度は政府内の議論でしっかりと言うべきところは言っていく」と釈明。このあやふやな態度に対しては、「そこまでして大臣になりたいのか」という批判が噴出した。

遠藤は中央大学時代、ラグビー部に所属していた。スポーツに造詣が深く、山形県議時代は高校野球の強化策を議会で取り上げたことがある。1985年の夏の大会で、東海大山形がPL学園に29対7で大敗したからだ。衆院議員になると、文教族として頭角を現した。その実績が認められて、初代五輪担当相に起用された。森喜朗元首相の後押しもあった。8月の内閣改造で大臣の座は丸川に譲ったが、オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の副会長に収まった(会長は森)。Wikipediaに「山形のドン」と書いてあるが、この呼称はリアルなドン(天皇)だった服部敬雄(山形新聞・山形交通グループ総帥)に失礼だ。

大臣未経験者のうち、木村、三原、小此木の3人は父親も衆院議員を務めた。世襲議員は一般的に出世が早いが、この3人は例外だ。支持者は「うちの先生はなぜ大臣になれないの?」と首をかしげているのではないか。

小此木の父親は、菅が秘書を務めていた彦三郎だ。小此木自身もその秘書を経験したうえで、1993年の衆院選で初当選した。菅は3年後の1996年の衆院選で初当選。ただ、小此木は2009年の衆院選で落選したので、現在の当選回数は2人とも7回だ。菅は要職を歴任しているが、小此木はいまだに大臣経験なし。この違いは、どこで生まれたのだろうか。
山本(拓)は、高市の夫である。山本は再婚、高市は初婚。高市は政界のメーンストリートを歩いているが、山本は裏街道に回された感がある。

平沢は東京大学時代、安倍の家庭教師を務めた。子どもの頃の安倍を知っている稀有な政治家だ。講演をすると、当時の話をつかみにすることが多い。ひと昔前はテレビでもよく安倍の話をしていた。大きな意味では安倍のお友だちだが、なぜか大臣になれない。元家庭教師なので、安倍に煙たがられているのだろうか。それとも別な理由があるのだろうか。71歳なので、時間的な余裕がないのは確かだ。
自民党内を見渡すと、当選10回でも大臣になれない衆院議員がいる。逢沢一郎だ。松下政経塾では野田佳彦前首相と同期だった。1986年の衆院選で初当選。同期には石破茂、鳩山由紀夫、武部勤、武村正義、新井将敬らがいる。議員歴は30年になるが、いまだに大臣になっていない。これは「政界の七不思議」の1つに挙げられている。インターネットの掲示板「2ちゃん」には逢沢ファンが多く、「逢沢一郎先生の入閣を祈るスレ」がたっている。

首相に返り咲いた安倍は、女性を大臣に起用し続けている。前出の3人のほか、当選1回の森雅子(参院議員)を少子化担当相に起用した。そのシワ寄せを受けているのが男性議員で、地味なタイプは当選7回でも大臣になれないでいる。
要職に就いている女性議員が男性議員に比べて優秀というわけではない。高市は自民党政調会長時代、東京電力福島第一原発の事故について「被曝が原因で亡くなった方はいない」と言った。また、丸川は環境相時代、福島県の除染について「年間1㍉シーベルトに科学的な根拠はない。民主党政権の細野(豪志)さんという方が誰にも相談しないで決めた」と言った。
男性議員であれば辞任に追い込まれるか、内閣改造で裏街道に回されるところだ。しかし、この2人は謝罪しただけで済んだ。その後は何事もなかったかのようにメーンストリートを歩き続けている。安倍政権が「女性活躍」をスローガンに掲げ、自ら実践するのはいいが、他に人材はいないのか?と言いたくなる。


【写真の説明】
・存在感が薄い丸川五輪相
・落選した岩城前法相。左側は根本元復興相
・「下村博文文部科学大臣来る!」の看板
・大臣になりたい人々が集まる国会議事堂
・組閣本部が設置される首相官邸
・候補者の街頭演説を聴く有権者
・当選1回で少子化担当相になった森参院議員
・「女性活躍」を推進する安倍首相