マイケル・ジャクソンとアメリカ | ☆Dancing the Dream ☆

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1958年8月29日生まれ 

2009年6月25日逝去 享年50歳。

 

マイケルジャクソンは、10歳から50歳までの40年間のアーティスト人生のうち、

Bad World Tour 1989年1月27日ロサンゼルス以降、後半の20年間は北米ツアーを行っていません。

祖国アメリカは、彼にとって危険な国になっていました。

 

 

 

 

公演中にバックダンサーの靴が折れた瞬間、MJがとった行動がプロすぎる

 

 

踊らないMJが怖い

 

 

ファン歴30年でも、99%が見落とした1秒

 

 

MJが事故直後に見せた本当の姿

 

84年1月27日、ロサンゼルスのシュライン・オーディトリアムでペプシのコマーシャル撮影時に、ステージに仕掛けてあった花火が予定より早く作動し、マイケルさんの髪に引火。マイケルさんが気づくまでの11秒間勢いよく燃え続けた後、周りのスタッフらが一斉に駆けつけて消火したが、マイケルさんは頭や顔などに第二~三度の火傷を負い、当時大きく報道された。

 

1984年1月27日のペプシCM撮影中の火傷事故

https://michael-jackson.fandom.com/wiki/Pepsi_Commercial_Incident

直接責任は現場の監督(Bob Giraldiの指示変更説が有力)と特殊効果担当の安全不備。全体的な運勢責任(制作責任)はペプシ/広告代理店側が負った形(和解金支払い)。

マイケルは法的勝利より慈善を選択し、公式には和解で終了している。

しかし、事故は生涯の痛み・鎮痛剤薬物依存の原因となった。

晩年まで繰り返し行われた頭皮再生手術は、整形のきっかけになったと指摘されることが多い。

この事故に遭う前までのマイケルは母の影響によるエホバ信者であったため宗教的理由からも薬は摂らない健康体だった。(エホバの証人では輸血は当時は禁止、薬物、ワクチンも忌避/ただし母キャサリンが小児のときポリオに患り脚が不自由だったこともあり、ジャクソン家ではワクチン接種は厳格に行っていた)

 

事故の概要

  • 場所: ロサンゼルスのShrine Auditorium(観客3000人前)。
  • 内容: ジャクソンズ(マイケルと兄弟たち)が出演する「New Generation」CM。マイケルが階段を降りながら「Billie Jean」をパフォーマンス中、6テイク目でピロテクニクス(特殊効果の花火/爆薬装置)が予定より早く/強く爆発し、火花が頭に降りかかり、ヘアジェルで固めた髪に引火。
  • 負傷: 頭皮に2度・3度の重症火傷(一部で3度)。即座に消火され、病院(Cedars-Sinai → Brotman Medical Center)へ。マイケルは冷静に対応し、担架の上でもスパンコールグローブをはめて手を振るプロ根性を発揮。 

責任は誰にあったか?

(主な指摘)明確に「誰か一人が全面的に負った」という公式結論はなく、和解で決着。

 

主な責任論:

 

1制作現場の安全管理・ピロテクニクス担当(直接的原因):

  • 特殊効果のタイミング/位置/強度に問題(マグネシウム爆弾が頭のすぐ近く2フィート以内で爆発する予定だったという指摘も)。
  • LA消防署のキャプテンDon Donesterは、監督Bob Giraldiが「もっと階段の上に留まって、花火がより荘厳に見えるように」と指示し、予定外の位置にマイケルを留めたため火花直下になったと証言。消防側に変更を通知せず、安全指示に反したと主張。 https://www.usatoday.com/story/entertainment/movies/2026/04/23/michael-jackson-pepsi-commercial-accident/89697465007/
 
2監督 Bob Giraldi :
  • マイケル本人の自伝『Moonwalk』でも、Giraldiが「早く降りるな、上に留まれ」と指示したと記述。
  • Giraldi本人は否定(火花は予定になかった、マルファンクション/消防の責任と主張)。後に「 fond memoriesのない撮影」と振り返るが、明確な謝罪や法的責任は取らず。 https://en.wikipedia.org/wiki/Bob_Giraldi
 
3 ペプシ側(全体責任・スポンサー):
  • CM制作の最終責任は広告代理店(BBDO: Phil Dusenberryら)とペプシ(Alan Pottasch Worldwide Creative Directorら)。安全確認義務があった。
  • 事故後、ペプシ執行部は動揺し「ペプシの名前を出さないで」と祈ったという証言あり。イメージダウンを恐れた。 
4 その他の指摘:
  • マイケルのヘア製品(ジェル)が燃えやすいという初期報道もあったが、後年の証言では「むしろ火の広がりを遅らせた可能性」とされる。
  • 家族(特にJoe Jackson)や契約自体を批判する声もあるが、直接責任ではない。
法的・経済的決着(「運勢責任」=CM制作全体の責任)
  • マイケル側: 母親Katherine Jacksonが安全対策不足に激怒し、訴訟を検討。マイケルも不満を表明したが、訴訟せず和解を選択。 
  • ペプシの対応: 150万ドル(当時、今日価値で約400-500万ドル相当)の和解金を支払い。マイケルは全額をBrotman Medical Centerに寄付し、同センターに「Michael Jackson Burn Center」が設立された(火傷患者支援に貢献)。
  • ペプシはCMを完成させて放送。後にマイケルと再契約(1980年代後半、1000万ドル規模)するなど関係継続。 https://michael-jackson.fandom.com/wiki/Pepsi_Commercial_Incident
 

この30秒が、ポップキングを家族から救った

 

1984年12月9日 ─ ロサンゼルス・ドジャースタジアム。 兄弟も父も知らなかった、たった一言が放たれた瞬間です。 ポップキング マイケル・ジャクソンが、 ビクトリー・ツアー最終公演の舞台で、 誰にも事前通告なしで突然口にした言葉。 父ジョー・ジャクソンとの金銭をめぐる対立、 そして家族を超えてソロ活動へ進みたいという意思が、 舞台の上でついに表に出た歴史的なシーンとされています。 もしこの一言がなければ、 マイケルはもっと長く家族のツアーに縛られたままだったかもしれません。 映画『Michael』(2024) でも描かれた、実際に起きた一場面です。

 ▼ 関連情報

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公演名 : ビクトリー・ツアー最終公演 日 時 : 1984年12月9日 場 所 : ロサンゼルス・ドジャースタジアム 出 演 : ジャクソンズ(マイケル含む6兄弟) 備 考 : ジャクソンズとして最後の合同ツアー ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

 

 

マイケル・ジャクソンのビートルズ版権 時系列

ATV Music/Northern Songsのカタログ入手から、ソニーとの確執、死直前までの経緯

 

1980年代前半:版権ビジネスの重要性を学ぶ

  • 1981-1982年頃:マイケル・ジャクソンとポール・マッカートニーが「Say Say Say」などでコラボ。マッカートニーが出版権(publishing rights)の価値を説明し、ノートを見せて自らのカタログを示す。マイケルは「いつかビートルズの曲を買う」と冗談めかして宣言(マッカートニーは笑う)。これがきっかけで出版権取得に興味を持つ。 
  • 1984年9月:ジョン・ブランカ(当時マイケルの弁護士)がATV Music(ビートルズのLennon-McCartney曲約250曲を含む約4000曲のカタログ)の売却情報を入手。オーストラリアの実業家Robert Holmes à Courtが所有。ブランカは過去のカタログ取得も手がけていた。マッカートニーとYoko Onoに打診するが、両者とも入札しないと回答。 

1985年:ATV Music取得(ブランカの功績)

  • 1984年11月-1985年8月:ブランカ主導で交渉。初期入札4600万ドル。他の競合(Charles Koppelmanなど)と争う。デューデリジェンスに100万ドル以上費やし、何度も決裂しかける。
  • 1985年8月10日:マイケルが47.5百万ドルでATV Musicを取得。ブランカが契約を締結。マイケルはオーストラリア訪問や奨学金設立などの条件も飲む。ビートルズ曲の出版権(writer’s shareはマッカートニー/レノン遺族が保持)を手中に。マッカートニーは不快感を表明し、友情に亀裂。 
  • ブランカの役割:交渉の中心。評価・戦略立案・クロージングを主導。「音楽出版の王」への第一歩。

1995年:ソニー/ATV Music Publishing設立

  • マイケルが財務的圧力などでATVの50%をソニーに売却(約9500万〜1.1億ドル)。ソニー出版部門と合併しSony/ATVを設立。マイケルとソニーが50:50の合弁。マイケルは取締役として関与し、会社拡大に貢献(EMI買収など)。 
  • ブランカは合併交渉にも関与(マイケル側)。

1990年代後半〜2000年代:ソニーとの確執(Tommy Mottola中心)

  • 1997年頃〜:ソニー(特にCEO Tommy Mottola)がマイケルのコントロールを強め、契約延長や権利で対立。マイケルは自曲マスターの早期返還を望むが拒否され、契約書き換え(ブランカが関与した時期もある)。 
  • 2001-2002年:アルバム『Invincible』で対立激化。マイケルはプロモーション予算・契約条件で不満。Mottolaを「racist」「devil」と公に非難(Sony本社前抗議)。ソニーがプロモーションを十分にせず、アルバムの成功を阻害したと主張。カタログを狙った圧力との見方も(マイケル側)。マイケルはツアー拒否などで追加負担も。 
  • 2006年:債務圧力(数億ドル規模)でソニーがマイケルの持分50%のうち半分(全体の25%)を買うオプションを取得(約2.5億ドル固定)。運用権もソニーが強化。マイケルは破産回避のため譲歩。 
  • ブランカは一時離脱・復帰を繰り返すが、ビジネス面で関与。マイケルはソニー離脱を望むが、カタログは保持。

2009年:マイケル死去と遺産管理

  • 2009年6月25日:マイケル死去(50歳)。遺産は巨額債務(約5億ドル)抱えていたが、Sony/ATV持分50%が最大資産。
  • ジョン・ブランカ(John McClainと共同)が遺言執行人(Executor)に就任。遺産を債務から数10億ドルの黒字企業へ再生(ツアー、Cirque du Soleilなど)。 

2016年:ソニーが完全掌握(死後)

  • ソニーが買収オプション行使。2016年3月、遺産から50%を7.5億ドルで買収。Sony/ATV(ビートルズ曲含む)を完全所有に。ブランカら執行人は交渉し、Mijac Music(マイケル自身曲)などは保持。 
  • これでソニーがビートルズ出版権を完全に手中に。マイケル生前は売却拒否だった資産が、死後ソニーへ。