池田大作会長が逝去したのが2023年11月。
公明党が連立を離脱する方向性は確定していた。
しかし、26年もの連立の間には強いしがらみが形成されていた。
自公は下野していた間にさえも連立していた。
しかし、2022年11月、赤旗が裏金問題の大スクープを放ち、
赤旗記者と上脇教授が虱潰しに調査をし上脇教授は次々に刑事告発。
2023年11月、NHK、読売なども裏金事件を報じ始め、
検察はバッチを挙げる好機とみて23年明けから踏み込んだが、
謎の「3000万ライン」が設定され、萩生田、西村など大物はパクらず、
結局、”大山鳴動して鼠一匹”の体だった。
これに国民は激怒。
公明党は選挙活動のなかで、自民党の裏金問題の説明を強いられる。
自民党が集票に依存してきた創価学会婦人部も、裏金議員自らが説明できないものを答えられる訳がない。
2019年夏の参院選の河井夫妻事件で公職選挙法違反容疑で逮捕され、案里氏を応援した学会員は愕然とし、学会員の自民のみならず公明党不信が高まっていた。
池田大作がつくった「福祉と平和の党」公明党。
公明党とは何か?
池田大作とは何者か?
創価学会の初代会長・牧ロ常三郎は、神社神道を批判し伊勢神宮の神札を祭ることを拒否したために、
治安維持法違反並びに不敬罪の容疑で特高に投獄され獄中死した。
第二代創価学会会長・戸田城聖は、「原水爆禁止宣言」を発し、戦争体験者の証言集「反戦出版」など
反核運動、反戦平和運動活動の淵源となった。
池田大作は「護憲」。憲法改正、特に憲法九条の改正には絶対反対した。また「教育基本法」の改正、教育勅語は権威主義を帯びると反対した。
しかし、残念ながら「公明党」は、その基本路線から外れていく。
その理由は、自民党から激しい攻撃を受けたからである。
93年7月、細川連立内閣(日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、民主改革連合、社会民主連合の8党会派)が発足。自民党が初めて下野し、55年体制が崩壊した。
自民党を引き摺り下ろす大政局において、公明党は非常に重要な役割を果たした。
そして、オウム真理教事件。
オウムが最初に狙ったのは池田大作だった。
93年12月、オウムは池田殺害を計画し、実行犯の新実智光(18年7月死刑執行)は創価大学キャンパス内でサリンを噴霧。池田本人は被災を免れたが会員数人が被災した。
オウム事件のテロ事件から他の宗教団体は批判の対象となり、自民党は創価学会にも圧力をかけた。
オウム真理教事件による宗教法人法の改正は、島村宜伸文部相(自民)の「(法案成立後には)創価学会を徹底的に身体検査してやる」との暴言が象徴するように、明らかに創価学会、公明党に対する攻撃だった。
細川政権誕生後、自民党は「憲法20条を考える会」という勉強会を発足させ、創価学会を支持母体に持つ公明党が連立政権に参加している細川内閣は政教分離ではなく政教一致という批判を展開。池田大作氏の証人喚問を求めるなどの強硬姿勢をとる。
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/11231104/?all=1&page=3
公明党は池田大作と創価学会を守るために、自民党と手を打つ方向に流れを変えたと言われている。
自民党の「下駄に雪」と揶揄される屈辱に甘んじていた公明党は、ついに自公連立離脱に舵を切った。
2025年 10月10日、公明党・斉藤代表が自民党との連立離脱を発表。
公明が離脱に傾斜もパイプ役だった菅氏が動ける余地なく…「決められない政治」打開の責任は自民に
「今日は、公明党の地方組織の声を聞く場だと思って来ました」
10日の自公党首会談。自民の高市総裁は公明の斉藤代表と向き合うと、こう切り出した。公明が連立継続の条件として提示していた企業・団体献金の規制強化案への回答をもらう会談と位置づけていた斉藤氏は戸惑いを隠せなかった。
党内議論を経て、一任を取り付けていた斉藤氏は「回答してもらえないと帰れない。『一切妥協するな』とも言われている」と迫ったが、高市氏は党内での検討時間を確保したいとして協議継続を繰り返し求めた。「私が決めて帰ったら独裁だ」とも訴えた。政治資金に関する規制強化を含む与野党の政治改革議論を「担当でなかったから、よく知らない」と打ち明け、代替案を示すことはなかった。
会談後、高市氏は動揺を隠せず、記者団に「一方的に離脱を伝えられた」と強調した。高市氏は4日に総裁に選出され、執行部を決定したのは7日だ。高市氏の保守的な政治信条に対する警戒を強めていた公明はこの間、離脱に傾斜していったが、高市氏側が対応策を練る時間は限られていた。
自公に自由党を加えた自自公連立政権が誕生したのは1999年10月だった。自公の連立は、政治の安定を実現するために先達が築き上げ、維持に心血を注いできたものだ。
自民は98年7月の参院選で大敗した。参院で過半数割れが続くなか、小渕内閣の官房長官だった野中広務氏が公明との連立が必要と判断し、協議を主導した。野中氏はまず敵対していた小沢一郎氏が率いる自由党を引き込んで、99年1月に自自連立政権を発足させ、その後の自自公連立政権につなげた。
長期政権となった2012年からの安倍内閣では、官房長官だった菅義偉・元首相が主に公明と支持母体の創価学会とのパイプ役を担った。
今月7日の執行部人事で高市氏は、菅氏を副総裁から外し、対公明強硬派の麻生太郎・元首相を充てた。党首会談を翌日に控えた9日になって、高市氏は菅氏に協力を求めたが、公明と創価学会の幹部内では方向性が固まりつつあり、菅氏が動ける余地はほとんどなかった。
離脱決定を聞いた菅氏は周囲に「なんでこんなことになったのか」と悔やんだ。
高市氏が首相に指名されても、自民単独の少数与党では不安定な政権となる公算が大きい。総裁選で高市氏は「(自公以外の党に)最初の組閣から加わってもらう」と強気だったが、状況は一変した。公明の離脱表明を受け、国民民主党は自民との連立協議にいっそう慎重となったためだ。
93年に非自民の細川内閣が発足して以降、この30年余で連立の枠組みを持たない単独政権だったのは、橋本、小渕両内閣の7か月半しかない。
連立は政治理念・基本政策の一致が前提になるとはいえ、「自公」という安定装置が失われた代償は大きい。「決められない政治」に陥らないための打開策を見いだす責任は、比較第1党の自民党にある。
公明党連立離脱
高市早苗自民党に衝撃を与えた公明党連立離脱。公明党にも大ダメージ!?安冨歩東京大学名誉教授。一月万冊 2025/10/11
池田大作とは何者か?
【一から解説】池田大作亡くなって創価学会&公明党はどうなる?日本の政治の行方を考える。安冨歩東大教授。一月万冊 2023/11/20
毎日新聞2023/11/18 17:30(最終更新 11/19 08:48)
池田大作氏に初めてあいさつした時、「記者は怖いねえ。でも本当はね、私も新聞記者になりたかった。ものを書く人になりたかったんですよ」と言われた。文学好きで文章が得意な少年だった。実家は貧しく進学は諦め、長く結核を患った。創価学会第2代会長の戸田城聖氏の出版社に勤め、21歳の時、雑誌「冒険少年」の編集長になった。自らもペンネームで偉人伝を書いた。夢に見た仕事だったが、経営難で雑誌は休刊。池田氏は一転「最も向いていない、やりたくもなかった」金融の仕事を担うことになる。その無念は後の人生にも残り、池田氏の人生の熱源にもなった。
事業の失敗で大半の部下を失った戸田氏と、赤貧の中で語り合ったのが、新聞をつくろう、大学を開こう、政治を変えよう、世界の指導者と語り合えるようになろう、という夢だった。後日、池田氏はこのすべてを実現する。
草創期の創価学会は正邪の闘いを理念に激しい折伏(しゃくぶく)と布教活動で知られていた。熱すぎる思いは、…(中略)
マスコミとの最後の懇談会は1994年9月。私も出席した。時は村山富市政権下で公明党は野党だった。池田氏は村山政権誕生を予測できなかったことに怒っていた。そして「私の立場は護憲です。憲法は変えさせません。新党をつくる時は護憲を条件にするんです。もともと私は自民に公明が交ざるような感じの再編が一番いいと思っていました。庶民が安心しますから」と語った。当時から自公政権を見据えていたのだろう。
懇談会でのこの言葉は忘れられない。
「私が死んだら、創価学会はもう終わりです。会員のことが心配なんです。私が生きている間、いろんなことをやっておかなければならないと考えています」。当時、池田氏は66歳だった。自分亡き後の創価学会をどこまでも心配した最期だったと推察する。
【客員編集委員、元東京本社編集編成局長・小川ー】
毎日新聞インタビュー(1991年):←
(http://www2s. biglobe. ne. jp/~masajun/sintyaku/200109252. txt) +
岩見:公明党は最近、宗教政党らしい純潔性とか寛容さが感じられなくなって、自民党や民主党と同じ普通の政党という印象ですね。惜しいなあと感じているんですが。←
池田氏:全く同感です。私もそう思っています。そうなると何の魅力もなくなる。←
※2001年の時点で池田先生は上記のように答えていました。今や当時よりひどい自民の補完勢力、否、自民以上の悪政推進政党です。軍拡増税に対して自民党よりも反論が出ません。池田先生はホンネでは公明党には何の魅力もないと思っておられることでしょう。
クーデンホーフ・カレルギーとの対談集『文明・西と東』より:←
https://ameblo.jp/kojinnbook999/entry-12467481166.html
池田:私は、なんとしても、日本は完全中立を志向して、戦争なき平和な世界、さらには国境なき世界の実現に向かって、積極的に働きかけていかなければならないとじております。←
クーデンホーフ: 日本が中立を志向するならば、絶対に武器を他国に輸出してはなりません。なぜなら、外交上は中立を保っていても、戦争のさい、参戦国のいずれかに武器を輸出していれば、その軍需工場が攻撃の対象となるでしょう。そうなれば、参戦を余儀なくされることになります。だから、日本は、他国のための武器製造も、武器輸出も、絶対にやるべきではないと思います。←
池田: まことに、お説のとおりです。←
※今日の日本の軍拡路線、軍事研究開発、それを容認する公明党は師敵対です。
毎日新聞2023/11/18 15:05(最終更新 11/18 20:03)
創価学会の池田大作名誉会長が亡くなった。
池田氏がつくった政党として半世紀以上の歩みを重ねてきた公明党。
1999年以降は一時期を除いて自民党と連立政権を組み、与党の地位を固めている。一方でそのことは公明党が長年掲げてきた「大衆の党」「平和の党」の看板と現実の政策との矛盾をたびたび生じさせた。それでも支持者の求心力を維持できたのは池田氏の存在があったからであり、羅針盤を失った公明党の今後は見通せない。
「既に大きな曲がり角に来ていた自公関係に影響を及ぼすことは否定できない」。公明党関係者は18日、池田氏の死去を受け、こう懸念した。次期衆院選については「逆に負けられないと思って歯を食いしばって頑張るしかない」と語った。…
公明党の前身「公明政治連盟」が結成されたのが61年。結党は3年後の64年。当初は「国立戒壇の建立」など宗教的な主張をしていたが、69年の「言論・出版妨害事件」を経て池田氏は政教分離を言した。創価学会と公明党の組織を切り離す形をとったものの、学会は公明党の支持母体として政策・人事に強い影響力を及ぼしてきた。
政治路線としては、自民党が保守、社会党が革新を代表した55年体制のもと、公明党は民社党とともに中道政党に位置づけられ、社会党と連携する社公民路線をとった。
一方で、池田氏は自民党の池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫の各氏ら歴代首相経験者と親交を深めた。言論・出版妨害事件の際は、田中角栄元首相(時は自民党幹事長)が事態の収拾に動いたことが知られている。
創価学会が本部を置く東京都ではいち早く、鈴木俊一部政の始まった79年に与党入りした。
国政では、92年の国連平和維持活動(PKO)協力法の制定で自民、民社両党と連携する自公民路線を鮮明にした。
93年の細川護熙政権で新生、社会、民社党などとの非自民連立を選択したが、1年弱で崩壊し、自民、社会、さきがけの自社さ連立政権が誕生した。
下野した公明党はいったん解党して新進党の結党に参加したが、このころ、自民党が創価学会の選挙活動などを批判し、国会で池田氏の証人喚問を要求。
95年には学会の秋谷栄之助会長が国会での参考人招致に応じた。
こうした自民党の攻撃で学会に動揺が広がり、後の自公連立につながっていく。
97年の新進党解党後、公明党が再結成され、99年には自民党との連立に踏み切った。
自公連立では創価学会の「集票力」を背景に、公明党候補のいない選挙区では学会が自民党候補を支援し、自民党候補が支持者に「比例は公明に」と呼びかけるバーター協力が定着。「学会頼み」の選挙重ねた自民党内から池田氏批判は聞かれなくなった。
「池田氏を守るための理念なき連立」などと批判された自公連立で、公明党はたびたび、「平和の党」としての立場が揺るがされる事態に直面した。
小泉純一郎政権では自衛隊のイラク派遣を決定。
安倍晋三政権は集団的自衛権の行使を容認した安全保障関連法の制定などを推し進めた。
集団的自衛権の行使を認めることには公明党の支持者に反対が根強くあったが、自公間で協議を重ね、限定的な行使にとどめるよう要件を設けることで折り合った。
安倍政権ではさらに、自民党が自衛隊の存在を明記する憲法9条改正案をまとめ、公明党の対応が注目された。2022年に安倍氏が死去したこともあり、国会の憲法審査会で9条改正は最優先のテーマにはなっていないが、自民党が旗を降ろしたわけではない。
時に譲歩を強いられてまで自民党との連立を続けてきた意義は「政治の安定」だと公明党は強調する。ただ、岸田文雄政権では、政策や選挙協力を巡って両党がぎくしやくする場面も目立つ。「人間主義」などの結党理念が連立にどう生かされ、今後どう具体化されていくのか。
巨大な「生みの親」を失ったこれからこそ、真価が問われることになる。


