戦後、GHQの占領期も日本のエスタブリッシュメントは日米の聖公会を媒体にしてGHQ-G2と裏で通じていたことが伺える。
統一教会は、聖公会とは繋がりはないのだろうか?
八代斌助(神戸教区主教、日本聖公会首座主教、聖公会神学院理事長)の末子は、
統一教会系の水産会社TRUE WORLD FOODS, INC.
Ocean Providence LLCの社長で、
全米に寿司ブームを巻き起こし一大産業とした
日本人統一教会信徒、Takeshi Yashiro(1949 - 2018)だった。
*https://bfm.tanemori.com/in-memoriam/takeshi-yashiro/
*https://toyokeizai.net/articles/-/604521?page=2
BRAZIL: MOONIES NEW HOPE RANCH COMPLEX
The Unification Church, better known throughout the world as the Moonies, have chosen a remote corner in southern Brazil to build their vision of Heaven on Earth.
Reverend Moon has already been spent more than 20 (m) million U-S dollars on New Hope Ranch, a complex which will eventually cover an area the size of England.
The Moonies presence in Brazil has worried politicians and leaders of the Roman Catholic Church who fear the Reverend's designs on Latin America's largest country.
APTN has exclusive footage from inside New Hope Ranch.
A natural jewel, the Pantanal in southern Brazil is formed by vast prairies split by meandering rivers.
It is an extraordinary natural area spread over 145 thousand square kilometres, home to some of the world's richest wildlife.
Reverend Sun Myung Moon first visited the Pantanal on a fishing expedition in 1994.
He is said to have had a vision of building an earthly paradise in the heart of this swampland.
Three months after his trip he had bought this - a 74-thousand acre site - New Hope Ranch.
The Moonies arrived here three years ago.
New Hope is growing quickly.
Over 20 (m) million U-S dollars have already been spent here. Over the next ten years another 2 (b) billion US dollars will be added.
Moon's right-hand man in this ambitious project is Kim Yoon-sang - the President of New Hope Ranch.
SOUNDBITE: (Korean)
\"We want to buy the land we need first, and then we are waiting for the day when we can announce our plans. We are making a great effort to buy land at the moment. After this year we think we can announce the details of our long-term plans.\"
SUPER CAPTION: Kim Yoon-Sang, President of New-Hope Ranch
Education is the key to the Ranch's attempts to reach out to the surrounding communities.
The New Hope Education Centre currently has 78 students.
Kim insists there is no indoctrination in the school.
What is on offer is the latest curriculum and new, modern equipment.
Children from surrounding towns will soon be picked up in specially provided buses and taken to the school for free.
In a state with limited finances, the school is hard to compete with. Hundreds of parents have expressed an interest.
SOUNDBITE: (Portuguese)
\"We are already authorized in accordance with the guidelines of the M-E-C, the Ministry for Culture and Education, up to the middle school. But as we started a little late this year compared to the normal curriculum, we have only opened so far up to the seventh grade for students of ours, those of members here. But from July onwards the school is open to all the community.\"
SUPER CAPTION: Maria De Gloria Ferneda, Head Teacher of New Hope Education Centre
Two hundred kilometres away is the state capital Campo Grande.
The city is a sprawling metropolis in the middle of no-man's land.
Moon plans to develop education, agribusiness and tourism in 33 cities and towns within a 200 kilometre radius of the ranch, thus helping to develop the economic fortunes of this part of Brazil.
He claims this would have a domino effect in all of Latin America. Central to this master plan would be Campo Grande.
But perhaps one of the biggest hurdles standing between Moon and his vision is state governor, Jose Orcirio dos Santos. Known to his followers as Zeca, this popular politician has made it his mission to find out what he calls Moon's true intentions.
韓国メディアが報じた「南米摂理」(前編)
DATE 2014年8月28日
“共同体理想” モデル建設のブラジル・ジャルジン
世界平和統一家庭連合NEWS ONLINE
https://unificationnews.jp/column/1067
韓国統一教会(世界平和統一家庭連合)創立60周年に際し、韓国メディアが南米のブラジル、ウルグアイ、パラグアイを訪れ、真の父母様(文鮮明師ご夫妻)が過去20年にわたって投入してこられた摂理の中心地を取材し、主要な雑誌などで報道されました。韓国メディアが南米摂理をどのように報じたのか、「地球の反対側で新たに注目される『新しい希望農場』の奇跡」と題して「月刊中央」6月号に掲載された記事の要約を2回に分けて紹介します。
(この記事は、『VISION 2020』第32号〈6月30日号〉に掲載されました)
韓国メディアが報じた「南米摂理」(後編)
DATE 2014年8月28日
https://unificationnews.jp/column/1078
ぴょんぴょんの「昼はオニババ、夜マリア」 〜沢田美喜を通して見る、占領時の日本
2021/08/11 11:00 AM
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=284879
ノンフィクション作家 青木冨貴子氏 「戦後70年 語る・問う」(28) 2015.7.30
新刊『GHQと戦った女 沢田美喜』や『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』『占領史追跡:ニューズウィーク東京支局長パケナム記者の諜報日記』などの著作がある青木氏が、沢田美喜さんの話を中心に占領期や戦後の日米関係について話し、記者の質問に答えた。
司会 杉田弘毅 日本記者クラブ企画委員(共同通信)
http://www.jnpc.or.jp/activities/news...
記者による会見リポート(日本記者クラブ会報2015年8月号に掲載)
日本は歴史の検証をしているのか
占領期に米兵と日本人女性の間に生まれた混血児を救うために、エリザベス・サンダース・ホームを開いた沢田美喜。三菱の創始者・岩崎弥太郎の孫娘であり、夫は大戦中に外務次官だった。
昭和の光と陰が凝縮した本『GHQと戦った女 沢田美喜』は、「戦前には巨万の富を持った財閥の令嬢が、混血孤児の救済という戦争の後始末にたった一人で果敢に立ち向かった」物語だ。占領期をテーマにした著者3冊目の本である。
占領軍は混血児を「米軍の恥」ととらえ、「恥の宣伝」であるホームの設立に強く反対したという。沢田はだから「GHQと戦った女」なのだ。吉田茂、ウィロビー、キャノンら戦後を動かした人物が次々と出てくる。そして下山事件。戦後史の裏面に切り込み興味深い。
日本は「歴史の検証をしっかりやらなかった」と言う。米国在住が長いが、その米国は「どんどん悪化し寛大さを失った」。日本への要求も強まるだろう、と予測した。
会見で著者は沢田の1953年のインタビューを読み上げた。「再軍備、絶対反対。戦争の後始末を仕事としてやっている身ですもの、戦争はもうまっぴら」
企画委員 共同通信編集委員室長
杉田 弘毅
エリザベス・サンダースホーム
(Wikipedia)
”1965年には、園児7人をブラジル移民とするべく、沢田自ら引率して「さんとす丸」(最後の移民船)でブラジルを目指すもブラジル政府から上陸を拒否された[4]。その後、1968年に教え子の1人がブラジル政府の黒人移民不歓迎政策を打破して移民し成功している。一方で、沢田美喜の私設秘書を務めていた上海帰りの「殺し屋」と言われた真木一英が、下山事件に絡み、警視庁捜査二課小林刑事に逮捕されている。真木はCIAの協力者であったとの証言があり、同ホームが単なる福祉施設とは言えない面を持っていたと言われている。”
「旧岩崎邸庭園」
ぴょんぴょんの「昼はオニババ、夜マリア」 〜沢田美喜を通して見る、占領時の日本
2021/08/11 11:00 AM
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=284879
ポール・フレドリック・ラッシュ (Wikipedia)
(Paul Frederick Rusch 1897年11月25日 - 1979年12月12日)
ポール・ラッシュPaul Rusch
生誕
1897年11月25日
アメリカ合衆国インディアナ州フェアマウント(英語版)
死没
1979年12月12日(82歳没)
日本の旗 日本東京都中央区明石町
墓地
清里聖アンデレ教会
国籍
アメリカ合衆国
出身校
ルイビル市立大学商学部
職業
教育者、教授、牧師
宗教
キリスト教(米国聖公会)
生涯
1897年、インディアナ州フェアマウント(英語版)で生まれ、ケンタッキー州ルイビルで育った[1]。第一次世界大戦のフランス戦線に兵士として出征[2]。
1923年から24年にかけて、オハイオ州にあるホテルの副支配人を務める[3]。
1925年1月、ニューヨークのザ・ボウマン・ビルドモア・ホテル・チェーンで支配人を目指して働き始めたところ、知人から国際YMCA(キリスト教青年会)の職員としてエルサレムにいくよう勧められ、渡航を決意する。エルサレムへの渡航準備をしていたところ、関東大震災後の東京と横浜のYMCA拠点の再生委員に指名されることとなり、日本への渡航が決まる[3]。
1925年5月3日、国際YMCAから派遣され横浜港に来日し、YMCA再建の仕事に携わる[3][4][1][5]。同年夏、ラッシュは早稲田大学の理事で、立教大学と同じく聖公会が設立したコロンビア大学でM.A.(修士)を取得した田中穂積(後の早大第4代総長)[6]に誘われて軽井沢に滞在、そこでオペラ歌手の藤原義江と出会い、藤原の軽井沢でのコンサートの開催に関与した(翌年には、開業して間もないハリウッド美容室に軽井沢への出店を指導している)[7]。ラッシュは当初、東京YMCAと横浜のYMCA再建の仕事が終わり次第帰国する予定だったが、彼の働きぶりを見ていた立教学院理事長のジョン・マキム主教とノーマン・スペンサー・ビンステッド司祭に頼まれ[4]、1926年5月に立教大学の経済学教授に着任した。当初は1年の約束であった。マキムがラッシュを抜擢した理由は、天性ともいえる組織作りのリーダーシップと面倒見の良さにあった[2]。
ラッシュは、立教大学に着任すると職員寮として五番館が与えられたが、まもなく早稲田大学の商業英語の教授も兼任するようになったため、昼、夜の区別もなく学生のたまり場となる。ここに集まった学生が後に「五番館ボーイズ」と呼ばれ、さまざまな学生活動の母体となった。ラッシュにとって、最初の学生組織づくりとなったのが、1927年(昭和2年)に設立された英語会大学連盟である。それまで慶應、東京商科(現・一橋)、明治、立教、早稲田の5大学でそれぞれ個別に活動していた英語会(ESS)であったが、学生たちに連携を呼びかけ、英語会大学連盟が設立されることとなった。学生発起人の中心となった人物は立教大学の教え子である小川徳治と五番館に出入りしていた明治大学生の松本瀧藏であった。小川と松本はその後、アメリカの大学に留学し、本場で人気スポーツとなっていたアメリカンフットボールを体験したことが1934年、東京学生米式蹴球連盟(のちの東京学生アメリカンフットボール連盟)設立の伏線となった[2]。
ラッシュは、立教大学の教授として経済学や英語の教育を行うとともに、アメリカンフットボールの日本での普及に尽力していくこととなる(詳細は後述)。また山間高冷地で米作に適さなかった清里高原(山梨県北杜市)での酪農、西洋野菜の栽培促進による開拓支援を行った[4]。
1928年から1931年まで、ルドルフ・トイスラーを助け、聖路加国際病院の新病院建設資金の募金活動を行った[4]。病院の募金目標額は260万ドル(現在の価額に換算して約120億円)で、計画は米国内の市民に募金を呼びかけ、集めたドルで東京・築地に東洋一の世界最高水準の慈善病院を建設することだった。この計画は不可能と思われたが、ラッシュはトイスラーの指示に従い、ニューヨークに募金本部を置き、1931年までの3、4年間で見事に計画した額を達成した。その募金活動成功の背景には、聖路加国際病院が米国聖公会の伝道事業であり、大富豪であるロックフェラー財団やモルガン財団が全面的に協力したためであった[2]。ラッシュが日本の若者に残したメッセージに『Do your best and it must be first class.(最善を尽くし、かつ一流であれ)』がある。アメリカンフットボール関係者もよく引用する言葉であるが、この名句は聖路加の募金活動を通じてトイスラー院長からラッシュに伝授されたものであった[2][8]。
1941年の太平洋戦争開戦後もラッシュは日本への残留を希望したが、「敵国人」という立場から認められず、一旦敵性外国人抑留施設「スミレキャンプ」(菫女学院に設置。現在の田園調布雙葉学園[9]。)に収容された[9]後、日米交換船に乗って帰国する[10]。帰国後のラッシュは、滞日体験を買われてアメリカ陸軍情報部(MIS)の語学学校人事課長に就任、日系二世軍人への日本語教育などを担当した[10]。また、米国各地の教会で戦争後の日本救済への支援協力を訴えるため講演活動を行った。戦争終結後の1945年9月10日に再来日してGHQの参謀第2部配下にあった民間諜報局(CIS)に配属される[10][11]。ラッシュは1949年7月に退役するまで日本人戦犯リストの作成や赤狩りに関係した情報収集活動に携わり(詳細は後述)、マッカーサー元帥の理解を得ながら、戦禍で疲弊した日本社会の再建活動に取り組んだ[4]。陸軍在職時の階級は中佐。 ラッシュは、戦時中軍部に弾圧された立教大学、日本聖公会の再生とともに、聖路加国際病院の復興と、アメリカンフットボールや高校野球、清里の復興にも多大な貢献をしていった[4]。立教大学の再生の一つとして1948年には小学校を開設し、小学校から大学にいたる立教学院の一貫教育を実現している[12]。
ラッシュは、米国聖公会の信徒でもあるダグラス・マッカーサーの特別許可を得て、1948年に戦後日本人として初めて海外渡航することとなった八代斌助らをGHQの特権と人脈を駆使して皇室との間を取り持つなど渡航の支援を行った。またラッシュは、立教大学の卒業生であった京都・西陣織で皇室御用達を務めていた高田茂に依頼し、日本の伝統技術を尽くし、英国の伝統様式に則った荘厳なコープ(法衣)とマイター(主教冠)を制作し、ランベス会議に出席する八代からの英国国教会のカンタベリー大主教への贈り物として届けることを手配した。こうした資金は毎日新聞本社にあったセント・ポールクラブでの慈善ダンスパーティなどで調達したものであった。昭和天皇のメッセージとともに日本からの贈り物を受け取ったカンタベリー大主教はことのほか気に入り、1953年6月2日、英国女王エリザベス2世の戴冠式で着用した。かつての敵国民が制作した法衣をまとい、カンタベリー大主教は、エリザベス2世の頭に王冠を被せたのである[2http://www.kcfaold.jp/75th/75th01.html ]。
1979年、聖路加国際病院にて82歳で逝去、亡くなる直前には静養していた八ヶ岳山麓の清里まで第100代カンタベリー大主教を務めたマイケル・ラムゼーが見舞いに訪れた[4]。亡くなった際に1円の私財も残されておらず、所持品は聖書と万年筆、何着かのスーツに加え、パジャマと歯ブラシだけであったという。すべてを日本に捧げた人生であった[2][4]。遺骨は現在、清里聖アンデレ教会納骨堂に安置されている。
日本でのアメリカンフットボールの普及
略
その他スポーツの普及と高校野球・夏の甲子園大会の復活
略
GHQでの活動
前記の通り、太平洋戦争後の1945年から1949年まで、GHQ・G2の民間諜報局(CIS)に所属した。春名幹男の著書によれば、民間諜報局で文書の編集課長をしていた[19]。G2に残された石井ファイル(731部隊隊長だった石井四郎元中将の取調及び免罪工作に関与する文書)には、ラッシュの名前が記された文書が多数残されている。そのことから、春名はラッシュが免罪工作に関わっていたと考えている[19]。このほか春名は、ラッシュが有末精三らを通じて、公職追放者の個人資料収集、戦犯訴追資料として原田熊雄日記(『西園寺公と政局』)の発掘と翻訳(里見弴や吉野源三郎が担当)、吉田茂・白洲次郎・松本重治・片山哲・森戸辰男・福島慎太郎らとの人脈形成などをおこなったとしている[19][20]。
ラッシュは外交官の沢田廉三・美喜夫妻が麹町に所有していた邸宅を接収し、ここをCISの拠点「CISハウス」として使用した[20]。CISハウスには戦犯訴追に関する個人情報が集められ、戦犯リストが作成された[20]。ラッシュには寺崎英成をはじめ政府関係者が接触し、「戦犯を作り出すより、頼まれてもみ消す方が多かった」とされる[21]。
また、1946年1月以降は「日本共産党に関する情報収集」に当たったとされる[21]。加藤哲郎によると、ラッシュは上司に当たるチャールズ・ウィロビーとともに、中国革命に好意を示すジャーナリストを告発する赤狩りの一環としてアグネス・スメドレーを標的としたゾルゲ事件の調査に携わった[22]。1947年8月にCISが作成した報告書について、加藤哲郎はラッシュが作成を指揮したのではないかと推定している[23]。さらに、1949年にはスメドレーに関する情報収集の一環として、戦前に上海でリヒャルト・ゾルゲと関わりのあった川合貞吉を情報源として尋問した[24]。このあとG2は川合に情報源としての報酬を与え、日本の警察とも連携して保護警備し、G2と日本警察は川合が個人的動機で共産党の内情と伊藤律を誣告した内容をも「活用」することとなった[25]。