〇ロバにのって入城されたイエス様
イエス様がエルサレムへ入城された日は日曜日、つまり復活される一週間前だったとされ、現代でも教会でパームサンデー「棕櫚の主日」と呼ばれます。
当時のユダヤ人たちは、イエス様を政治的なメシア(ローマ帝国の支配から解放してくれる王)として期待し、王を迎える詩編118編25-26節を大声で叫んで、ナツメヤシの枝を持ってイエス様を迎えました。「ホサナ」とは「今、救って下さい」の意味ですが、転じて賛美の叫びの定型句となったと言われます。群衆はこの詩編に「イスラエルの王に」というのを付け加えています。この群衆の中には、イエス様がラザロをよみがえらせた奇跡を目撃し、そのことを人々が「証をしていた」、新改訳では「そのことを証し続けていた」のが記されています。彼らは自分たちが見た驚くべき奇跡を行ったイエスがエルサレムに入ると聞いて、他の人々に繰り返しそのことを伝え、それを聞いた人々も共に、大興奮でイエス様を出迎えたのです(17-18節)。彼らはイエス様に政治的な王、つまりローマ帝国の支配から解放する王として期待していたので「イスラエル王に」と叫んだのです。以前に5千人に給食をした奇跡の後、ガリラヤの人々はイエスを地上の王にしようとして、イエス様は即座に彼らから逃れたことが記されています(ヨハネ6:15)
ヨハネ福音書記者は他の福音書が記すように入城する前に準備されたロバではなく、14節でエルサレムの群衆の歓喜ぶりを見た後、イエス様は「ロバの子を見つけてそれに乗られた」と記しました。それはイエス様は、「私は凱旋から戻る軍馬に乗る王の様ではない、あなたがたが期待しているような王としてエルサレムにきたのではない」ということを強調するかのように、その場でロバを意図的に調達したように記しています。そしてこのロバ入城は、これはゼカリヤ書9:9「見よ、あなたの王が来る。…高ぶることなく、ロバに乗って来る」と書かれてある預言の成就であることを記しています。イエス様は実際王であられますが、この群衆が期待してた政治的な王、イスラエルのためだけの王ではなく、いやそれ以上の王、平和と義ですべての民を治める王であります。
〇世を上げてイエス様について行く
イエスのメシアとしての入城とその群衆の大歓迎を見て、「見よ、何をしても無駄だ。世を上げてあの男について行ったではないか」(19節)とファリサイ人はイエス様の殺害決議を直ちに固めていきます。 「ホサナ」と叫んで、メシアとしてイエス様を迎えた群衆は、この5日後に「十字架につけろ」と叫ぶ群衆へと変わってします(ルカ23:18-25)。マルコ福音書15:11-15に、祭司長たちが群衆を扇動していたことが記されています。群衆というのはなんと他者に操作されやすい存在なのでしょうか。
現代では、よく調べもせずSNSの情報に簡単に操作されて、ある人々を誹謗中傷もしくは熱狂的に支援するような人々がまさに、群衆ではないでしょうか。そして正しい裁きを行うよりも、群衆の声を恐れて、十字架刑を執行させてしまうローマの総督ピラトのように、現代でも自身の名誉、所属している団体、行政機関のために、事実を隠蔽・捏造してしまう人々がます。また自分たちの正義を掲げて、他国へ侵略し、戦争を行う国もいます。戦争がもたらす全てを破壊し、多くの人々の命を奪うという、人間の罪深さという悲しい現実に私たちは心を痛める日々です。
どうしたら、正義と平和がもたらされるのでしょうか。残念ながら、人間は罪があるゆえに、人の命よりも利益を優先する人々、国のリーダーがいる限り、決して自分たちの思いや力、行動だけでは平和をもたらすことはできないのです。人間は武器により安全保障、平和を得ようとしますが、それは戦争の繰り返しとなることは歴史が示す通りです。それに対する草の根レベルの平和運動、活動は素晴らしいことですが、それを飲み込んでしまうような、国のリーダーたちの暴力行為は権力を伴って、猛威を振るいます。
わたしたちはみな、人間の力の限界を知り、自身の高慢に気づき、神様から離れていたことを悔い改め、創造主である神様を信じる信仰が必要です。主イエス様こそ、私たちを罪と死から解放するために、十字架刑という、残酷な処刑を私たちの代わりに受けて、ご自身の命を犠牲になさって下さいました。そして復活されて死に勝利され、御子イエスを信じる私たちに、永遠の命を与え、神の子供として下さり、新しく生きる者として、新しく創造してくださったのです。今は、悪がはびこっているように見えても、今も神様がすべて治めておられ、最終的には御子イエス様が王として、正義と平和、そして愛でこの世を治められる、これが私たちの希望であります。
ファリサイ派の人々がどんなに群衆を扇動して、イエス様を殺して成功したと思っても、彼らは神様の救いの計画を止めることが結局できませんでした。イエス様は死なれても、復活され昇天されて、聖霊が信じる人々に送られ、聖霊の力で復活の証人が全世界へキリストの福音を宣べ伝え、多くの民がキリストを信じて、ついていくようになるからです。皮肉なことに、ファリサイ派の人々のこの叫びは、ユダヤ人だけでなく、全世界の人々がキリストについていくことの預言となります。そして、この世がどんなにキリスト教を迫害しようとも、終わりの日に向かって進んでいる神様の救いの計画の完成を何をもってしても止めることが出来ないということを、私たちは信じて行きたいと、神様の御言葉の約束により励まされていきたいと願います。
〇諸国民の民に告げられる平和
イエス様こそ、平和の王であります。イエス様はゼカリヤが預言した来るべき王に関する預言に倣い、平和の王を象徴する姿で都へ入城されました。そしてゼカリヤ書9:10
「諸国民の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てまでに及ぶ。」
とあるように、王であるイエス様はすべての人の救い主として、また平和の実現ために来られ、その支配は地の果てまでに及ぶという、神様の救いのご計画がゼカリヤ書に預言されています。イエス様がもたらす平和は、ご自身の十字架の死と復活による、罪と死に対する勝利によります。イエス様は罪深いすべての人間の罪をすべて負い、十字架で過越しの祭りで屠られる小羊として苦しみを私たちの代わりに受け死んでくださることで、私たちの罪が赦され、神様と交わりをもつことを可能にして下さいました。そして、私たちに平和を与えられ、私たちはもはや、イザヤ書の預言に示されるように、
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣をあげず
もはや戦うことを学ばない」 イザヤ書2:4
(この言葉は”Isaiah wall” in United Nations, Head Officeにも記されている)
終わりの日には、全ての民「国々がこぞって大河のように」(イザヤ2:2)神様を信じて礼拝に上ってくる、そして完全な正義であられる神様が諸国民を裁くので、人間同士で争うことがない、これが平和の実現であると、イザヤは預言しています。
イエス様は、そのような神の国での王、メシアであることを人々は理解できませんでした。弟子たちも、イエス様が十字架、復活、昇天と栄光を受けられて初めて、思いだしたのです(12:16)。聖霊が思い起こさせてくださるからです。
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしのなによってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことどとく思い起こさせてくださる。わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。怯えるな。」(ヨハネ14:26)
そして、イエス様が平和を与えてくださると約束されます。イエス様が与える平和はこの世が与えるように与えないと。どのように平和が私たちに与えられるのでしょうか。
〇神との間の平和、そして人々の間の平和
私たちに平和を与えられる仕方は、まず人間がキリストの十字架の贖いにより、罪を赦され、主イエスを救い主として信じることで義と認められ、神様との間に平和を得させていただくことです。私たちは罪のゆえに神様から離れ、神様との関係が断絶してしまいました。そんな私たちを救う為に、キリストを通して救いの道を開いてくださったのです。パウロがローマ5:1-2で
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵に侵攻によって導きいれられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」
さらに 2コリ5:18-19で
「これらすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自身と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです」
神様は、イエスさまを通して私たちに救いを得させ、永遠の命を与えてくださいっています。さらに、他者に対してもこのキリストの平和の福音を伝えるように、和解のために奉仕する任務をも授けられたとパウロは記しています。この和解の任務こそ、キリスト者が人々の間の真の平和に仕える道であると、信じています。
私たちにとって平和とは、神様と共にいるということであり、私たちは十字架のイエス様の贖いによって、インマヌエル「神はわれらと共におられる」を経験することができ、互いに平和を持つことができます。
来週はイースターです。イエス様は復活されて、弟子たちの間に現われ。最初に言われた言葉が「あなたがたに平和があるように」20:19・21と2回言われました。イエス様を通して示される神様の深い愛を感謝しつつ、諸国民の平和の預言が必ずいつかなることを信じ、今のような不穏の時代にこそ、キリストの弟子として私たちがキリストの福音を、神様の愛と平和を周りの方々に伝えていきたいと願います。
(引用:新共同訳聖書)