「火事だ!」夜中の1時半ころ、寝ていた私を夫が起こしました。2階の窓から見ると、ものすごい勢いで教会から約100m前方の家が燃えていて、そこから火の粉が風であおられ、火が迫っている光景が目に飛び込んできたのです。火元の小さな平屋はあっという間に燃え尽き、何台もの消防車による消火活動をもってしても周りの住宅に次々と延焼していきました。火は2時間ほどで消し止められましたが、この火事で7棟が燃えてしまったのです。こんな近くで火事が起こりショックでしたが、幸い火事の場所と教会が立つ区域の間には更地があって、火がこちらに及ぶことはありませんでした。しばらくの間、火が早く収まり、住人が救助されるようにと祈りながら、次々と周りを焼け尽くしていく火を見つめていました。火の恐ろしさを改めて実感しました。
一方、火の力は精練に用いられます。原料鉱石から金・銀などを抽出し、純度の高いものにする過程で火を使います。高温の火で炉を燃やすと、中に入っている鉱石から不純物が取り除かれます。一般に「精練される」とは、人が何かのために十分訓練される表現にも用いられます。聖書の中には信仰の試練のことを火で精錬することに譬えられています*1。
試練を好む人は誰もいないと思います。しかし、神様は時に、私たちの内側にある不純物を取り除き、信仰を成長させるために試練を与えられます。その痛み、苦しみ、悲しみは神様の計画の中にあり、意味があるものと後になって分かるかもしれません。イエス様は私たちを十字架と復活を通して、罪から救う為にこの世に来て下さいました。私たちはただキリストを救い主として信じるだけで、ありのままの自分で救われます。そして信じた後、徐々に私たちの信仰を成長へと導き、内側を変えて下さります。火による精練を受けた信仰は、モーセが神様から召命を受けた時見た「燃える柴」*1のように、炎の中で燃え尽きないで残ります。わたしたちの人生から不信仰、怒り、争い、むさぼりなどの心が焼き尽くされ、慈愛、寛容、親切、自制というキリストの性質が聖霊により私たちの心に形作られていくための精練の火。洗礼者ヨハネが証した、イエス様が与える「聖霊と火によるバプテスマ」は、まさにこのことを表しているのだと思います。
励ましは、神様は試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えて下さるという約束です*3。神様は私たちに試練を与えて、放っておかれる方ではなく、逃れる道を備えて下さる方であることを信じ、神様に全て委ね、大変な時期を乗り越えられるよう互いに祈っていきたいと願います。
「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
マタイによる福音書3章11-12節 (「その方」とはイエス・キリストを指す)
*1 ペトロの手紙一 1:7、イザヤ書48:10
*2「あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼(モーセ)が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」出エジプト記3章1-2節
*3「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:13