〇パウロが記したコリントの教会への手紙
本日の箇所コリント信徒への手紙2は、パウロがコリントの教会宛てに記したいくつかの手紙の一つで記録として残っている手紙であり、新約聖書の正典とされています。パウロがコリントへ宣教旅行に行き、約1年6ケ月滞在して人々に神の言葉を伝え(使徒18:11)、コリントの教会が建てあがりました。その後、いわゆる偽使徒たちが彼らを惑わし、パウロが宣べ伝えたキリストの福音と異なったことを伝え、さらにパウロが使徒でないという、パウロの権威に対する中傷を言っていたことが、手紙の内容より知ることができます。従って、パウロは他にたくさんの手紙を記していますが、コリント信徒への手紙はパウロが使徒であることの弁明、つまりパウロ自身のことについてが多く語られています。パウロはコリントの信徒達がパウロにつく、アポロにつくと教会内で分派が起こり、道徳的倫理的にも外れたことをしている人を容認していたりと、多くの問題を抱え、パウロに批判的な態度をとっていたようですが、それでもパウロは彼らに手紙を通して、愛を持って親が子を諭すように、正しい福音をもう一度伝え、神様の恵みに留まるように勧めています。
〇神の恵みを無駄にしないこと
6章1節の直前、5章では、パウロは、神様がキリストによってご自身とわたしたちを和解させていることを受け入れてくださいと、和解のために奉仕する任務を与えられている者として、コリントの信徒たちにお願いしてます。和解とは仲直りのことで、以前は私たちは罪のゆえに神様と敵対し、離れていた者でしたが、キリストの十字架の死と復活のおかげで、私たちは罪が赦され、神様との正しい関係、交わりを持てる関係、親子関係にしていただいたということです。その救いの御業を和解とパウロは言っています。
したがって、パウロは続けて、自分たちはすでに神様と和解をさせていただき、さらに和解をしていない人々に神様の和解の言葉をゆだねられた、神の協力者として「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と1節で述べています。コリントの信徒の人々は神様から恵みを無駄にしていたのでしょうか。無駄とはどういう意味でしょうか。神様の恵みというのは、それを受けとる者が恵みとして認識しなければ、恵みでなくなります。例えば、私たちの生活で、今の職場、職業が自分が努力して、自分が切り開いた結果得ている地位であると思う人は、それは恵みではなく成果、功績と認識されています。神様はちょっと手伝うだけの存在で、基本は自分のおかげだと思う人は、神様から与えられた恵みだと思わないし、感謝もないでしょう。努力することが悪いという意味ではなく、今の自分がすべて神様の恵みによって生かされているという信仰が持てるのは、キリストが命をかけて、私たちの救いを成し遂げて頂いたことを心から信じているかどうかによるでしょう。実はわたしたちは、社会的にすべて成果主義で小さい時から育てられてきていることにお気づきでしょうか。努力して、良い成績、偏差値に達し、良い大学、良い就職先、そして良い給料を得るためにキャリアを積み、階段を一歩一歩登って行く構図です。その構図からはみ出すと、その人は負け組と言われたり、努力出来ない者は見下されるという社会に育ってきています。世の中では成果主義、因果応報的考え方に支配され、自分がしたことでのみ、結果がともない、すべて責任をとらされると考えるので、様々な事によって引き起こされる不安といつも向き合い、もっともっと上を目指さなければという限りのない成果主義への脅迫観念、もしくは逆の現象、何をしても無駄だから諦めようという希望が持てない状態の中で生きることになります。人間は神様が必要です。人間だけでは生きていけない存在であること、神様が人間を愛するために創られたことを聖霊によって、信じることが出来るのは、本当に幸いです。
〇神様の恵を受けていることに気が付けばすべてが変わる
この植え付けられた成果主義精神は、キリストの救いを受けた後も、すぐに変わらない場合があります。なぜなら、教会の中でも、奉仕しないと、献金しないと神様に認められない、よいクリスチャンにならなければと努力することで神様に認められると考えてしまう、また自分だけがそうするのではなく、その物差しで他の方々を見下したり、批判したりことはいないでしょうか。常に他者と比較して、自分は働いていない、あの人は奉仕していないとして、自身をあの人よりましだと上げたり、他者を見下したりするくせがついているのです。それらを全て突破し、そのようなメンタリティから解放されるには、すべて神様の恵みであるという認識が必要であり、御言葉を常に読み、気が付かされて、悔い改め、神様の恵みであることをもっと知っていくことにより、変えられていくでしょう。恵みが分かれば分かるほど、神様への感謝が日々増し、自分の古い考え方は消えていきます。
わたしたちは、働きがなくとも、神様によって愛され、救いを受けとることができる、それがキリストの福音、良い知らせです。ただし、その神様の恵みは無償で、何も私たちに信じること以外要求しないからといって、安い恵みではありません。神の子イエス・キリストの命が代償となっているほどです。神様の恵みは豊かでありますが、すべてキリストのおかげで恵みとしてわたしたちは救いを受けとり、神様の子供とされて、この地上を歩むことができます。
信仰を与えられている私たちも、日々神様の恵みをどれだけ認識しているでしょうか。恵みを恵みと認識しなければ、キリストが十字架で犠牲になってまで与えようとしている神様の豊かな恵み、プレゼントは無駄になります(1節)。よって、パウロは、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に私はあなたを助けた」(2節)イザヤ書49・8から引用し、今が恵みの時、今こそ救いの日であると述べています。今、なのです。過去に救われたと、過去だけでなく、現在も救われて、恵みの日が日々、将来の救いの完成の時まで続くのだとパウロは意味しているでしょう。
神様の恵みが分かれば分かる程、神様が共にいて下さること、その助けが常にあるという救いの確信がもっと与えられます。それは左右の手に義の武器を持つと表現され(7節)、キリストの十字架と復活により、私たちに神様との正しい関係が与えられている状態を示し、どんな状況においても忍耐を持って対処し、神様の力によって神様の愛を他者に示すことができます(6節)。
パウロは神に仕える者は様々なことがおこるけれども、神様の真理の言葉と神様の力によって、大いなる忍耐をもって対処し、さらに愛の実を結ぶこともできると記しています。それはパウロが自身の体験から語っています。パウロはあくまでも自分のしてきたこと、苦難を耐え忍んできたことを述べるのは自分自身を誇るのではなく、かえって自分の弱さを誇ろう、なぜならその弱さの中に神の力が働かれるので、どんな状態でも満足できると(2コリ11・30、12・9-10)、「誇るものは主を誇る」と言っています(2コリ10・17)。
私たちは目の間に見える人々に仕えていても、感謝されるとは限りません。しかし神様に仕えていると信じることで、人の評価に左右されなくなります。人間というのは他者に評価してもらう、承認要求というものを持っています。いまのSNSでは顕著です。自分を認めてほしい、いいねをつけてほしい、誰かネットの上の知らない人でもよいので、自分を認めてほしいという思いが今のSNSの普及の根底にあります。残念ながら、対面での人間関係において、必ずしも自分に良い評価を与えてくれる人ばかりでなく、かえってきついことを言われたり、傷つくことを言われます。SNSの人は、対面でそういう扱いをされるのを恐れ、ネット上ならば間接的に回避できると思いつつ、しかし誹謗中傷されてしまい、そこでSNSをやめればよいのに、どう批判されているのかを確かめたくてSNSをやめられないと、悪い循環となっています。
もし、そのような承認要求を求めている人が、SNSではなく、目に見えなくとも私たちを愛してくださる神様から、ありのままで認めて、愛されている、恵みを与えようとしてくださっていることを信じれば、どれだけ人生が変わることでしょうか。
〇霊の戦い:義の武器を持って
私たちは、世の中に生活しているとどうしても世の勢力、考え方に影響されます。しかし、それらに対抗するという、霊の戦いを意識したいと思います。私たちの戦いは人間ではなく、悪の勢力との闘いです。悪に支配されているその人間と戦うのではなく、その背後の神様から人間を引き離そうとする悪魔的な勢力、それが合理的で合法的であっても、それらから身を守らなければなりません。そのために、パウロは「左右の手に義の武器を持ち」(7節)と記しています。これは義の武器とは、義とされている、つまり神様と正しい関係にされているという状態を武器にして、様々な困難や、誘惑、自身を世の中的なことに引き戻そうとうする誘惑から守れという意味です。日々の生活の中で、霊の戦いを神の武具で戦うという意識が必要でしょう。エフェソの信徒の手紙で霊の戦いについて、記されています。(エフェソ6:10-18)わたしたちは自身が霊の戦いの中にいると意識していないと、いつのまにか敵の火矢が体に突き刺さり燃えてしまう、つまり罪に対する誘惑に負ける可能性、罪に加担してしまう脆弱な状態となります。神の武具をつけて戦い、自分を守るなければなりません。自分が負傷している状態で、他者のために戦えないでしょう。自分自身を霊の武器で防御してはじめて、敵からの火矢で燃やされ傷つけられている他者を、わたしたちが御言葉の剣で戦って、助けにいくことが出来るのです。それには祈りが必要だと記されています。祈りも霊の戦いの重要な武器であります。御言葉の剣で積極的に戦います。つまり御言葉を思い返し、神の言葉の約束、神の愛とキリストによる救われていることをもう一度確認する。聖霊の導きに従い、人の評価を気にせず、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の愛によって、神に仕える者としての態度を外に表わしていく。神の力がこれらを助けてくれる。
わたしたちは、神様の恵みを日々頂いていることを確認し、そして神様へ感謝しつつ、何をするにもすべて神様に対して行うという信仰に固く立ち、神様に仕える者として、弱い自分も信仰の大盾で守られつつ、他者の救いのために執り成しの祈り、霊の戦いにおいて他者に仕える、その実を示すことが出来るよう祈り求めましょう。
(新共同訳聖書引用)