〇ご自身の3度目の受難予告
本日の箇所は、同じ記事をマタイとマルコの福音書で載せていますが、それぞれマタイでは「二人の盲人」となっていて、マルコでは「バルティマイ」という名前を載せていますが、ルカによる福音書では名前を載せず「ある盲人」としています。そしてルカはイエス様が盲人の目を見えるようになさった奇跡をご自身の受難予告の直後に記しています。
「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。』 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」(ルカ18:31-34)
弟子たちが「この言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」ことを記して、実際、後から彼らは理解できるようになる、つまり、イエス様が復活されてから弟子たちに現れ、弟子たちとまた弟子たちを通して福音を聞いて信じる人々の「心の目が見えるようになる」、つまり理解出来るということをあらかじめ表すために、身体的に目が見えるようにしていただいたこの盲人の出来事とその喜び(神を賛美し、イエスに従う)を続けて記すという意図がルカにはあることを読み取れます。
〇「憐れんでください」と叫ぶ盲人
ある盲人が道端に座って物乞いをしていたと記されていて、生まれつき目が見えないのか、病気による中途障害なのかわかりませんがいずれにせよ、当時身体に障害があったり、病気により働けない人は物乞いをするしか生きる術がありませんでした。また社会的にも、当時ユダヤ教のシステムでは、祈り、施し、断食がなすべき三大宗教的奉仕項目であり、それが社会福祉制度の代わりとして機能し、人々はこのような人々に施しをしていました。この人は大勢の人々が通っていく音を聞いて、これは何事かと聞きます。すると「ナザレのイエスのお通りだ」(37節)と言われます。これは「ナザライのイエスが通り過ぎる」が直訳です。彼はイエス様がガリラヤで大勢の盲人を見えるようにされたという噂を聞いていたことでしょう。メシアが盲人の目を見えるようにするということについて、ルカはイザヤ書から引用しています。
「主の霊が私の上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために 主がわたしに油をそそがれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、 主の恵の年を告げるためである。」ルカ4:18-19
そしてイエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」(ルカ4:21)とご自身で言われています。聖書はどのようにこの盲人がイエス様のことを知ったかを詳しく記していませんが、とにかく彼は盲人の目を開けるというメシアが現れて活動している、もしかしたらこの近くにも来るとずっと待っていたのかもしれません。そしてとうとう、その方が今近くにいるということを聞いたのです。そして、自分でイエス様のところへ出かけていく術がない彼にとって、今がチャンスだと、どこにイエス様がおられるかわからず、通り過ぎて行ってしまう前に、とにかくイエス様に聞こえるように大声て、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。
当時の人々がイエス様に「憐れんでください」と叫ぶ時、どの場合も実際的な助け(行動)を求めている、「助けて下さい」「救って下さい」という意味がこめられているのが、福音書の癒しの記事よりわかります(例えば、マタイ9:27-37二人の盲人@ガリラヤ、マタイ15:22悪霊につかれた子供のカナン人の母親、マタイ17:14てんかんの子の親)つまり、憐れむとは、かわいそうと思われるだけでなく、具体的行動を求めている叫びなのです。たとえ、弟子たち、人々たちに「黙れ」と𠮟りつけられ、阻まれても叫び続けたのです。今まで障害のゆえに物乞いをして生きるしかなかった彼の抑圧された思いがほとばしり、唯一の望みにかけた瞬間だったのでしょう。
その叫びを聞き、イエス様は立ち止まりました。そして傍に連れてくるように命じ、彼が近づくと、「何をしてほしいのか」と本人と対話をなさいました。「主よ、目が見えるようになりたいのです」、そこでイエス様は「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」(42節)とのお言葉で盲人の目を開かれました。「見えるようになれ」は「しっかり見なさい」というのが別訳です。たちまち盲人は見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従ったと記されます。彼は、癒された後、イエスに従って、エリコからエルサレムまでイエス様たちと同行し、エルサレムの入場の時「ホサナ」と叫び、メシアの到来を心から喜んで、神を賛美した人の一人になったことでしょう。この盲人の喜びは私たちの想像を超えます。
〇イエス様は心の目が見えるようにされる
イエス様はルカによる11章33-36節で、体のともし火は目であることを言われています。目が澄んでいれば体全体が明るいし、目が濁っていれば体も暗いと言われています。このことは心の目のことと関連しています。心の目が見えていればイエス様の光を見ることができ、その光を心に取り込むことができます。イエス様のみ言葉は人を救う光であり、私たちがその光を持っています。そして、私たちが持つキリストの光を見えないように穴蔵や升の下に置くようなことをしていないか、光が消えそうになっていないか心を探りなさいと言われているのでしょう。
弟子たちがイエス様の受難予告を聞いてもその意味が分からなかったのは「心の目」が見えず、また「隠されていた」(34節)からでした。ルカの24章で弟子の二人がエマオへの途上にて復活されたイエス様に出会ったは記事は、イエス様とエマオまで一緒に歩いていても、イエス様だと分からなかった。しかし、イエス様が道々聖書を説きあかされると彼らの心は燃え(32節)、共に宿に泊まり、イエス様がパン裂きをなさったことで二人の目は開かれ、イエス様だと分かったと記されています(ルカ24:31)。彼らは目が見えていても、心の目は見えていなかったのです。しかし、彼らの心の目が開かれて、復活されたイエス様を見ることができ、なぜイエス様が十字架の苦しみと死を通らねばらなないのか、その意味を理解できるようになっていくのです。
本日の目が見えない人はイエス様に見えるようにしてほしいと、そのイエス様を信じる信仰により癒されました。彼は最初は、今の現状から救ってほしいというシンプルな、しかし切羽つまった願いでイエス様にお願いして癒して頂きました。もし、そこで終わってしまったら彼の心の目は開かれず、魂の救いを受け取ることができなかったでしょう。イエス様の奇跡は、奇跡の凄さだけで救いをもたらすのではなく、イエス様の救いの御業へ導くしるしであります。現代でも、ある人が最初は病気、失業、大切な人を失った悲しみ、貧困などで救いを求めて、聖書に触れる、もしくは教会に友人から誘われていくかもしれません。それらの苦難は心の目が開かれるきっかけとなりえます。御言葉に触れるようになり、最初の具体的な助けを求めること以上に、その方が本当に必要なこと:自身の罪、つまり自分が神様から離れていることに気が付く。
私たちが励まされるのは、たとい自分のうちに疑いがあったとしても、イエス様にお願いすれば助けてくれるという、シンプルな信仰で叫び、イエス様はその叫びを聞き、この盲人のように私たちと対話し、働きかけて下さります。そして、そのことをきっかけに、イエス様は神様の救いを受けとれるよう心の目を開いて下さります。御言葉を通して信仰に導かれる、つまりイエス・キリストのよる十字架の贖いにより自分が罪が赦され、聖霊が与えられ、神の子供として新しく歩むという魂の救いへと導いて下さる方です。
私たちが自身の人生を振り返って、どのようなところから救われたかを思い返すとき、幾度かの試練があり、困難な状態を長年背負って生きてきたならば、この「ある盲人」の奇跡を自分の人生に重ねることが出来るのではないでしょうか。私たちは神様に心から叫び、神様はかわいそうに思って下さり、物理的にその状態から助け出された、解放された経験があるかもしれません。もしくは、状況は変わらなくとも、私たちの心が変えられて、神様の恵を新たに味わえる、恵みと認識できる心の目を開いていただき、感謝の心を持てるようになったかもしれません。ましてや、聖書に記される神様の愛を知らずにこの世の中に生きてきて、社会の中でどうしようもなくて絶望している人々、諦めてしまっている人々、望みがなく刹那的にただ日々必死に過ごしている人々がいるとしたら、その方々が救い主であるイエス様を知り、心の目が開かれて信仰が与えられ、人生が変えられたらどんなに素晴らしいことでしょうか。
私たちは、そのような奇跡が他者に起こることをまじかで見たいと切に望みます。なぜなら、私たちは復活の主に出会って、キリストを信じ、その復活の命の影響によって、新しい命に生きる者とされています。すると、私たちの生きる目的は、もはや自分のために生きるのではなく、主イエス様こそは自分にとって主であり、自分の人生を主に委ねようと自発的に思えるようになります。生きる目標が主のために、神様のご計画がなるようにと考えるよう、内に住む聖霊が導かれるからです。そして私たちは喜びで満たされるでしょう。その喜びとは、心の目が開かれて光であるキリストが見えるようになるという喜びです。この救いの喜びをもって、イエス様を知らない人々が暗闇から、光であるイエス様の方へ導かれ、救われることを切に祈り求めて行きましょう。 (引用:新共同訳聖書)