〇イエスがヨハネから洗礼を受けられた理由
イエス様の受けられた洗礼の理由については様々な解釈があります。神の子が罪ある人々、わたしたちの一人となって、共に歩んでくださるため、バプテスマを受けられたとされます。イエス様は人となられた神の子ですから、罪がないので、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」(ルカ3:3)をヨハネから受ける必要はありません。よって、聖霊により洗礼者ヨハネはイエス様が「わたしより後に来る方、わたしより優れておられる」(11節)方だと分かり、「わたしこそ、あなたから洗礼をうけるべきなのに」(14節)とその申し出を止めようとしました。しかし、イエス様は「今は、とめないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(15節)と言って、ヨハネより洗礼を受けられました。つまり、イエス様が洗礼を受けられたことには更に意味があったのです。
15節「正しいことをすべて行う」を直訳すると、「義を全て満たすこと」となるそうです。(英語訳では “to fulfill all righteousness”、NIV)人間は罪のゆえに神様との関係が失われてしまいました。そんな人間が「義と認められる」とは、この失われた状態が神との正しい関係にされることを意味します。イザヤ書は53章11-12節にこう預言しています。「わたしの僕は多くの人が正しい者とされるために彼らの罪をみずから負った。…彼がみずからをなげうち、死んで 罪人の一人に数えられたからだ」
この預言がイエス様によって実現していることがわかります。つまりイエス様は、人間を義なる者にしようとする神様のご計画、イエス様の宣教の開始を示すため洗礼を受けられたことをマタイは記しているのではないでしょうか。
〇義を全て満たすこと
では、イエス様が全ての義をどのように満たされるのでしょうか。それはイエス様の十字架と復活を通してなされる救いの業によって、私たちが義とされる、つまり神様との正しい関係にされます。私たちはただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
つまり「義」とは、神様から与えられる義であり、神様にしかない義です。神の義は、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより何の差別もなく、無償で義とされるとパウロが記しているとおりです。パウロは自分の義ではなく、使徒パウロも自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義のことを記しています。
「キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ 3:9)
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:21-24)
〇これは私の愛する子
そしてイエス様の受けられた洗礼が明らかに他と区別されることが続いて記されています。イエス様が洗礼を受けた時、天がイエス様に向かって開き、神の霊が鳩のようにイエス様の上に降って来て、天から声が聞こえました「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」。これは、マタイ12:18「見よ、私の選んだ僕。私の心に適った愛する者。この僕に私の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。」でイザヤ書42章の引用し、この預言がイエス様によって実現したことをマタイは記しています。
「私の選んだ」の「選ぶ」の語は愛する、選ぶ、支持するという意味があります。また同じ言葉を山上でイエス様の体が変貌した時も、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」が雲の中から聞こえたことが記されています(マタイ17:5)。イエス様が神の御子であることを、神様が証言しておられます。
〇私たちが受ける洗礼
主イエスご自身は弟子たちを宣教に遣わすにあたり、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(マタイ28:19)と言われ、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)と言われました。私たちが神様の前に罪を悔い改め、キリストが罪からの救い主であると信じたとき、洗礼を受けます。洗礼は公にこのことを口で告白し、象徴的に水に浸ることで、古い自分のお葬式、新しい命に生きる自分の誕生日だからです。パウロは、ローマの信徒への手紙6章4節で、こう述べています。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
使徒ペテロは他の弟子たちと共にエルサレムで聖霊の力を受けて、ユダヤ人たちにキリストの福音を伝え「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒2:38)と言い、その場で3000人が信じたと記されます。
私たちはキリストの死と復活に預かり、新しい命に生きるために、洗礼を受けます。ですからヨハネの洗礼と、私たちが受ける洗礼とは区別されます。パウロがエフェソに伝道旅行へ行ったとき、その地で弟子が数人いて、彼らはヨハネの洗礼しか受けていないことを聞くと、ヨハネの洗礼とイエス様を信じて受ける洗礼との違いを彼らに説明しています。(使徒19:2-7)
「彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。 パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。 そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」 人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。」
洗礼者ヨハネの洗礼はイエス様の宣教の準備のため、人々がイエス様を信じるように、悔い改めの洗礼を授けていました。3:11でヨハネがイエス様の洗礼について
「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
と証言しています。イエス様は、私たちがイエス・キリストを信じて、聖霊と火による洗礼とは、わたしたちの内側をきよめ、全く新しくして下さることをヨハネは証していると思います。
〇御霊を受けて
信仰を告白し、洗礼を受けた者には聖霊が与えられ、心に住んでいます。聖霊を受けた人は、その人を通して聖霊が働かれて、外側に現れます。聖霊によって、私たちは天の父を「アバ」(お父さん)と呼べる関係に変えられています。そして私たちは聖霊の実を結ぶように内側が変えられます。ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節に「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」と聖霊の結ぶ実が記されています。これはキリストに結ばれているゆえに、御霊の実を結ぶことができるということです。もちろん、一晩で自分の性格や性質が一変するということはありませんが、徐々にキリストのように変えられていくという希望があります。パウロはガラテヤ3章26-27節で、
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」
と言っているように、洗礼を通してキリストに結ばれることを「キリストを着る」と例えられています。私たちは聖霊により御霊の実を結べるように導かれます。それにはただ、キリストに結ばれていればよいというのに励ままされす。
ローマの信徒への手紙8:14 「神の霊に導かれる者は皆、神の子なのです」
私たちは御子イエスによって救われ、聖霊が与えられ、その聖霊によって導かれて生きる、神の子供として神様に愛されています。わたしたちも日々神様の御心に適う者でありたいと祈り求めます。
(新共同訳聖書 引用)