今まで神様はモーセに言葉を通して、約束の内容、励まし、神の力の顕現を示されました。これからは神様がエジプトにしるしと奇跡を繰り返し、神の裁きを通して「エジプト人が私が主であることを知るようになる」(7:5)とモーセに言われます。そして、神はモーセを「神の代理人」とし神の権威を委託し、アロンを「預言者」とし、つまり神の口の代わりに語る者とすると言われたので、モーセはファラオに対して、堂々と、威厳を持った態度へと変えられていきます。
当時エジプトにはたくさんの神々がいました。ナイル川も神聖な川で礼拝の対象であり、コブラ、ハゲタカ、蛙もワニも神とされてきました。そしてファラオ(エジプト王の称号)は現人神であり、奴隷であるヘブライ人の神をなんとも思っていません。ですから、ファラオはモーセを通して不思議なしるしや災害が起こっても、彼のお抱えの魔術師たちも同様のことをいくつかは出来たし、ますます心は頑なになり、イスラエルの民をエジプトから去らせようとしません。出エジプト記ではそのようなファラオに対し、最終的には10の災いを神様は起こされます。一つ一つの災いが起こるたびに、魔術師をもってしてもそれを除くことができず、ファラオはモーセにお願いして、「民を行かせるから、この災いを止めてくれ」と言いますが、モーセがその災いを祈って止めたとたん、前言撤回「やはり民を行かせない」と、その繰り返しとなります。もし、ファラオがもっと早くにモーセ達をエジプトから去らせていたら、10の災いを被ることなく、エジプトの土地や人々が壊滅的にならずにすんだのです。ファラオは何度も悔い改めの機会が与えられていたのですが、彼の意思で頑迷になっています。一方、このファラオの強情さを用いて、神様は自然を支配できる力を示し、それに対してエジプトの神々は何もできないし、何の役にたたないこと、ファラオも神ではないことを知らしめます。つまり、イスラエルの民とエジプトの人だけでなく、当時の週の世界の人々も、イスラエルの神こそが、まことの主であることを知るようになるために、神様が出エジプトに際しおおいなる業を行われたのです(出エジプト15:15)・
第一の災いはナイル川の水、エジプト中にある水源が皆血に変わり、人々が生活できない状態になり、第2の災いは大量の蛙の発生、第3は大量のぶよが発生し人と家畜を襲う、第4は大量のアブの発生でイスラエルの民が済んでいた区域を除きエジプトの中が荒れ果てると出エジプト記7-8章に記されています。
これらの神様のしるし・災いから、人間が自然自体をとって神々として奉り、祈りを捧げるという行為はなんと空しいことがが示されます。自然のすべても唯一の真の神様が創造されたのであって、たとえその自然の力に威力があって、人間がコントロールできなくとも、天体や海などの自然や動植物は神ではないのです。創造主である神の力の前に、何もすることができない。なぜ人は木や石で作った像を神として、またそこに神が宿るとして拝むのでしょうか。目に見えない神様は、そんな狭いところに住まわれないし、人間に造ってもらわないといられない存在でもないこと、全能な力を持ち、かつ人間と人格的に信頼関係を持つことができる神であること、つまり人間を愛するために創られたことを知ってほしいと願います。その神様の愛は、神の子イエス・キリストに表されています。神様は御子の命を犠牲にしてまで、神様を無視して反抗している私たちをただ慈愛で赦そうとし、そして、キリストが十字架で死んで復活されたことにより、私たちも復活の命が与えられ、新しい生き方をすることができ、いつか天国へと迎えられるという希望が与えられます。出エジプト記を通しても、私たち人類すべての人のための、神様の救いの計画を読み取ることができます。