23章も引き続き19節までは、神様から与えらえた法が記されています。これらの法律が、他の法律と異なる理由は、この法律が人間が平和的に、互いを虐げることなく社会生活の秩序を維持するにあたり、基本的に真の神様が共にいて下さる、人が辛い状況にある場合その叫びを聞き、助け出してくださる方であるという神様のご性質があります。それが示されているのが20章2節「わたしは、主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」です。そのような神様であるから、信頼し、より頼み、その与える法にも従おうと民が応答することが背景にあります。暴君や、専制君主が自分本位に決めた“法”は、民は恐れによってしかしか従いません。また、民主主義で定めた法であっても、自分本位な人は、法律をものとせず、その網の目を破るようにして犯罪を犯します。3権分立と歌われていますが、実際司法権は他から圧力をかけられます。この章の最初は裁判についての法、裁判で偽証してはならないというのは、十戒の「偽証してはならない」に基づいていますが、賄賂を受け取ることも禁止、結局、賄賂や圧力で偽証を人はするものです。神様は冤罪を認めないとはっきり言われています(7節)。また寄留者を虐げてはならないと断言されています。私たちの国が外国から来た方々に対して、平和に、差別や偏見なく接すること、かえって異国という生きにくい環境にある人々を思いやり、配慮することを神様は私たちに求めています(9節)。
次に、安息日と安息の年のことが10-12節に記されています。「土地が痩せる」と言われるように、土地を何年も作物の育成に使い続けると、土地の養分がなくなってしまうので、人が7日目に休むように、土地も7年目は畑に種を蒔かないで休ませること、7年目の時に落穂から自然に生えた物はそのまま置いておいて、貧しい人や獣がそれらのものを食べるようにしなさいと記されます。
そして最後に3大祭りを祝いなさいと記されています。春頃(新年の月の決められた時に)に種を入れないパン(イースト菌を入れないパンのこと)の祭(申命記16章ではこれとエジプトを出た時に行われた過越祭とが結び付けられている)、それから50日後のその年の初めの収穫の祭り、つまり畑に最初に蒔いて収穫した初物を祝う、7週の祭(ペンテコステ)、そして秋の収穫祭(のちに「仮庵の祭」と呼ばれる)を行うこと、また男子は年に3回主の前に出る(聖所に来るという意味)との規定です。この時、子ヤギをその母の乳で煮てはいけないという規定があり(39節)これは、異教の人々が彼らの収穫祭の際に、来年の豊作を願って子ヤギをその母の乳で似て、その汁を畑に注いでいたという行為があったとのことで、それを真似ないようにという意味もあったとのことです。現代においてもユダヤ人の伝統的な習慣を厳密に守る人々は、このことを拡大解釈して、チーズバーガーは食べないそうです。
これらの一連の法規定(契約の書と呼ばれます。出エジプト記24・7)の後に、主はみ使いを遣わす約束が記されています。この「使い」とは天使のことと捉える解釈と、主ご自身の顕現と捉える見方があります。いずれにしても、この「使い」の任務は、イスラエル民が神が与えると約束した地に入るまで、守り導くことです。この「使い」は神の名を帯びているので、民はその人に心を留め、その声に聴き従い、逆らってはならないと、彼はあなたたちの背きを赦さないであろうと記されています。そして、その土地に入ってから、その土地の人々の拝む神々とその民と契約を結んではならないと警告があります。しかし、この警告を聞いても、これらの法規定を守れないイスラエルの民のことが出エジプト記の後半で記されています。それでも、忍耐深い神様は赦して下さり、法を守り切れない人間を救うために、計画を立てられています。神様は愛であり、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。」(コリントの信徒への手紙一 13:4)。聖書は、その壮大な神様の愛の計画が、旧約聖書から新約聖書へと連なって記されいてると言えます。
(新共同訳聖書引用)